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トピック
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卒業式のことは良く覚えていない、高校生活の他の日々と同じように、その日は私の人生にとって何でもない日だった。他の全ての364日といっしょくたに混ぜて初めて、抽象的な鮮烈さでもって私1人の胸をやっと打てるような、そんな一日だった。
私の高校は県では一番の進学校だったから、卒業証書授与の時も、呼名への返事でふざけるような奴はいなかった。教師を馬鹿にしてへらへらしていたテニス部員も、SNSでクラスメートの悪口を並べ立てていた女子も、誰もがきちんと通る声で、はい、と返事をしていた。
そして、私はずっと、冷や汗を書きながらうつむいていた。自分の証書を早々にもらい終えて、あとは退屈な時間を居眠りがてらに耐えきるだけだと思ったその瞬間に、気付いてしまったのだ。
この空間をサイアクだと思っているのはきっと私だけじゃない。少なくとももう1人いる、そしてそいつは、この静寂を破るためには、どんな突飛なことだってする奴だ。
「南潟澪音」
教師の呼名が響いて、私はスカートの上に置いた手をきゅっと握りしめた。レインがなにをするつもりか分からないが、多くの場合において彼女のやることはただ突飛なだけ。別におもしろくない。
しらけきったPTAや来賓の視線、生徒の間に広がるひそひそ声、そしてそれを引き起こしたのが知人であるという事実による羞恥。25の自決の手段が瞬時に脳内を駆け巡った。
「はい」
──だから、体育館に響いたのが、びっくりするくらい普通の声だったとき、私は思わず、え、と声を出してしまった。周囲の生徒の視線が集まるのを感じ、私は咳払いでそれをごまかした。
固唾を飲んで見守る私の視線の前で、レインはすっと背筋を伸ばして壇上に上り、校長から証書を受け取ると一礼した。相も変わらずの銀髪に眼帯姿で、保護者からはひそひそ声が聞こえたが、私にとってはその程度は最早問題では無かった。
そうして、ぽかんとしている間に、校長の話が終わり、PTA会長の話が終わり、卒業式は終わった。
私の高校生活は、そんなふうにして終わった。横から来た誰かが勝手に終止符を打って、黒ずんだピリオドだけが手の中に残った。

『あーよかった! 届いたっぽいね!』
「届いたっぽいね、じゃないよ! レイン、どういうこと!?」
パソコン部室に響き渡ったレインの声に、私は声を返す。彼女と話すのは10年ぶりだ。それでも、どう喋ろうか迷うことはなかった。
彼女といるとき、いつも私は何かしらのもやもやを吐き出すように話していたし、そんな風に喋れる相手は、この10年で彼女だけだった。話さなければいけないことが積み重なっていた
「アレ? これ、つながってるよね。うん、うん、つながってる!」
「ちょっと、聞こえてないの? レイン──」
「よぉし! それじゃあ、フゥ、タイヨー。こっちには聞こえないけど、アタシの声は聞こえてるものとして話すから!」
「……はあ?」
一方的に告げられる声に、私はぽかんと口を開ける。未だにPCのモニターは異様な光を放ち続けていて、窓から吹き込む春の冷たい風が唯一現実らしいものだった。
「おいフゥ、やっぱり、レインなのか……?」
私の背後で恐る恐る尋ねてくるタイヨーを振り返る。この非現実が私だけのものではないことを、悲しめばいいのか喜べばいいのか、それすら分からなかった。
それでも、私の直感はまるで揺らぐことはなかった。つまり、南潟レインはこういう唐突で意味の分からない、それも一方的なことをしでかすやつだということ。それは私がこの10年で手に取ってきた何よりも確かな感覚で、時間を追うごとにその強固さを増していた。
「……レインだよ」
「マジかよ。だったらどうして俺たちが来ること知ってたんだ?」
「私が聞きたいくらいだけど、聞けもしないみたいね」
そんな私たちの言葉を遮るように再びノイズが走る。
『2人ともいろいろ言いたいことはあると思うんだけど、アタシからまず一つ。2人にお願いしたいことがある!』
びしっ、と、音が立つほどに勢いよく、レインが私に指をさした、そんな気がした。
『アタシにはやらなくちゃいけないことがある。2人には、それを手伝ってほしいの』
「やらなきゃいけない? 何言ってるのさ」
それが彼女には届かないと分かっていても、私は思わず口に出す。レインの言葉には0.3秒以内に返さなければ、矢継ぎ早に話し続けられてしまうと知っていたからだ。
『やらなくちゃいけないことについては、今は話せないわ。時間があまりないし、話しても分かってもらえないと思うから』
「……なんだ、偉そうに」
『タイヨー、今エラそうだと思ったでしょ。でも本当に大事なのはここからよ』
唇を尖らせたタイヨーが見えているかのようにそう言って、レインは内緒話をするときのように一段声を低くする。
『アタシが手伝ってほしいこと、アタシがやらなくちゃいけないこと、2人はもう知ってるの』
「……どういうこと?」
『ぴんとこないわよね。今は忘れちゃってるんだと思う。だから2人には、まず思い出してほしいの。フゥにタイヨーにクモリ、アタシたち4人の、約束』
「約束……?」
私とタイヨーは顔を見合わせる。
高校時代、レインはしょっちゅう「約束」だの「誓い」だのという言葉を使っていた。私とレインとの間には無数の契約が(半ば一方的に)交わされていて、その一つ一つを覚えていられるわけはない。
でも、4人──タイヨーにクモリまで加わった「約束」はそう多くは無いはずで、どれだけ記憶をさらっても、私にはまるで思い当たらなかった。
『悪いけど、文句は聞けないし、聞かないわ。アタシ、もう2人に賭けちゃったから』
「……」
言葉の意味をちゃんと飲み込む前に、文句がふつふつと喉にせりあがる。でもそのどれもが、筋違いで、言っても無駄で、ただただつぐんだ口の中で、10年物の怒りが胃酸のように喉を焼くだけだった。『フゥ、一旦待って。時間がないからちゃんと聞いてよね!』
レインはきっと私が文句を言ったと思ったのだろう。でも違う。筋違いで、言っても無駄なことなら、今の私は言わずに黙ってしまえる。もう、大人だから。
『このことに関して、アタシは2人にエラそうなこと全然言えないの。思い出せ、とか、運命から逃げるな、とか言えない。これは、あなたたちのいないところで、わたしたちが始めたことだから。でも、だけど──』
あなた、わたし。レインがほとんど使わないような言葉が、熱を持ったエンジンに垂らされた糖蜜のように思考に絡みつく。
『──おねがい、目を逸らさないで』
焦げ付いた私の回路は、その言葉にどんな感情を抱くべきなのかさえはじき出すことはできなかった。
「おい、何言ってんだレイン、せめてもうちょっと説明を──」
困惑した声を上げるタイヨーを無視するように、言葉にノイズが走り始める。
『──お願い────栞を、探して────────』
ノイズはすぐに大きくなり、最後にぷつり、と冗談みたいな音がして、沈黙が部屋に降りた。タイヨーが、ゆっくりと私の方を向く。
「……フゥ、これって」
「か──」
「か?」
「勝手に決めないでよ! いつもいつもさあ!」
大きな声でそう吐き出すと、私は床にへたへたと座り込んだ。久々のレインの声にあふれてきた言いたいことが、それでも言えなかったすべてが、行き場所を失って肺の中で跳ね回っていた。
「……意味分かんない。これ、タイヨーまでグルのドッキリだったりしないよね」
「俺もそう聞こうとしてたとこだよ。でも、俺とフゥが学校で会ったのも、雪代先生に声をかけてもらったのも、偶然だろ」
その通りだ。狙って引き起こせるような状況じゃない。でも、タイヨーの顔はそうは思っていないようだった。
「偶然じゃないよ」
「何を──」
「タイヨーだけじゃない。私も見たんだ。本棚が倒れた日の夢」
「え」
タイヨーは驚きの声を上げてかがむと、私の両肩をつかみ、真剣な顔でこちらの目をのぞき込んだ。
「どうだった。本棚は、倒れたのか?」
「……分からない。レインが棚を倒そうとしたとこで、夢は終わってる」
「そこまで俺といっしょなのかよ」
悔しそうに呟くタイヨーの手に力が入る。大きくてがっしりした、大人の男の手だ。肩に鈍い痛みが走る。「……肩、痛い」
「っ! わ、悪い!」
「ううん。良かった」
「は?」
私は右手を伸ばし、タイヨーが慌てて引っ込めようとした手の上に重ねた。自分で意識したわけでもないのに。手にはぎしぎしと力が入り、指が彼の手に食い込む。
「おい、フゥ、手……」
「私もタイヨーも、自分でわけが分からないくらい本気になってる」
学校に来て気付いた。本棚は倒れたのか、たったそれだけのことなのに、その疑問は私の中で無視できないほどに膨らんでいる。この疑問を解消しないかぎりは、一歩だって進むことができないほどに。
「きっと何をしていても、足が自然に学校に向いていたと思う。私は今日、来るべくしてこの学校に来たんだ。タイヨーもそうでしょ」
「……」
「……偶然じゃないよ」
パソコン部室には現実が戻ってきていた。全てを否定するような静寂が、空間を支配していた。春の風が私とタイヨーの間の永遠を吹き抜けた。
私は彼の手を放し、立ち上がると、ズボンに付いた埃をぱんぱんと払った。私たちをこの場に運んだ奇妙な運命の存在に気付けたはいいが、それを受けて自分がどうすべきかはまるで分からない。とりあえずパソコンの妙な挙動を雪代先生に報告して、それから文芸部室側も覗いてみる事くらいしかできないだろう。
「なあ、フゥ」
「何? 落ち着いたら文芸部の方も行くよ」
「変じゃないか?」
「それはそう。変なことだらけ」
「いや、そうじゃなくて」
深刻さをはらんだ口調に、私は思わずタイヨーの方に顔を向けた。
「静かすぎる、と思わないか?」
その言葉に、私は耳を澄ます。吹奏楽部の演奏はいつの間にか聞こえなくなっていた。小鳥のさえずりも、校庭で練習を刷る野球部の声も。
春の昼下がりの沈黙は、本当に静かだった。そこに生は無く、また死もないように思えた。
●
「こっちはだめ」
「西校舎もだ。職員室にも誰もいなかった」
校舎の東側をぐるりと巡って人がいないか探し、それでも成果ナシのまま昇降口にたどり着いた私を、向こう側からちょうど歩いて来たタイヨーが出迎えた。緊張と落胆がないまぜになった顔を見るに、向こうの結果もこちらと同じだったようだ。
「化学準備室は?」
「見たよ。雪代先生もいなかった」
簡潔な答えとともに首を振るタイヨーに、私は肩を落とす。
「……普通じゃないよね」
「まあ、そうだな」
私たちの言葉は、無人の廊下に、ただただ空虚に響き渡った。言葉の残響がくすんだクリーム色の壁に吸い込まれていくのを一通り見つめて、私は息をついた。
「どうする。勝手に出ちゃう?」
「……そうだな」
「じゃあ、ほら」
私はスリッパのまま玄関に駆け寄って、スライド式扉の取っ手を引っ張る。高校の時から重たい扉ではあったが、私が思い切り体重をかけてもびくともしないのは明らかに異常だった。
「鍵開いてるのに。建付け悪いのかな。タイヨーも手伝ってよ」
「……ダメだと思うぞ」
タイヨーはゆっくりと首を振った。
「校舎を回りながら、窓や裏口の扉が開かないか、片っ端から試してみた。鍵は開いてるのに、どこも開きもしない」
「……」
「その顔だと、そっちもやったんだろ?」
私はまたため息をついて、あちこちの窓を力任せに引っ張って少し痛めた手の甲を撫でた。
「閉じ込められたってこと?」
「そうだな」
「そうだな、って」
私は右手で頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。
「随分と平然としてるじゃんか」
「大事なのはそこじゃないだろ。誰が、とか、どうやって、だ」
「いいえ、一番大事なのは、なぜか扉が開かなくて、私たちがここから一歩も出られない、その事実だと思います」
「分かった分かった」
「ちょっと、ヒスった女相手の対応しないでよ」
「昔通りの態度を取ってるだけだが?」
苛立ちを態度に出す私に、タイヨーは不快そうに眉を顰める。彼がネガティブな反応を見せてくれたことで、私はいくらか落ち着いた。我ながら歪んだ甘え方をしていると思う。
「フゥ、さっきから俺に当たり強くないか?」
「さっきのは別件。許してないけど、完全にこっちの話」
思えば、別に彼がどこに勤めようが、結婚していようが、私には関係のないことなのだ。ただ、高校時代を共に過ごした仲間が分かりやすい安定を手にしていることと、その安定した足場から、当時の私の──今もくすぶっている──青い夢を、安易に良い話みたいに語られてカチンときただけの話だ。
「……やっぱり、許せないんだが」
「俺はどうすればいいんだよ」
「タイヨーには関係のない話ですので、そのままにしといていただければ」
「相変わらず性格悪いな……」
そんな風に昔通りの会話をしていれば、私の呼吸はだんだんと落ち着いてくる。どうしようもない状況を前にしても、会話の中に潜む擦り切れてパウダー状になった過去を吸うだけで、私は馬鹿みたいにたやすく安心できた。
その様子を見て、タイヨーもなんだかしたり顔で表情を緩める。どうせ昔の思い出がこういう状況でも私の心を支えているとかなんとか、都合のいいことを考えているのだろう。斜に構えたふうでいて、安易にアツかったりエモかったりするのが好きな、ごく一般的なオタクなのだ。こいつは別にそれでよかった。
「で、これからどうするの?」
「普通に説明できる現象じゃないだろ、これは。なら──」
「──同じように説明できないこと、レインの通信と関係ある?」
「ザッツライト」
「キモっ」
「そういうのはやめろ。とにかく決まりだ」
タイヨーは心底楽しそうに(異常者?)、小さく指を鳴らした。きれいに音はならず、ぽすっ、というみじめな音が昇降口にこだました。
「レインの言う通りに探そう。“栞”ってやつをさ」
「そんなこと言われてもなあ……」
どれだけ記憶をさらっても、“栞”に関する印象的なエピソードは浮かんでない。
「心当たり、ほんとにないんだけど」
「俺も。というか、レインのやつが言うには、俺たち、何かを忘れてるんだろ」
「……その自覚もないわけだけど」
そう言ってはみたが、心当たりはないでもない。10年も前の話だと思ってきたが、私の高校時代の記憶は妙に断片的だ。
その最たるものが、本棚が倒れた日の記憶だ。倒れかける本棚の姿は鮮明に記憶に残っている。でも、結局本棚が倒れたのか、倒れていないのかという話になると、私はさっぱり答えを出せなかった。
「本棚は──」
きっと同じことを考えていたのだろう。私がそこまで言えば、タイヨーも顔を上げた。
「──思い出せない。倒れたのか、倒れなかったのか」
「それなら、どっちがいいと思う?」
「え?」
予想外の問いに、私の声は裏返る。
「フゥはどっちがいいと思うんだ。本棚が倒れてるのと、倒れてないのとじゃ」
「……」
バカな問いだ。でも、その瞬間の私たちにとって、そこにはは確かに問うべき価値があった。思考を形にしようと脳の裏側が目まぐるしく動く。
「私は──」
語りだそうとした私の言葉は、しかし、突如響いた音にさえぎられてしまった。
静寂の中で内耳が響かせる、甲高いキーンという振動音に、それはどこか似ていた。問題なのは、それが私の内側ではなく外側、私たちのいる1階廊下の端の方から響いてきたことだ。
「何の音だ?」
タイヨーが小さく呟きながら、音の方に目を向ける。その表情が、目に見えて分かるほどにこわばった。思わず彼と同じ方を向いた私も、きっと同じ顔をしていただろう
最初それは、蜃気楼に見えた。見慣れた廊下の景色が妙に揺らめいていることに、脳が明確な説明を付けられなかったからだ。
でも違う、その場所からは立ち上っていたのは、青い煙だった。妙に質量を感じる、濃密な煙。
思い出したのは、子どものころのひいおばあちゃんの葬式だった。葬祭場の妙に橙がかった照明の下で立ち上る線香の煙がたしかあんなだった。
あっけにとられて動けない私とタイヨーの視線の先で、煙は段々と大きくなっていく。つん、と、腐った肉の臭いが鼻をつく。
がりり、いやな音が響く。それが巨大なかぎ爪が床をひっかいた音だと、私は遅れて理解する。
廊下の先が見えないほどに立ちこめた濃密な煙から、巨大な獣の足が覗く。それは、ここではないどこかにつながる門なのだと、思考より先に感覚で理解する。
「あれは……」
そうだ、私は、アレが何か知っている。
「門」の向こうから流れる冷たい空気が頬に触れる。ぱちり、ぱちりと、電子的なノイズが視界の隅に散る。
世界が、銀の獣の鼻先を迎えた。
●
「設定から見直した方が良いと思う」
「何を言うのよフゥ! 良く読みもしないで決めつけないでくれる?」
文芸部室にレインの甲高い声がこだました。本棚の向こうから、うるさいな、というタイヨーの声がする。
私は自分のパソコンをパタンと閉じて椅子をくるりと回し、レインが広げて見せ付けているノートに向き合った。ノートにはびっしりと彼女の創作小説に登場する怪物──デジタル・モンスター──の設定が綴られている。
「……設定から見直した方が良いと思う」
「だーかーら! ちゃんと読んでもいないじゃない! 隙の無い詳細な設定なのよ」
「だから、設定じゃなくて、物語における役割の話」
私は講釈を垂れるように指をピンと立てる。
「電脳世界のモンスターっていう設定はいいとおもうけど、デザインに統一性がなさ過ぎ。デジタルって世界観に甘えて好き勝手しすぎだよ」
「むう……」
「それに、普通に人の言葉をしゃべるのも良くない」
「だってしゃべるし! しゃべって、人間の友達になるんだし!」
「そこ、そこが一番無理がある」
ぎりぎりと歯ぎしりをしながらこちらを睨んでくるレインを横目に、私は講釈を続ける。説教で気持ちよくなるのが品がないのは分かっているが、いつもいつもうんざりさせられているのだ、これくらいの意趣返しをしてもバチは当たらないだろう。
「友達になるモンスターと、そうじゃないモンスターの区別は? 友達として描きたいのか、怪物として描きたいのか判然としないし、そこをハッキリさせとかないとどこかで齟齬が生まれるよ」
「むむ……」
「それに普通に人と同じく意思疎通ができちゃうと、結局物語上の扱いは人と同じになっちゃう。人間も何人か登場させるんだとしたら、結局人間同士の物語になっちゃうんじゃない?」
「ぐえ……」
「せめてしゃべらせるのはやめて、鳴き声にしたら? ピカリピカリとかプリンプリンとか」
「お、もしかしてポ──」
「……待って、タイヨー、それはなんかだめだよ」
私の言葉に合わせてタイヨーが茶々をいれ、それをクモリがたしなめる。レインは頬を膨らませたが拗ねてしまう様子はなく、再チャレンジと言わんばかりにもう一度私にびしりと指を向けた。
「ムリがあってもしょうがないじゃない! 現実だってそうきれいなモノじゃないでしょう!」
「そりゃあそうだよ。現実はきれいじゃない」
私は肩をすくめる。その後頭に浮かんだ言葉は人に聞かせるには少しクサ過ぎる気がしたが、ここは学校の吹きだまりの文芸部室だ。誰に何を聞かれたって構いやしなかった。
「──だから、私たちは物語を書いてるんでしょう」
「……」
その言葉に、彼女の表情がすっと真面目なものに変わる。ありがちなセリフだとは思うが、ずいぶん響いたらしい。単純でけっこう。私は息をつく。
「設定がどうこうとは言ったけど、おもしろい話で私を黙らせるのもアリでしょ。
だからこんどは設定じゃなくて、プロットを見せて」
「……フゥ~!」
「ぐあ、ちょ、抱きつかないでよ!」
狭い部室の中で飛びついてきたレインにバランスを崩しかけ、私は思わず叫ぶ。
「なんだかんだ仲良いよね、あの2人」
「似たもの同士なんだろ」
「タイヨー! クモリくん! 聞き捨てならないんだけど!」
レインの力は強く、息苦しさから、私はじたばたと首を動かす。
彼女の設定ノートに書かれた、蒼い狼の姿と名前が、その拍子に目に入った。
●
「──ガルルモン」
「はあ?」
「あれ、ガルルモンだよ。レインの書いた小説に出てきた」
「“デジモン”ってことか? いや、そうだとして──」
過去の記憶に一瞬歩みの緩んだ私の手を、タイヨーがぐいと引いた。
「──なんでそれが現実にいて、俺たちを追い掛けてくるんだよ!?」
「知らないってば!」
廊下に突然現れた青白銀色の狼は、鼻を鳴らしながら私たちの方に近づいてくる。そのぎらぎらと光るその瞳は私たちに何も語りかけはせず、ただ廊下の床にひびを入れるほどの力強い足取りが、私たちが狩られる側だという事実を伝えるだけだった。
──ごめんレイン、やっぱり喋ってくれた方がやりやすいかも!
全力疾走で逃げてしまいたいとか、クマと同じなら背中向けると余計マズイかもだとか、色んな思考が脳の裏側を駆け回る。
ガルルモンはまだ、獲物の品定めをするかのように、いかにも気のない素振りですたすたと歩いている。後ろ足の筋肉は私の胴回りくらいありそうだ。きっとあの狼には、私たちと駆けっこをする必要すらない。本気を出せばいつだって、今いる場所から人とびで私の喉笛を噛みちぎれるはずだ。
と、廊下の端まで追い詰められた私たちと10メートル弱のガルルモンは距離を置いて、ガルルモンはぴたりと立ち止まった。
「と、止まった……?」
「れ、レインの話のキャラなら、案外話が分かることないか」
「当のレインがこっちの話を分かってくれないのに……?」
「……だな、悪かった」
後ずさる私の背が、運動部の部室棟との渡り廊下につながるガラス戸に触れる。外に逃げられたらいいのだが、さっき見まわった時にここも開かないのは確認済みだ。
左手には階段、右手には職員室の扉がある。視界の端で、濃い緑の掲示板に貼られた薬物禁止の啓発ポスターが揺れる。
不意に狼が、あくびをするようにかぱりと大口を開けた。
「え……」
私たちはぽかんとその様子を見る。歯並び結構きれいだなとか、余計なことを考える。視線の先で、狼の口の中が、なぜかゆらゆらと揺らめく。
あの場所だけ、高熱を帯びているんだ。
私がそう思うよりも早く、タイヨーが職員室の扉を開き、私に覆いかぶさるようにしてそのまま室内に倒れこむ。背後で青い炎がはじけ、破壊音がした。
「『フォックスファイヤー』……ガルルモンの必殺技」
「そういうのがあるなら先に言ってくれ!」
「私も今思い出したんだってば!」
タイヨーに助け起こされ、私たちはなるべく入り口から距離を取るように職員室の奥へ走る。振り返れば、あれほどの破壊音を立てたにもかかわらず、私たちの背後にあったガラスには傷一つなかった。
「レインの小説のキャラなんだろ、あれ」
「だからそう言ってるでしょ」
「じゃ、じゃあ弱点とか知らないか。レインの小説に、書いてたりしなかったか?」
「……」
タイヨーはすがるように、私の目を覗き込んでくる。
「なあ、頼むよフゥ、俺も何冊かは読んだけど、そこにはアレは出てこなかった。お前なら……」
「知らない」
「……は?」
「知らないって言ったの。……レインの作品、読んだことないし」
「はあ!?」
タイヨーの驚きの声と同時に、狼の前足が、職員室の扉を蹴破る音がした。
●
21歳の年の初め、レインが賞をとった。
そのニュースを聞いた時は、単純に驚いてしまった気がする。こと文章に関しては、私は彼女に負けたと思ったことがなかったから。
驚きがあって、それでも素直な喜びがあったと思う。レインはやっぱり、私にとって友達だった。
書店で普段は見向きもしないライトノベルの棚から「イ長調の季節」を買い求め、ワンルームの自室の机の、一番手を伸ばしやすいところにおいた。
それを開こうとして、手を止めて、代わりにPCを開いた。
コントロール、A、すべてを選択、デリート。その時行き詰っていた小説を全部消して、新しく文章を書いた。見下していた友達に先を越された作家志望を主人公にして。
文章の中の主人公は、私よりもずっと苦しそうだった。コンプレックスは、苦悩は、強い方がいいと思ったから。
その文章は、小説とも言えないただの嘘は、私が今まで書いたものの中で一番に評価された。
血で書いたような切実さがあると言われた。
実体験をもとにしているのかな、と言われた。私に会ったのは後ろめたさだっただろうか、作品を評価されたことの喜びだったろうか。とにかく、私は次も似たようなものを書いた。その次も、次の次も。
レインの小説を一度も開かないままに、手を変え品を変え。私の中にあるかどうかも怪しい1の苦悩を10にまで膨らませ、20のドラマツルギーで切り分けた。
そうしていくうちにその地獄は、苦悩は、私のものになっていった。それをどこか心地いいと思う自分が惨めに見えた。そうしたら、そんな惨めな自分をまた題材に文章を書いた。膨らんだ苦悩の中に、本当はそこまで思いつめることのできない、そこまで本気になんてなれない自分がいた。でも止まらなかった。止められなかった。
昔の夢見た自分を燃やして飯の種にする作家の苦悩を描いた。書き上げて、それを飯の種にすらできてない現実の自分に気づいて、吐き気がした。
実体験がなんだと言われたとき、うるせえ、死ねというべきだったのだ。
でも私はそうしなかった。自分で無理やり膨らませた苦悩の中で、地獄の中で、私は案外悪い気分じゃなかった。それがあれば、とりあえずまだ夢見る自分のふりをしていられるから、とっくに夜が明けたことに気づかずにいられるから。
21歳の年の初め、レインが賞をとって、私は死んだ。
●
職員室の扉の木枠が飛び散る。私の背後にいたタイヨーにその大きな破片が当たったらしい。勢いのままに跳ね飛ばされた彼は、そのまま立ち上がらなかった。
「タイヨー!」
呼びかける声が勝手に裏返る。並ぶ教師の机をなぎ倒して、ゆっくりと狼が私に近づいてくる。
ここで死ぬのか、とか、どうしてこんな目に、とか考えて、涙がほほを伝う。それと同時に、私はどこか納得してもいた。だって、私は、とっくに死んでいるのだから。
あの時、レインの小説を読んでいれば。素直に友達の栄光を喜んで、もっと真っ当に奮起していれば、あるいは笑って夢をあきらめていれば。
「……やだ」
口から勝手に言葉が漏れる。作り物でも、苦しみを描くための苦しみでしかなくても、それは私の地獄だった。私だけの地獄だった。
「……ふざけないでよ。ふざけんなよ。レイン」
笑顔なら格好がついたろう。泣き顔なら頷いてくれる人もいただろう。でも、狼の前で私からあふれたのは。子どもみたいな駄々だった。
「自分だけ成功して、連絡の一つもよこさないで。私のこと、急にこんなことに巻き込んでさ。挙句の果てに──」
ああ、そうか、と思う。私は、がっかりしたのだ。
「──“目を逸らさないで”ってなに? いかにもなセリフ吐かないでよ。吐くにしても10年遅いよ!」
もっと、つまんなくてサイテーな、レインだけのめちゃくちゃを、私は期待していたのだ。理不尽な話だ。大人になったのは、きっと私だけじゃないのに。
「……もう、目逸らしまくっちゃった」
一番の友達に報いることのできる唯一のものは、あの日の夢見た私は、もう灰になってかけらも残っていなかった。
狼がまた口を開く、空気が揺らめき、無から青白い炎が立ち上る。
「……助けて」
言葉が口をついて、あまりにも今更だなって、笑った。
●
卒業式の後、行き場所は文芸部室しかなかった。両親は友人との時間がどうたらと余計な気を聞かせて帰ってしまったし、昇降口前は後輩や先生と一緒に記念写真を撮る生徒たちでごった返していたからだ。
そこには、当然のようにレインがいた。
「あ、フゥ! 絶対来ると思ったわ。この部室も最後だものね!」
彼女がそんなありがちなセリフを吐いたものだから、私はカッときてしまった。彼女にずいと迫ると、部室の端まで追いつめて、どんと壁──正確には本棚──に手をつく。
「ひゃ!? な、なにフゥ? 熱烈な別れのあいさつかしら?」
「……なんで何もしなかったの」
「ひゃい?」
「卒業式」
ぽかんと顔を浮かべるレインに、私はぐいと顔を近づける。
「アンタが絶対何かやらかすと思ってひやひやしてたのに、何もしなかったし、心配してる間に式終わったし」
「……なんだ、そういうことね」
「なんだ、じゃないよ──私の高校生活、普通に終わっちゃったじゃん!」
私は恥も外聞もなく叫ぶ。認めよう。フゥが何かやらかして、いつものドタバタが始まると、心の底で、ちょっと期待していた自分がいたのだ。
「普通にしろっていつも言ってたのはフゥじゃない。それにこういう青春の終わり? オトナになっていくのって、あなたがいつも小説に書いてることでしょう」
「やだ……まだ終わりたくない」
「寂しいの?」
「……」
私はこくりと頷いた。小説家になる夢はある。この先の未来に期待することも山ほど。でも今は、この日々にもっともっと続いてほしかった。
「それなら心配いらないわ」
「は?」
「だって、終わらないもの」
俯く私の手を、レインはそっと握る。銀色のツインテールが目の前で揺れる。
「青春が終わるとか、大人になるとか、別にいいけど。それがいつかを決めるのは、あくまでアタシたちよ! あーんなつまんない卒業式で終わったことにされたらたまらないわ!」
「じゃあ、何もしなかったのって」
「あんな式、アタシたちの人生にとって何の意味もないから! これからも青春は続くわ。もうしばらくね──東京、行くんでしょう?」
「……そっちも、ね」
「だったら、別々にはなっちゃうけど。アタシとフゥの青春、第2ラウンド、ね」
「なにそれ」
勝手に表情がほころぶ。くすりという笑いが漏れる。
「アンタとふたりとか、地獄なんですけど」
「いいじゃない、地獄。上等だわ」
「現実はそういう言葉で耐えられるほど、きれいじゃないよ、きっと」
「だから物語を書く、でしょ? それに、耐えられなくなっても大丈夫」
レインが、にこりと眩しく笑った。
「──アタシが、いつでも助けに行くわ」
●
これが走馬灯、というヤツだろうか。忘れていた卒業式の後の記憶がよみがえる。
「レイン、あんなこと、言ったからにはさあ……」
覚えたのは怒りだ。あんなこと言っといて、10年も私を放っておいた、レインへの理不尽にもほどがある怒りだ。でも、どんなに手遅れでも、みっともなくても、怒ったっていいじゃないか。だって、だって──。
「ちゃんと、助けに来てよッ!」
──私の青春に、まだピリオドは打たれていないのだから。
青白い炎が視界を埋め尽くす。熱が皮膚を焦がす。思わず目をつむる。しかし、痛みや熱はなかった。
恐る恐る目を開く。最初に気づいたのは光だ。周囲のデスクに置かれた古いPCのモニターが明滅を繰り返している。
そして、ガルルモンの炎を断ち切った“それ”が、私の方を振り返った。
体中に生えたヤマアラシのようなトゲ、紅い鉤爪、つややかな銀色の体毛。どこまでも青く澄んだ瞳。痛々しい傷があちこちについた体。
いつ見たのかも判然とはしないが、私はそれを知っていた。口が勝手に名前を呟く。
「……フィルモン?」
私の言葉に、そのデジモンが振り返る。
左目に大きな傷のついた顔をほころばせ、“彼女”は、にこりと笑った。
本棚が倒れる。 第三話
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