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トピック
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始まりは一人の少女からだった。
例えばかつて東京と呼ばれた極東の小国、その首都に目を向けてみよう。
国の中心、あるいは中枢として知られるビル街は21世紀を迎えて久しい今日も尚、ニンゲンが数多往来して日常、もっと言えば文明を体現している。スーツ姿のサラリーマンやOLは忙しなく歩き回り、大通りを見れば無数の車が行き交っている。この蒸し暑い陽気の中でニンゲンの営みは変わらず今も在り、そこは確かに旧来の人類から連なっているはずの日本国であろう。
だが違う。
それは間違いなく違う。
パンパンパン。
響き渡る何かが破裂する乾いた音。それが銃声なのだと知っているか否かとは関係なく、街を往く誰もがそれに気を留めることさえしない。小銃を携えた見窄らしい身なりの男が一棟のビルから走り出てくると共に、周囲のニンゲンを次々と罵るのだ。
お前達は化け物だ。
卑劣な侵略者どもめ。
この国から出て行け。
それを誰も気にしない。たとえ銃口が自分に向けられたとて目をやることさえしない。まるで男の姿そのものが視界に映ってもいないかのように、この場のニンゲン達は普段通りにビル街の中を動き続ける。
パンパンパン。
響き渡る乾いた銃声すら意味を成さない。果たして男の携えた小銃がパッと火花を散らし、放たれた銃弾は一人のサラリーマンの頬を掠めて飛んだ。だがただそれだけだ。銃創も弾痕も残らず、頬から血が流れ出ることすらない。
撃たれると認識された時点で銃弾は何ら脅威になることもなく、撃たれた男性は足を止める様子すら見せずに歩き去って行く。本来の人の世であれば銃という暴力の具現となるべき装置を有して尚、浮浪者の男はこの国において意味も価値も与えられない。
旧世紀の人の技術で作られた銃では、新しい世紀に生きるニンゲンにとって足止めにすらならない。古い時代の人間は、新時代のニンゲンに何ら抗することも許されない。人間を超えたニンゲンには最早銃など何の意味も成さないのだ。人の身であるがままの人型は、最早旧世紀の遺物でしかなかった。
先に撃たれた男性とて単に肉体が頑強というわけではない。それだけの力しか持たないニンゲンではない。
空を飛べるかもしれない。
炎を吐くのかもしれない。
もしかしたら、全てを引き裂く爪や刀を持つかもしれない。
人間であることに加えて何らかのチカラを持てばこその新たな世紀を生きるニンゲン。新世紀を迎えたこの国の国民の生きる道。
それが真理だ。
それが今のこの国だ。
ビルから出てきた警備隊に浮浪者の男が連行されていく。銃を取り上げられながらも、男は相も変わらず口汚く目に映る全てを罵り続けていたが、その羽虫のような男もいずれ我らと同じになるのだろう、行き交うニンゲン達にもその程度の認識はある。
14年前のあの日、全てが変わった。
人間は、こうなった。
誰もが人間でない力を手に入れるようになった。人の身に人以上の力が宿り始めた。数日で大混乱が起き、次々と目覚めていく人間を超えた能力者は僅か一月の間に全てを飲み込まんとするも、やがて元の鞘へと収まっていた。人間を超えたニンゲンにより人間社会は模倣、継続され社会はそれまでと同じように回り始めた。少なくとも対外的にはそう見えた。誰もが人を超えたのであればそれは平等であるはずだから、そこに一切の改革など必要ない。そう考えた。
だが違う。絶対に違う。
先の男のように目覚めない者が少なからず存在する。無力なまま生き長らえさせられている己の存在を呪い憎み罵って、今この世界で生きる“普通の者達”を忌避して、変わらず人のまま今も生きている者達がいる。あの一月の間に目覚めなかった者達は、永劫そのままだった。人為的に自分達と同じにする実験も行われているが成功率は決して高くない。そんな者達が存在する以上、人を超えた自分達は決して人間では有り得ない。人のまま生きる彼らから化け物と揶揄される自分達が、以前と変わらず人間であるはずがない。
だから認めないだけなのだ。目を逸らしているだけなのだ。
我らに恐怖と憎悪を抱く彼らこそが本来の人間であり。
その彼らを放逐してインフラを掌握した自分達は化け物なのだ。
この国はとっくに破綻している。とっくに滅びている。
忘れもしない1999年8月1日。あの少女が目覚めた日。
彼の大王が降誕し世界を終焉に導くと言われた月を超えた瞬間。
我らは滅亡の危機を乗り越えたのだと確信できたはずのその日。
日本は。
人類は。
滅亡したのだ。
第壱章(裏)
「……カズマ、カズマってば!」
ゆさゆさと揺らされて視界がぼんやりと開けていく。
「んだよ、信濃……HRはまだ……ん?」
体を起こすと露骨に頬を膨らませた同居人の姿があった。焦げ茶色のショートカットと如何にも快活そうな印象を見る者に与える八重歯が印象的な少女。
「んんん?」
妙な感覚があった。同居人とは?
何故だろう、カズマは脳裏に浮かんだその単語と目の前にいる少女の姿を比べ、少しだけ違和感を覚えた。物心付く前、15年近い付き合いを続けている幼馴染にして同居人、最も見慣れた人間の一人であるはずの彼女を見て何か違うと感じたのだ。どう見ても男物だろうタンクトップとハーフパンツといった服装の所為でショートカットも相俟って多分に中性的な印象を与える信濃マヤに対して、もっと女の子っぽい奴ではなかったかと失礼な感想を抱いてしまった。
スラッとした体型に男物の衣装は似合っていないでもなかったけれど。
(こいつ……こんな奴だっけ?)
不思議そうに目をパチクリさせるカズマを見て、彼女の顔は更に不機嫌そうに歪む。
「……何、信濃って」
腹の底からヤバいと思わされる低く重い声。それだけで彼女が怒っているとわかる程度の付き合いはある。
「そっかそっか、アンタにとって私はその程度の存在だったってわけ……別に恩を着せるつもりはなかったけど、それでも料理とか洗濯とか一人じゃ何もできないアンタを何から何まで世話してきた私に対して何の恩義も感じてないと?」
「いや、待てマヤ……」
「うっさい! 離婚よ!」
誰が結婚しているのか知らんが、そんなことを喚き散らす信濃マヤ。
「俺が悪かった、少し寝ぼけてたんだ」
「……でしょうね」
素直に謝ったらジト目で返された。
「なに、寝惚けてんの?」
「そういうつもりはなかったんだが」
改めて周囲を眺める。見慣れたオンボロ小屋、愛すべき我が家の一室が視界にはある。
「……なあマヤ」
「何よ、やっぱ離婚?」
「結婚しとらん」
「アンタが判押しゃ進む話よ」
「押さん」
「なんでよ!?」
いつものやり取りをしつつベッドから降りる。
「……俺、どうやって帰ってきた?」
「やっぱ寝惚けてんじゃないのさ」
記憶が断線している。何か妙な夢を見ていた気もするし。
覚えているのは脳漿をブチ撒ける化け物どもとその先で対峙した銀色の女の姿まで。少なくとも今こうして生きているし手足も無事なので自分の足で帰ってきたらしいことはわかる。少なくとも自分達“普通の人”が今暮らすこの集落まではバイクを数十キロ走らせなければ戻ってこられない。
首を傾げているマヤを制して表を見てくると、愛車もまた無事に帰ってきていたので少し安心した。
『何故、こんなことをするのです』
「……っ……!」
ズキリと痛む頭、不意に頭蓋の中に響く声。
涼やかなようで陰湿な色を纏ったそれが脳をズキリと軋ませる。無感情に思えて間違いなく怒りを乗せた声を発した銀色の女の顔が石狩カズマの脳裏を過った。
自分が何者であるかはハッキリしているし、それ以前の記憶を失ったわけでもないから、恐らく記憶の欠落は寝起きによる一時的なものだろう。カズマはそう結論付けようとしたのに、あの女の声と言葉こそがその結論を許さない。
最後に覚えている光景。それはあの女の白銀の瞳に映される自分の姿だった。
明瞭に輝く銀色。それなのに漆黒の闇以上に全てを吸い込むような底知れなさを感じた。無様なことにそれに取り込まれかけた自分を思えばこそ寒気がする。ただ銀一色に彩られた女の瞳は他に何もない虚無の空間だった。右も左もわからず、己の存在すら確かなものに感じられないあの空間にいれば、人間など数秒で精神を壊すだろう。
同時にカズマは思う。その銀の瞳と怒気を孕んだ声音のみに気を取られていたが、あの時あの女は如何なる表情を浮かべていたのだろう?
「ほら、いつまで寝ぼけた顔してんのよ!」
そんな考えもマヤのけたたましい声の前では一瞬で吹き飛ばされる。
「布団干すんだから早く着替える! そして顔洗ってご飯食べる!」
「……へいへい」
「ハイは一回! シャキッとしなさいよ、シャキッと!」
何はともあれ。
こういう彼女の声を聞いていると、無事に帰ってきたのだという安心感に包まれる。
所謂殺し屋家業を始めて長いカズマだが、彼女といる時だけは普通の人間と同じ日常を過ごせている実感がある。自分には帰るべき場所がある、そんな事実は不思議と心地良く全うな人生を送れていない自覚のある石狩カズマという男にも、人並みの幸せという奴はあるのだと思わされる。
人間なら誰もが背中に気を付けて生きなければならないこの時代、そんな幸せぐらいでバチは当たらないはずだ。
「それにしても珍しいわね、カズマが標的を殺し損ねるなんてさ」
目玉焼きと味噌汁を喉に流し込んでいくカズマの前で頬杖を付きつつマヤは言う。
「……誰に聞いた?」
「自分で言ってたじゃん」
何を今更と言わんばかりのマヤの顔を見返しつつ、その間の記憶が飛んでいるカズマはやはりあの女を自分は殺せていなかった事実を知る。マヤが言うには自分は帰還してそれだけを告げると、報告も何もすることはなくベッドで一日半寝ていたということだが。
そこでマヤは「あ、そうそう」と思い出したように一言。
「起きたら報告に来いってさ」
「……誰が?」
条件反射で聞き返すとマヤは「決まってるでしょ」と口にして。
「流さん、待ってるわよ」□ □ □
何百回と足を踏み入れてはいるが、未だに慣れない。
陰気な地下室には煙草の臭いが充満しており、カズマは足を踏み入れる度に顔を顰める羽目になるのだが、部屋の主は「この臭いが心地良く思えたら一人前だ」と言って何年も前から譲らない。曲がりなりにも文明人としての矜持を持っているだろうに、この世界の誰よりも不健康で自堕落な生活を送っているのがこの部屋の主だった。
「ようやく来たようだね?」
机に乗せた足を慣れた動作で床へ戻し、その女はサングラス越しにカズマを見た。
「悪いな流さん、報告が遅くなって」
「ん、構わないよ?」
語尾が上がる妙な口調は昔から変わらない。初めて出会った時のままだ。この薄暗い地下室の中でグラサンは暗くないのかと言いたいが。
播磨流、石狩カズマや信濃マヤの後見人にして親代わり。そして最近知ったことだが、この集落の実質的なリーダーともされる女だった。年齢は20代後半だと思われるがカズマが子供の頃から今と全く変わらない容姿を保っているため、実際の年齢はもっと上かもしれない。いずれにせよ、彼女の前で歳の話はご法度である。カズマとマヤは以前何度か殺されかけたことがある。
「まずは無事の帰還おめでとうと言わせてもらうよ? こうして生きている、そのことが何よりだからね?」
そう言って口の端を上げる流だが、サングラスから覗く目は微塵も笑っていない。
カズマに殺し屋としての心構えや技術を仕込んだのは他ならぬ彼女だ。そんな女だから口ではカズマを優秀だの師として鼻が高いだのと褒めそやすが、目は常にこちらを値踏みして自らの定める基準に達していないと物足りなさそうな色を見せる。親代わりとは言うが彼女から母親としての情を感じたことなど一度もなく、カズマもマヤも彼女にとっては己の目的を達成するための駒か道具でしかないだろうことは重々承知している。
尤も、それに不満を抱いたことはない。荒廃した世界では肉親の情などという不確かなものより、成し遂げたものに見合った報酬を得る単純な図式の方が余程信頼できる。故にカズマは依頼人という意味では播磨流のことを他の誰よりも信用しているし、同時にこのビジネスライクな関係も気に入っていた。
「しかし珍しいな、キミほどの男が標的を仕損じるとはね?」
「……申し開きも無い」
「いや、責めているわけではないのだよ?」
そう言いながら流は引き出しに入っていたリモコンを徐に取り出した。
「見たまえ?」
どうやらテレビのリモコンだったらしい。前世紀のブラウン管が悲痛な音を立てながら画面を映し出すと、ちょうど朝のワイドショーの時間であり東京の大本営の様子が映し出されている。ちょうど二日前、カズマが潜入した場所だった。
自殺者多数。そういう見出しが画面左上には出ていた。
「結果論だがキミのミスが功を奏した……ということになるのかな?」
翠の目をしたキャスターが二日前の晩、大本営に現人神の命を狙う人間の暗殺者が侵入して多数の死傷者が出たことを伝えている。その暗殺者本人であるカズマからすればゾッとしない内容であるが、続けて伝えられた関係者が多数自殺しているという言葉がカズマの気を引いた。
現人神を危険に晒した。子細は違えど皆そのような趣旨の遺書を残し、大本営の関係者が次々と自殺しているのだという。キャスターによれば既にその総数は20人を超えたとのことだ。潜入したカズマが実際に殺した人数を上回っている。
「……理解できたかな?」
我が意を得たり。そんな嫌らしい笑顔で流はカズマの方へ振り返った。
「此度の件でキミは実際に手を下した以上の命に介在したと言えよう? なればこそ私にキミを咎めようなどという気が起こるはずもあるまい? 確かに想定外でこそあったが、キミは私の期待する以上の戦果を上げてくれた事実に変わりはないのだからね?」
ニヤリと醜悪に唇を歪める流が悪鬼のように見えた。
「だが……キミは不満そうだな?」
「そんなことは、無いつもりだけどな」
それでも、自信を持って「無い」とは言い切れなかった。そんな自分が惨めだった。
理解はできても納得はできないというのが正直なところだ。その任務そのものに二次的な効果があろうと、カズマにとって標的を殺せなかったのは事実である。それに何よりも石狩カズマとしてこのような形で連中が命を絶たれるのは到底納得できるものではない。醜悪な化け物としての本性を隠し、人間の真似事をしてこの国を乗っ取った奴らをカズマは絶対に許せない。いつか一人残らず殺してやるために、殺し屋としてのスキルを磨いてきたつもりだ。
それに何よりも、カズマはそうして得たスキルを駆使して彼奴らと相対する瞬間こそが最も自分が充実する時であることを知っている。カズマは奴らを殺すために動き、奴らもまた自分を殺そうとする。そんな極めて単純でどこかプリミティブですらある戦いの状況がたまらなく石狩カズマを興奮させるのだ。
だが先日の自分はどうだ。今の世界を作った元凶、あの白い女を殺せなかった自分は。
記憶の欠損は未だに回復の兆しを見せず、あの時の記憶はまるで靄の中にいるかのように思い出せない。だが現実として今テレビで現人神が暗殺されたというニュースは入っておらず、流にミスと断言された以上そういうことなのだろう。護衛の者を瞬時に片付け、あの女を守る者はいなかった。あの状況で自分が標的を殺し損ねることなど平常であれば有り得ないはずだ。
思い出せるのはあの全てを呑み込まんとする銀色の瞳だけだった。
「……しばらくは休みたまえよ?」
そんなカズマの心中を知ってか知らずか、流の声は不思議と優しい色を帯びていた。
「キミにはまた汚名返上の機会を与えるつもりではいるのだからね?」
それで話は終わり。流は再び足を机の上に投げ出して煙草に火を点けた。
手持ち無沙汰になったカズマはぼんやりと再びテレビに目を向けた。この切迫した事態を前に大本営では程無くして記者会見が行われると伝えられていた。連中のトップはこのような形でしか公の場に姿を見せることはない。現人神とそれに仕える神官などと名乗る時代錯誤な連中を目にする機会があるのはこのような時だけだ。
別段興味があるわけでもない。それでも自分達が生まれた時とこの国が大きく変わったのを見せ付けられているようで怖気が走る。
「相変わらず歴史の流れというものを理解していない連中だな?」
独り言のように呟く流の言葉に内心同意していると、やがてカメラが切り替わり大本営内部の会見場、法衣にも似た白服を纏う虫唾の走る男の姿に舌打ちしていると、最後尾に白い女が座っていた。
以前はテレビ越しでは気付かなかったことだが、やはり記憶通りの非人間的な銀の目がそこにある。何も見ていないように見えて、その実そこに在るもの全てを見通しているかのような瞳。実際に対峙したカズマだからこそ、その異質さがハッキリと理解できる。イカれた神官どもが警備を強化するだの下手人は必ず見つけ出すだのと騒いでいるが、女は聞こえていないかのように顔色一つ変えず真っ直ぐと前を見つめている。
カメラの角度が変わった瞬間、正面を見据える女の視線がブラウン管の向こう側に立つカズマを捉えた。
「……なっ」
背筋を冷たい氷で撫でられたよう。そんなはずはない、そんなことは有り得ないのに、その瞬間だけ女の眼光が一層鋭くなったようにカズマには思えた。まるでカメラの向こう、距離にして数十キロ離れた場所にいる暗殺者の存在を感知したかのように。
カズマに、いやカメラに目を向けたまま、画面の中の女の細い指が自らの首に伸びる。
そこには薄く朱に滲んだ包帯が巻かれていたるようだった。□ □ □
この国が狂い出したのは14年ほど前のことになる。
元々は都市伝説や怪談の類。時速100キロを超えるスピードで走るジェットババアとか道行く人を無差別に襲う口裂け女とか、そんな取るに足らぬ現代の寓話が発端。
しかし我が国がさる占星術師の遺した予言に揺れる前世紀末、それらは現実のものとして認知され始める。口から炎を吐き出す、風の刃で全てを切り裂く、氷の弾丸を撃ち出す、闇を帯びた掌底で心臓を抉り取るなどコンピュータゲーム染みた能力を持つ“人間”が現れ始めた。肉体の一部、あるいは全身を人間以外の動植物に変化させる者も確認されたという。当初、ワイドショーやバラエティ番組の格好のネタでしかなかったはずの彼らは、法には触れぬ形で徐々にその存在を国の中枢にまで浸透させ、来たるべき一斉蜂起の機会を今か今かと待っていた。
それを前に従来の人類は何もしなかった。いや、何も気付かなかったというべきか。皆が対岸の火事、あるいはマスメディアのヤラセだと切って捨て、テレビや新聞から離れれば自分達とは何ら関係の無いものだと思っていた。だから気付かなかったし、気付いた時には何もかもが遅すぎた。
そして来たるべきあの日、時の防衛大臣が会見の場で自らもまた青き炎を操る狼の能力を持つことを明かした瞬間、堰を切ったかのように混沌の時代が始まった。
1999年7月、奇しくも彼の大予言が告げた通りだった。
その時、全国で一斉に立ち上がった能力者──当時は単にそう呼ばれていた──の数は僅か三万人。単純な数の上では瞬く間に駆逐されて然るべき規模でしかない。如何に化け物染みた力を持つとはいえ、元が人間で加えて一般人である以上、近代兵器で武装した機動隊や警察に勝てる道理もなかった。
だが半月も経たずして、その状況は一変する。
何が起きたのか、何が始まったのか。それを知る者は人間の中にはいなかった。確かなことは一つだけ。何かをきっかけとして、暴動は爆発的に加速したということだけだ。
やがて蜂起した能力者の数は当初の数十、数百倍となり既に五百万人を超えていた。果たして何が起こったのかなど誰にもわからなかった。数日前には間違いなくただの人間だったはずの隣人が突如として異常な力に目覚めて襲いかかってきた例が数え切れぬほど報告されていた。
そして政府が本格的な対応に取りかかる頃には、既にそれは暴動ではなく革命となっていた。数の優位性が崩れた以上、自衛隊を出動させても手遅れなことは明白だった。最早誰にも止めることは叶わず、数多の人を超えた力を持つ者達が解き放ったうねりはやがて蛇蝎となり、日本全国を蹂躙した。
まるで幕末の再現だ、臨時国会で誰かが自嘲的に呟いた。
かつて人であった者、だが既に人でない者。彼らに対抗できる手段などない。防衛隊は突如として司令部にテレポートしてきた能力者を前に指揮系統が混乱し、公然と賄賂に手を染めていた政治家は人の心を読む能力者の手で真実を暴かれ失脚した。多種多様な彼らの異常能力を前に、政府は何ら対策を打ち立てることができず混乱の一途を辿った。
程無くして全国各地から雪崩れ込んだ能力者達によって首都東京は瞬く間に占拠され、夜が明ける頃には既にこの国の支配者は変わっていた。長らく象徴として掲げられ続けてきた日の丸は直ちに燃やされ、政庁には翠色に染まった無機質な旗が掲げられた。
そうして、かつて日本と呼ばれた国は滅亡の時を迎えた。
1999年8月1日。
あの大予言が齎した滅亡を乗り越えて迎えるはずだった日。
その日こそが人の視点から見た、この国の最後の1ページだった。□ □ □
「また随分と懐かしい話をするんだね」
銃のメンテナンスを終え、越後ガクトは顔を上げた。
大柄だが黒縁の眼鏡をかけた理知的な風貌のガクトにはカズマが使う武器全般の手入れを依頼している。ところがこのガクトと来たら典型的な引きこもりで殆ど自分の部屋から出てこない筋金入りと来ているので、カズマとしては毎回ガクトが喜びそうな差し入れを持ってくる羽目になっている。
ちなみに今回は東京名物のひよ子饅頭である。
「お前は過去にこだわらない男だと思っていたけど」
「……別にそういうわけじゃないんだけどな」
数刻前、流の部屋で見たニュースで映し出されていた大本営での記者会見。そこに列席する十人の神官どもの中に叔父の姿を見つけただけのことだ。
人類を旧時代の遺物などと豪語する化け物の社会の中で頂点に位置する十人。その中に家族を裏切って死に至らしめるような外道が混じっていること自体、連中の社会の歪みを端的に表していると言える。人間の築いた社会に寄生しているだけの化け物どもなら当然とも思うわけだが。
「……そういえば中国の情勢もヤバいね。北京が陥とされるのも時間の問題って感じだ」
「マジかよ……」
パソコンをカタカタ叩きながらシレッと言うガクトの情報に戦慄させられる。
そう、あの化け物どもは日本だけでなく全世界に現れつつある。この十数年で東南アジアや東欧の小国は次々と彼らの手で日本と同じように政権を乗っ取られている。中国のような大国もいよいよ危なくなってきているということらしい。
「なあ親友」
「……いつから俺とお前が親友になったんだい」
事務的な色でガクトが言う。確かに昔馴染みというだけで、自分達は少なくとも“親しい友”ではないか。
「……?」
それなのに。
何故か違和感を覚えてしまうのはどうしてなのか。
「……ガクト、前から気になってたんだが奴らは全世界で同時に蜂起したんだよな?」
出し抜けに言うとガクトはパソコンから目を離さず「そうだけど」とだけ。
「連中が徒党を組めば人間の軍隊なんざ歯が立たないってのはわかる。常識知らずの奴らを前には規律に縛られた大部隊は逆に無能さを曝け出すってお前の意見もわかる。けど、失礼な話だが軍隊が弱いどころか政府の力が弱い小国なんて世界にいくらでもあるだろ。それなのに最初に連中に乗っ取られたのが、よりによって日本だったのはなんでなんだ?」
「そのことか。……尤もな疑問だね」
珍しく感心したとでも言いたげな声だった。ガクトはそれきり黙って数分キーボードを叩いていたが、やがて振り返るとディスプレイに表示されたグラフを示した。
「これを見てもらいたい」
「……なんだこれ?」
「我が国を含む各国における奴らの人口比だよ。個々に多少の差異があるとはいえ、緩やかな上昇を続けている他国に比べると、我が国は14にハッキリとわかるぐらい爆発的に増えているだろう?」
確かにグラフを見る限り、日本は14年前に一年間で百倍近い増加が見られる。
「知っての通り、奴らは異常能力者だ。極稀に成人に突如その力が覚醒したというケースもあると聞くけど、基本的に力の拡散及び拡大は遺伝によって行われる。故に緩やかな上昇を続ける他国のデータは理屈が通っていると言える。人間と奴らの男と女、どっちが男でどっちが女でもいいけど、とにかくその二人が結ばれて二人の子を儲けたとする。そうするとその子供二人ともに異常能力は発現する。これを繰り返していけば徐々に人間は少なくなり、奴らの数が増えていくというわけだ」
背筋の寒くなる話だがわからないこともない。
瞬く間に国家転覆を達成され、今では人間の方が迫害されている日本では有り得ない話ではあるが、未だ奴らの活動が散発的なテロに留まっている欧米諸国ならば戦うことを良しとせず人間と結ばれるような奴らがいてもおかしくはない。
「ここで問題となるのはやはり我が国だね。この年の我が国における連中の増加率はどう見ても異常だ。もし全国の夫婦が一斉に五つ子を産み、つまり五人の異常能力者が生まれたとしてもこんなには伸びないよ。……そもそも同じ年に我が国は連中に国を乗っ取られている。つまり奴らには赤子では無く、純粋な戦力を増やす方法があったというわけだ」
そこまで言って、ガクトは「ここから先はお前も経験者だと思うけど」と呟いた。
『我々はテロリストを許さない。断固として──』
ガクトがうんざりしたように向けた視線の先、天井から吊り下げられた古びたテレビ。
そこで報道陣に対し、白々しい綺麗事を並べている法衣姿の男を見て、カズマもまた吐き気がした。□ □ □
まだ4歳かそこらだったカズマは、当時の情勢のことなど殆ど何も聞かされていない。
母はカズマが3歳になった頃に病気で死に、父は同時期に行方を晦ました。以後は子に恵まれなかった叔父夫婦の手で育てられた。彼らは本当の親以上にカズマに愛情を注いでくれたし、だからカズマも間違いなく幸せだったはずだ。
それが壊された。たった数日で幸せな家庭は崩壊したのだ。
その日は確か日曜日だったと思う。夕方のニュース番組が流れている頃、台所から叔母が心地良いリズムで刻む包丁の音が聞こえ、叔父は居間のソファに座り月曜日からの新聞をまとめて読んでいた。カズマはそんな叔父のすぐ隣で、何台ものミニカーを手に取って遊んでいたはずだ。
小さい頃から車は好きだった。どうしてあんな大きな鉄の塊が物凄いスピードで走れるのか興味は尽きなかった。叔父はそんなカズマを乗せて色々なところにドライブへ連れて行ってくれたものだ。
『聞こえ…………私は…………』
唐突にテレビからノイズ混じりの女の子の声が聞こえてきてカズマは顔を上げた。
叔父の組んだ足の横から僅かに見えたテレビの画面には、自分と同じぐらいの年頃の女の子が映っていた。気恥ずかしさもあるのか俯き加減な少女の目元はよく見えない。しかし少々たどたどしい口調ながらも毅然とした態度で言葉を紡ぐ少女の姿は、とても自分と同じ幼稚園に通うような年頃のものには思えず、カズマは思わず身を乗り出していた。
だがそんなカズマの視界を叔父の新聞が遮った。
『子供が見るものじゃない』
そう告げた言葉は優しかった。叔父の言うことに間違いはないのだろう。
画面の中の少女は尚も言葉を続けていたようだったが、視界を遮られたカズマには殆ど聞こえなかった。それでもテレビを見つめる内に徐々に怒りを灯していく叔父の表情だけはハッキリと見て取れた。自分に対してはいつだって優しい叔父がこんな顔をすることがあるなんて知らなかった。
やがて叔父は吐き捨てるように『テロリストどもが』と口の中で呟いたようだった。
後になってから知ったことだが、カズマの叔父である松本庵は当時都内の交番に勤務する警察官だったらしい。その頃は活発化する能力者の犯罪の対応に追われており、だとすれば彼らを憎んでいても無理はあるまい。
不愉快だ。そう示すように叔父はテレビを消したリモコンを乱暴に放り投げた。
『おじさん……』
『大丈夫』
怖い顔をする叔父を前に不安になったカズマをどう思ったのか、叔父はポンとカズマの頭に手を置いて笑ってくれた。
『カズマ、お前のことは叔父さんがちゃんと守ってやるから』
そう言って5歳にもなる自分を軽々と抱き上げてくれる姿は頼もしかった。父親の顔も覚えていないカズマにとって、その姿は間違いなく父のものだった。
だがその日以来、少しずつ叔父は変わり始めた。寝ている時に何かうわ言を呟くことが多くなり、また本来とても饒舌だった彼は叔母が驚くほど寡黙になっていった。人の話を聞いていないかのようにボーっとしていることも多く、まるで夜に全く眠れていないかのように両目が日増しに血走っていった。
そして五日後の夕方、その日のことをカズマは今でも昨日のことのように思い出せる。
『ただいまーっ!』
近場の公園で遊んできたカズマはドアを閉めつつ元気な声を上げた。男の子ならどんな時でも元気良くしろと叔父に教えられたためだ。
靴を脱ぎながら気付いたのだが、どうやら叔父も帰ってきているらしい。日が出ている時間に叔父が帰ってきていることは珍しい。居間へ行く前に泥だらけになった手足を風呂場で綺麗に洗っていくことにした。
さて、叔父には何を話そうか。マヤと仲直りしたことか、ガクトに喧嘩で初めて勝ったことだろうか。女の子には優しくしろ、喧嘩は絶対に負けるな。どちらも叔父から教えてもらったことだ。きっと褒めてくれるに違いない。
風呂場を出ると柄にも無くワクワクしながら居間へ続く扉を開けたカズマは、その場で違和感に気付いた。
『えっ……?』
居間に入った瞬間、まるで両肩に鉛を乗せられたような錯覚。
食器棚の中に収められていたはずの皿やコップが宙に浮かんでいる。それだけではなく台所にあるはずの包丁やまな板、ソファやテレビ、果てには食器棚そのものまでもが重力から解放されたかのようにフワフワと浮いていた。傍に浮いていた食器に触れてみると、トンと軽い感触と共に空中を滑っていく。
いつか叔母に買ってもらった本のスチール写真で見たスペースシャトルを思い出した。宇宙では何もかもがこのように浮いてしまうのだ。
『カズ……くん……?』
途切れがちな声。そこで初めてそんな居間の中心に叔母が倒れていることに気付いた。
『お、叔母さん!?』
『来ちゃダメ!』
思わず駆け寄ろうとするも叔母自身の静止で立ち竦むカズマ。その頬をヒュンッと鋭い音と共に何か鋭利な物が薙いだ。
『痛っ……!?』
ピリッとした痛みが走り思わず頬を押さえる。添えた手は血で真っ赤に染まっていた。
後方の壁に突き刺さっている子供用のフォーク。自分が普段使っているそれが今自分の頬を裂いたのだと理解が及ぶまで数秒の時間を要した。いくら5歳の脳でも現実は特撮のヒーローとは違う、目の前で起きていることは如何なる観点から見ても有り得ないことだと本能的に感じ取っている。
呆然とするカズマの視界に背中に酷い傷を負いながらも体を起こす叔母の姿が見える。
『カズくん……逃げて!』
『で、でも……』
『逃げるのよ、早く!』
叔父以上に優しい人だった。どんな時もニコニコ笑顔で、こんな人が本当の母親だったなら良かったなと思わせてくれた人。そんな叔母が今まで聞いたこともないぐらい必死の形相で叫んでいる。その事実こそが自分の命が危険に晒されているということを否応なしにカズマの胸へと突き付けた。
叔母をここに置いてはいけない、それでもこの場所は怖くてたまらない。そんな二つの感情が鬩ぎ合いつつも、それでも少しずつ後ずさりしたカズマは、やがて背中をトンッと何かにぶつけた。
居間の扉かと思ったが違う。優しく自分を受け止めてくれる感触は忘れるはずもなく。
『カズマ……か?』
『お、叔父さん?』
振り向けば扉の前に叔父が立っている。叔母とは違い、特に怪我をした様子もない。
だがどこか様子がおかしい。まるで視界が覚束無いかのように目元を右の手で押さえ、左手で掻き毟られた胸元はワイシャツが千切れかけている。もしかするとカズマの側から見えないだけで何らかの怪我を負っているのか。
それでも叔父が姿を現したことにカズマは安堵した。こんな有り得ない状況も叔父ならなんとかしてくれる、そんな確信がある。
『叔父さん、あの……!』
『離れて!』
耳を劈くような鋭い声。
瞬間、右の足首を引っ張られてカズマは後ろへと引き倒される。そこには必死に這ってきた叔母がおり、カズマは叔母の背中へ倒れ込む形となる。叔母に引っ張られたとカズマが気付いたのはそこから慌てて飛び起きた時だ。
何故こんなことをするのか、そう叔母に問い質そうとした時。
『その人に近付いちゃ……ダメ』
息も絶え絶えの叔母が地面を指差す。
ほんの二秒前までカズマが立っていた場所、そこに無数の刃物が突き立てられていた。
ゾッとした。叔母に引っ張られなければ今頃自分は串刺しになっていたのだとわかる。それでもカズマは気付かなかった、気付こうとしなかった。叔母の言う『その人』が誰を指しているのか、そして今自分を狙った刃物が誰の意思によるものなのかを。信じたくはなかった、目の前の光景は嘘だと思いたかった。
浮いている。包丁にナイフ、フォークにハサミにカッター。
『まさか……』
荒い息を吐き続ける叔父の周りに、その刃物達は浮いているのだ。
『……叔父さん?』
それ以上の言葉が続かない。少しだけ開かれた叔父の瞳、それが禍々しい翠色の輝きを放っていたから。
違う、こんなのは違う。こんな非人間(ばけもの)染みたことを叔父がするはずがない。こんな翠色の目をした怪物が叔父であるはずがない。優しい叔母を傷付けるような化け物がカズマの憧れた叔父であるはずがない。
『カズ……マ』
それでも必死に名を呼ぼうとする様は間違いなく叔父だった。
数多の刃物の矛先がカズマに向けられる。何故こんなことをするのか、何故こんなことになったのか。それらを聞く時間など最初から与えられていなかった。飛来する刃物達は5歳児の体など一瞬で裂くだろう。それでもその際に自分を襲うだろう痛みがただ恐ろしくてカズマは目を閉じた。
刃物の飛ぶ乾いた音が響く。だが来るべき痛みはいつまで経っても感じられなかった。
『叔母……さん』
恐る恐る目を開ければ、そこには自分に覆い被さるようにして刃物から庇ってくれた叔母の姿があった。
『痛く……なかった?』
コフッ。叔母の吐いた血がカズマの頬を朱に染める。
痛いわけがない、だって叔母さんが守ってくれたから。そう答えなければならないのに口が動かない。背中に何本もの刃物を突き立てられた叔母の方がずっと痛いはずなのに、自分が何か言うだけでそんな叔母に報いることができるはずなのに、カズマの口はまるで凍ったように動かなかった。
その様を当の刃物を飛ばした張本人である叔父は呆然と見つめている。
『カズくん……』
カズマを抱く叔母の腕に力が入る。
『……ごめんね』
手を繋いだことはある。背負ってもらったこともある。それでもこんなに強く抱き締められたのは初めてだった。
『カズくんのお母さんが死んじゃった時、カズくんをウチで引き取ることになった時……叔母さん、凄く不安だった。叔母さんにカズくんのお母さんがやれるかなって……私に、ちゃんとできるかなって』
滴り落ちる真っ赤な血がカーペットを黒く滲ませていく。
『ねえ、カズくん……私は、ちゃんとやれた……?』
叔母の手から力が抜ける。ゆっくりと崩れ落ちていく細い体。
物心付かぬ内に死んだ母のことなど覚えていない。だからそれは、石狩カズマが初めて認識した人の死だった。
四肢を投げ出して冷たくなっていく体は、もう人間ではなく単なる肉塊と成り果てる。美しかった叔母が、優しかった叔母が、ただのモノへと変わっていく様を現実として理解できない。彼女は自分を守るために死んだ、自分を庇って死んだ。男の子は女の子を守るものだと教えられたのに、自分自身そういう男になろうと思っていたのに。
崩れ落ちる際、耳元で紡がれた叔母の弱々しい声が忘れられない。
『私がお母さんで……良かった……?』
ずっと叔母さんと呼び続けてきた。カズマはそう呼ぶことが当たり前と思っていたし、叔母自身も事ある毎にカズマに実の母親の話を聞かせてくれたから、そういった点で彼女はどこまで行っても自分にとっては叔母であるのだと勝手に思ってきた。
それでも違ったのだ。ずっと叔母は悩んできた。まだ30歳にも満たない若さで、自分の子供を持ったこともなく別の家庭の子にどう接すればいいのか、どう育てればいいのかずっと考えてきた。優しくすることしかできず、厳しくできなかった。自分は結局、あの子にとって他人なのだと自分から線を引いてしまっていた。
それでも呼んで欲しかったのだ。ただ一言、石狩カズマに言って欲しかったのだ。
『母……さん……っ!』
優しくすることしか知らなかったのかもしれない。それ以外に何もできなかったのかもしれない。それでも実の母親を知らないカズマにとって、叔母が与えてくれたそれは間違いなく母としての愛情だったから。
泣いたことなんてなかった。人前で泣くのは男がすることじゃないと教えられてきた。それでも泣かずにはいられなかった。後悔と自責の念、永久に果たせなくなった謝罪の意を込めて石狩カズマは大声で泣き喚いた。喧嘩で負けた時もイジメられた時も出なかった涙が溢れるのを、何故だか今は止めることができなかった。
そうして涙で滲んだ視界が晴れ、そこには先程と変わらず立ち竦む叔父の姿がある。
『……嘘吐き』
言いたいことはそれだけだ。
叔父に果たして何が起きたのか、何故こんなことを突然したのかなど知らない。目の前の男はただカズマの命を狙い、その結果としてカズマの母で在りたいと願った一人の女性を死なせた。それだけで十分だった。
『カズマ……俺は』
聞く気などない。これ以上話す気などない。
カズマは開いた窓から二階であることも構わずに飛び降り、そのまま疾風のように走り出した。確かな幸せを得ていた家庭に別れを告げることに躊躇いなど無い。5歳児の自分がこれからどう生きていくかなど後で考えれば良いこと。如何なる理由があろうと、叔父とはほんの一秒でも目を合わせていたくなかった。
『カズマぁ!』
叔父の悲痛な叫びが響く。頼む、戻ってきてくれ、カズマにはそう聞こえた。
戻れるわけがない。優しかった叔父の姿が、誰よりも頼もしかった叔父の姿がもう思い出すことさえできない。死んだ叔母がそうであったように叔父もまたカズマに父と呼んで欲しかったのかもしれない。けれど今のカズマに叔父を信じることなどできなかった。
カズマ、お前のことは叔父さんがちゃんと守ってやるから。それは誰の言葉だったか。
『嘘吐き……嘘吐き……嘘吐き……っ!』
仇は必ず取る。自分の〝母〟を殺した叔父を、あの禍々しい輝きを放つ翠の瞳を、石狩カズマは決して忘れない。□ □ □
「……まだ、憎んでいるんだ」
別に配慮の色など無く、ただ興味本位といったガクトの声で我に返る。
ああ、やっぱり自分達は昔馴染み、それ以上でも以下でもなく決して親友ではないなと思いながら。
「そりゃそうだろ……」
思い出されるのはあの日のこと。家を飛び出すまでは良かったが、叔父だけではなくまるで街全員が化け物になったかのようだった。至るところで異常能力が発現し、住み慣れた街は地獄絵図と化していた。
同じように家族または隣人が化け物と化して逃げてきたというマヤとガクトに会えたのは幸運だったと言える。少なくとも一人より二人、二人より三人の方が安心できることは事実だ。とはいえ、三人揃えば文殊の知恵とはよく言うが、所詮逃げたところで5歳児にできることなど高が知れている。
秘密基地としてよく遊んでいた空き地に隠れていた三人は、偶然通りかかった女に救われたのだ。
『……んなとこいると死ぬよ?』
それが播磨流だった。彼女は自分の車のトランクに愚図る三人を押し込み、そのまま猛スピードで車を走らせて栃木県の小集落、後にあの化け物どもからスポットTと呼ばれることになる場所まで三人を連れてきた。
やっていることは事実上の人攫いだが、それによって三人が救われたのは事実だった。
「あの時、何かがあったんだ……」
まるでその事実をカズマに噛み締めさせるかの如くガクトは言う。
「普通の人間に能力を覚醒めさせる何かが……」
つまりそんな能力者がいるということをガクトは言いたいのだろう。確かに道理は通っている。連中の能力と来たら本当に千差万別で、普通の人間には及びも付かない。一昔前には超能力として親しまれたテレキネシスやテレポート、テレパシーを初めとして発火能力者や凍結能力者といったファンタジー世界の住人達まで様々だ。今更どんな能力が来たところでその都度驚かされていたらこちらの身が持たない。
しかし人間を化け物へ変える能力者とは厄介だ。少なくともカズマは頼まれたところであんな化け物どもの仲間入りをしたくはない。
「ん?」
そういえば、と不意に思い出した。
あの現人神などと奉られている白い女も何らかの能力、それも連中に崇められるだけの能力を持っているのだろうか。白い装束とは裏腹にドス黒い本性を内に秘めていそうな女だったが、カズマに銃を向けられながらあの女は能力を使う素振りも見せなかった。それともカズマが気付いていないだけで、既に何か能力を使ったのだろうか。彼女と対峙してから自分の記憶が判然としないことと何か関係があるのかもしれない。
嫌な目をした女だったと思う。見ていると不快な気分になる銀の目の――。
「……銀……?」
そこで猛烈な違和感に襲われた。
違う、あの色は有り得ない。あの化け物どもの目は全て禍々しい翠のはず。叔父があの時見せた恐ろしさすら覚える色を忘れるはずもなく、今までカズマが殺してきた雑兵どもの中にもそれ以外の色の瞳を持つ者はいなかった。現在迫害される人間の集落でも瞳を翠に見せるカラーコンタクトが高値で取引されており、実際にカズマも潜入の際には必ず装用している。
なればこそ、銀の瞳の女などという存在は有り得ないはずなのだ。
「……なあ親友」
「何度言わせる。いつから僕らは親友になったのかな」
「そうだな、なんか言いたくなった」
以前ガクトの方から似たような台詞を言われた記憶があるが、目の前の気難しい昔馴染みがそんな馴れ馴れしく話しかけてくるわけもないか。
「俺、近い内にもっかいあそこに行くぜ」
カズマはモニターへ再び目をやる。
選ばれた神官を気取る数名の男達──最初の蜂起を促した防衛大臣の姿もある──がテロリスト撲滅を謳っている傍に佇む銀色の女の姿を捉えながら。
「流さんの命令かい」
「まあそれもある。……だけど、それ以上に」
知りたいことがある。
そして。
殺したい奴を、石狩カズマはまだ殺せていない。
銀の女の副官のように寄り添う法衣の男。翠色の瞳を持つテレキネシス能力者。叔母を、カズマにとっての“母”を殺した身でのうのうとのし上がり、この国の頂点に立っている外道にして下郎。
かつての叔父を。
松本イオリを、カズマは許さない。□ □ □
「流歌様」
□ □ □
「流歌お嬢様」
□ □ □
「……聞こえています、庵」
「貴女様にはもっと御身を大事にしてもらわなければ」
「石狩君と、話しました」
「カズマと……!」
「可哀想な方、彼は斯様な場所に身を窶すべき人ではなかったでしょうに。本来であれば彼はきっと普通の学生として──」
「……戯れが過ぎますぞ。貴女様の能力はそのようなことに使うべきでは」
「わかっています。これは私の我儘です。……が」
「………………」
「彼はまた来ます。私を……そして貴方を殺す為に。その時、貴方はどうするのです」
「それ……は」「答えなさいI。……いえ、セラフィモン」
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