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トピック
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「アタシたちの人生が一本の映画だったとしましょう」
ペットボトルのスポーツドリンクを大仰な仕草で一口飲んで、レインがそう切り出した。私とタイヨーとクモリ、3人分の沈黙を、6月の雨の音が埋めた。
2年生の6月。その日は前期の中間テストの最期の一日だった。外で降りしきる雨の音と区別がつかないような英語のリスニングと、何を勉強すればいいのかも最後までわからなかった保健体育の筆記テストを午前中で終え、すべてから解き放たれた学生たちはテストの手ごたえを語り合いながら、少し遠方のショッピングモールへと遊びに行ったり、各々の部活に行ったりしていた。
私はといえば、一夜漬けの勉強で眠い目をこすりながら、果汁グミとプリッツを机に並べて眺めながら、アイスモナカを口に運ぼうとしているところだった。いずれも制服が濡れることも厭わずにコンビニにダッシュして買ってきた、テスト明けの自分へのご褒美だ。
そんな格別のアイスモナカと、急におかしなことを言い出したレインとを見比べ、私はもぐ、とアイスを口に運んだ。「……」
レインは私のことを数秒見つめ、近くに無造作に積み上げられた昔の部誌を丸めて筒にすると、つかつかとこちらに歩み寄り、筒を口に当てて、私の耳に向けて叫ぶ。
「アタシたちの人生が一本の映画だったと、するわよ!」
「なっ……急に何!? うるさいんだけど!」
「あんなに華麗にスルーしておいて、よくそんな被害者ぶれるわね!!!」
「ちょっと無視しただけじゃない。いつものことでしょ」
「同志に対してあんまりな言い方じゃない!? なに、そんなにテスト良くなかった──」
「やめて」
「……」
「テストの話は、やめて」しばらく両目に強い意志を込めて見詰めれば、レインは口を両手で覆ってこくこくと頷いた。
「物わかりが良くってなにより、喋ってよし」
「……文学に対する弾圧だぁ」
「文学はこの2週間散々やったの。夏の部誌に向けて3万字の原稿を完成させたから、後で感想よろしくね」
「テスト期間だったわよね?」
「レイン、覚えといて。テスト期間以上に原稿がはかどる時間って、無いから」私はそう言い放つと、優雅に足を組んでアイスモナカを一口かじった。
「……成績、毎回フゥが一番下だよな」
「タイヨーひどいよ。フゥさん、国語はいっつもほぼ満点じゃない」
「現代文だけだろ。こないだ古文と漢文の点差で俺に負けてたぞ」
「……テストって、勝ち負けじゃないよ」
「クモリくん、フォロー諦めないで。タイヨーは後で殺す」本棚の向こうから聞こえてくるタイヨーとクモリの失礼な会話をけん制する私の隣で、話題を封じられたレインはじれったそうにうずうずとしながら、私のプリッツの包みを勝手に空け、3本束にして口に運んだ。
「ちょっとレイン、無許可で3本はやりすぎでしょ。私から私へのご褒美なんだけど、それ」
「テスト期間中も脳の栄養補給っていって、ずっと食べてたくせに」
「はて、なんのことでしょうか」
「まったく、アタシの同志はしかたないわね」レインは聞こえよがしにため息をついて、自分の椅子に戻ると、私の本棚から勝手に持ち出した「高野聖」のページをぱらりとめくって、いかにも物憂げに呟いて見せた。
「──さてさて、アタシたちの人生が1本の映画だったらどうしようかしら」
「おいフゥ、レインのヤツ、今日はいつも以上に不屈なんだが、なんかあったのか」
「知らなーい。テストで頭おかしくなったんでしょ」
「今日のアタシには何言ってもきかないわよ」
「いつもだって大してきいてないくせに」私が肩をすくめてみせれば、本棚を隔てた向こう側でクモリがくすりと笑った。それがなんだかうれしくて、私の口角が勝手に上がる。それが面白くなかったのか、レインは唇をとがらせて、もともとうるさかった声を一段高くした。
「もしアタシたちの人生がね!」
いよいよ強行的に話を切り出したレインに、本棚の向こうでタイヨーとクモリが肩をすくめたのが分かった。言い争いの果てに、最後にはいつもレインの話題に乗せられてしまう。私たちの部活動は、いつだってそうだった。「はいはい、聞いてあげるから少し静かにね。で、なに映画?」
「そう。私たちの人生が2時間の映画だったとしたら、っていう話をしたいの」
「時間まで指定なのね」
「2時間って、“タイタニック”とか?」
「“マスク”とか“ホーム・アローン”もね。とにかく、人生がそれくらいの尺の映画だったらって話」私たちがやっと反応を返したことに気をよくしたのか、レインはぴくぴくと鼻を動かして、話を続けた。
「もしそうなら、今ってまだ、最初の10分くらいだと思うのよ」
「ま、80過ぎまで生きるとしたら、だけどな」
「そう。まだこれから、何が起こるかも分からない。アタシたちはスクリーンにこぎ出したばかりってワケ!」どや顔で胸を反らすレインに、私は苦笑する。彼女がこうやって何か話を切り出すとき、多くの場合は別に話し合いたい議題があるわけではない。単にそれっぽいことをいって自慢げにしたいだけなのだ。でも、それでは部活動にはならない。だから──。
「それって本当に“まだ”かな?」
──私が疑問を投げかる。これが文芸部の“いつも”だった。レインも反論に気を悪くした様子もなく、待ってましたと言わんばかりにこちらに水を向けてくる。
「どういうこと、フゥ?」
「だって、最初の10分って、すごい大事じゃない? 最初の10分死ぬほどつまらなかった映画が、そこから面白くなっていくことって、まあ無いとは言わないけど……」
「ほとんど無いな」タイヨーの言葉に頷くと、私は本棚に横向きに置かれた創作論の本を手に取った。
「前にレインも一緒に勉強したでしょ? 15のビート」
「……なんとなく覚えてるわ!」
「映画を15分割したときに、1番目はオープニング・イメージ、2番目はテーマの提示。見る人を引き付けて、物語の核となる問題を提起する。これくらいは最初の10分でやっとかなきゃいけないわけ」
「……つまり?」レインの問いに、私はひとさし指をピンと立てる。
「17歳の時点で面白くない人生を送ってないと、人生全体を見てもらう前に、観客に帰られちゃうってことね」
「……なんか希望のない話だな」
「僕も、全然自信ないや」
「言っといてなんだけど、私も辛くなってきた。帰っていい?」
「ちょっとちょっと、3人とも!」どこまでいってもこの部室は面白い人生を送っているやつの居場所ではない。先ほどまでの元気はどこへやら、落ち込んでしまった私たちを見て、レインはあわあわと声を張り上げた。
「だ、大丈夫よみんな! えっと……そういうことなら、解決策はあるわ!」
タダのたとえ話だとは決して言わないのが、レインの悪いところで良いところだった。
「さっきのは人生が80年くらいと仮定したらの話でしょう? それなら──」
私を含め、3人の興味がレインの言葉に向く。レインはたっぷり間を置いて、それから自信満々に口を開いた。
「──永遠に生きるのよ! アタシならそうする。そうしたら、ずっとテーマの話ができるから!」
6月の雨がしとしとと降り注ぐ。無音よりも静かなその沈黙に、3人分のため息が重なった。
●
「……フィルモン」
目の前にあらわれた怪物──デジタル・モンスター、その目に刻まれた生々しい傷跡に、私はなぜか昔の、雨の日のことを思い出していた。
──それが栞。あなたは、ちゃんと覚えてる
耳元で声が響く。
──お願い、思い出して。
ぐる、と、地鳴りのようなうなり声がして、私の意識は一気に現実に引き戻された。
ガルルモンは目の前にあらわれたデジモンに驚きつつも、すぐにそれが敵だと判断したらしい。口を開き、さっきよりもずっと早く熱をため込むと、青い炎──フォックス・ファイヤーを放つ。「フィルモン!」
避けて、と私が叫ぼうとしたのに気付いたのか、フィルモンは私の目を見たまま、にぃ、と口角を上げた。その体は微動だにせず、そのまま青い炎の直撃を受ける。
爆音、熱、溶けたプラスチックのいやなにおい。煙の晴れるのを待たず、ガルルモンは牙をむき出しにしてフィルモンに飛びかかった。ぐさり、とか、みちち、みたいな音。私の喉から声に鳴らない悲鳴が漏れる。
しかし煙が晴れたとき、そこで血を流していたのはガルルモンの方だった。組み敷かれたフィルモンが、その鋭く長い爪で狼の腹を貫いたのだと私が気付くと同時に、狼はごぼり、と血を吐き出し、そのまま赤い塵となって消えた。
あっけにとられて声も出せない私の前で、ゆらりとフィルモンが立ち上がる。狼の血を被ったせいでどれほどけがをしているのか分かりにくいが、その鋼のような毛があちこち焼け焦げていて、体がふらふらなのは疑いようがなかった。「……私をかばったの?」
その言葉が果たしてフィルモンに投げかけたものだったかどうか、自分にも分からない。フィルモンはにこりと笑うと、踵を返して、職員室から出て行こうとする。
「待って!」
声を張り上げて呼び止めても、フィルモンは歩みを止めなかった。後ろ姿を見送るその感覚に、なぜだか覚えがあった。
「あなたは……」
続けて呼び掛けようとした私の前で、フィルモンの姿がゆらりと揺らぐ。それが本当か、それとも私の目がおかしいのか判断する前に、私の意識はふっと途切れた。
●
その空は確かに青かったけれど、青空と言うにはちょっと不気味な色だった。
周囲を包む森もそうだった。どこかぼんやりとした、それでいて深みの無い、ロボットが三色だけのパレットで施した点描のような景色がどこまでも広がっている。
そして、不気味な空からは、小さな雨粒が不自然なほどに規則的に降り注ぎ、うっそうと茂る葉に当たって、これまた規則的な雨音を奏でていた。「なんで──はここにいるの? あっちでみんな雨宿りしながらご飯食べてるよ?」
そこに、幼い声が響き渡る。それは私に呼び掛けたものではない。そこに居る別の誰かを心配した声だった。その誰かが、困ったようにふっと笑う。
「僕の分がないからだよ。食料を調達するのに、僕が役に立たなかったから、働かざる者食うべからず、なんだって」
「──とアタシとで、いっぱい木の実採ったじゃない!?」
「そんなの食べ物じゃない、って言われた」
「えー?」不服そうな声と共に、ごそごそという音、そして、ぱくりと何かを食べる音。
「木の実、美味しいのに!」
「ありがとう。でも、エリスモンはここにいない方がいい。僕と一緒に仲間はずれにされるよ」
「いや!」
「みんなデジモンに優しいから、今行けば君の分のご飯はもらえると──うぷっ」
「──優しいワケ、ない!」ぽふっ、と音がする。声の主の口に、何かが放り込まれたのだ。
「これ、木の実……チョコ味だ」
「おいしいでしょ。アタシと──のヒミツね!」
「……ありがとう」その誰かは今にも泣き出しそうに声を詰まらせると、申し訳なさそうに感謝の声を放つ。
「ねえ、エリスモン」
「なに?」
「……その、君に、名前をあげたいんだけど」
「名前?」
「みんなみたいに、ただ、エリスモンって言うのは慣れないんだ」雨音が、へたくそな子どものピアノのように響く。いかにもおずおずといった感じで、その誰かが言葉を紡ぐ。
「……レイン」
何にも囚われていないような、何にも追われていないような、リラックスした声で彼は言った。私は、彼のそんな声をずっと聞いてみたかったはずで──。
「君はレインだ。僕のあだ名と、おそろい」
●
「フゥ! 大丈夫か!」
私の肩を揺すって必死に叫ぶタイヨーの声で、私は目を覚ました。破壊の限りを尽くされた職員室の真ん中で、私は意識を失ってしまっていたらしい。
「良かった……起きたか」
心底安心したように呟くタイヨーの手を借りて身を起こし、私は周囲を見る。ガルルモンがあれほど流したはずの血は、奇妙なことにその痕跡すら残っていなかった。
「なあ、あの狼は? 一体何が──」
「私じゃない」
「は?」
「今のは、私のじゃなかった」私の唇から自然に漏れたつぶやきに、タイヨーが首をひねる。周囲に立ちこめていたはずの血のにおいもなかった。荒らされた職員室の景色は非日常ですらなく、そこにはタダの壊れた日常があるだけだった。

「助けてくれたのか、その──」
「フィルモン」
「フィルモンな。で、“栞”がなんのことかお前に説明した?」
「うん」職員室から内扉でつながった校長室。学生時代ついぞ座る機会のなかったふかふかの来客用ソファに寝転んで、私は頷いた。
ショーケースには高校が受けた表彰状や歴代校長の写真が並んでいる。当時の私たちには何の意味も無いものだった。今の私だってさほど意味は分からないけど、こういうのを置くことが大事な事は、何となく分かる、27って言うのはそういう歳だ。カートはきっとこういうのが嫌だったんだ、と、無意味以上に無意味なことを考えてみた。
頭を打ったタイヨーとは違い私には傷一つ無かったが、情けないことに、さっきの恐怖のせいで腰が抜けてしまい、もうしばらくは歩けそうになかった。「この最近──本棚の夢を見るようになってから、高校の頃のことを思い出すことが増えたの。フラッシュバックするみたいに。この学校に入ってから、その頻度もすごく増えた」
「それが、栞か」
「しゃれた言い回しだよね」しゃれていて、それでいて残酷な言い回しだった。栞、だなんて、そこで時間が止まっているような、まだ続きがあるとでも言うような。やっぱり、私の青春とやらは、まだ終わっていない、ということらしい。
「タイヨーはそういうのない?」
「いいや、本棚の夢は見たけど、それだけだ」私の問いに彼はあっさりと首を振った。とすると、栞を集めるのは実質私の役目、ということになってしまうらしい。
「……昔のことを思い出すのが、なんだっていうのさ」
「レインの考えたことだ。何の意味も無いかも知れないぞ」
「かもね」乾いた声で笑い合いながら、私もタイヨーも、そんなこと本気で考えていなかった。レインのやることが仮にメチャクチャでも、今の私たち、大人になってしまった私たちには大いに意味があるように思えた。
「でもとにかく、俺たちがやるべきことは分かったわけだ。学校中回って、フゥの記憶を呼び覚ます」
「本気?ここにヤバい化け物──デジモンがいるのも分かったとこだけど」
「でも、化け物から俺たちを守ってくれるヤツがいるのも分かった、だろ?」タイヨーの言葉に、私は曖昧な返事を返す。私の前に現れたとき、フィルモンはすでに傷だらけでふらついていた。あの子にこれ以上戦ってもらうことを期待するなんて、とてもできなかったけれど、結局はそれを当てにしないといけないのもまた事実だった。
「とにかく、デジモンたちといつまでも閉じ込められてる状況の方がヤバいだろ。歩けるようになったら、手近な教室から行ってみようぜ」
「……うん」私は頷いて、窓の外に目を向ける。校長室から望むだだっ広い校庭には人っ子ひとり居なかった。相も変わらず春の快晴が続いていて、雨の一滴も降りそうにない。
手がもう震えていないことを確かめて、ゆっくり立ち上がって伸びをする。本棚は倒れたのかな、なんて、同じ疑問がまた脳裏をよぎった。●
「あとはイス下ろすだけだね」
「……あ、うん。ありがとう」夕暮れ時、2階の地学教室に秋の西日が差し込む。2年生の私はクモリと2人で、特別教室特有の小さな木製のイスをテーブルの上に上げて、床を掃き掃除して、再びイスをもどすという重労働を終えたところだった。
正確には、私はその場所の掃除当番じゃなかった。部室に行く途中で、クモリが1人で掃除をしているのを見掛けて、たまらず手伝いを申し出たのだ。彼曰く、誰も掃除に来なかった、ということらしい。「にしてもひどいよね。クモリくん1人に押しつけてさ」
「……文化祭前で、みんな忙しいから」
「だからってさ。私なら誰も来なかったらそのままさぼっちゃうな」
「それは……できないよ」それがクモリの悪いところで良いところだった。私は苦笑する。
「私たちだって忙しいでしょ」
「忙しくは、ないんじゃないかな」
「ちょっと、裏切らないで。私は本気で言ってるから」私が真顔で言えば、クモリはくすくすと笑った。よし、と心の中でガッツポーズをする。
「それとも何、パソコン部ってヒマなわけ? レインの妙な抗議運動のせいで、文化祭でも活動実績作らなきゃいけなくなったの、覚えてるよね」
「僕が一年の活動をまとめた資料を作ったから、部室に貼る予定。あと、当日は部室を開放して、プログラミングを体験してもらう……そっちはタイヨーが」
「えっ、文化祭っぽい……」宿敵にして盟友だったパソコン部においていかれた気がして、私は言葉を失う。
「え、じゃあ私とレインが締め切りに苦しんでるのを、クモリくんとタイヨーはバカにしながら見てたわけ?」
「フゥさん、部誌の作品は書いたんじゃなかった? 前期のテスト期間に」
「没にしたの。テスト勉強から逃げるために書いた小説だなあ、としか思えなかったから」
「それは……その……」
「愚かに見えるよね」
「というか愚かだ」
「正論やめて、刺さる」私が冗談めかして言っても、クモリは憮然とした表情を崩さなかった。
「読みたかったのに」
「……」私はそっぽを向いた。作品を読みたいといってもらえることなんてそうそうなかったから、真顔でそういうことを言われると、どうしても頬が熱くなってしまう。
「……前より面白くするから」
「……うん」
「………」最後のイスを、とん、と机から下ろして、それで掃除は終わり。あとは荷物を持って部室へ向かうだけなのに、私もクモリもなぜか、机に寄りかかったまま動かなかった。
「……あのさ」
クモリが口を開く。彼から話を振るなんて、世界がひっくり返るくらいに珍しいことだった。
「な、なに?」
「……その、文化祭」
「うん」
「さっきもいったけど、僕の仕事は事前準備で、当日の、人の相手は、ほとんどタイヨーがやってくれるんだ。悪いって言ったんだけど、任せろって」
「適材適所でしょ。そういうのはアイツに任せとけばいいよ」
「うん、その、だから……文化祭、結構時間空くんだ」心臓がはねた。
「じ、時間空くと困るよね。スポーツ大会とか、みんな逃げて部室こもってたけど、超ヒマだったし」
「うん。それに今回は、部室が会場だから逃げられないし。だから、その、文化祭回ろうかなって」
「いいじゃん、青春、って感じ」
「で、その、……フゥさんも、一緒に回らない?」世界がぐわんぐわんと揺れた。私は俯いて、自分のカーディガンのボタンの数を4回も5回も繰り返し数えた。クモリの方を向くことはできなかった。彼が私の方を向いていたら、どうすればいいのか、今まで読んだどの本にも書いていなかった。
「わ、私と? そ、それは、どうだろー。クラスの友達とかと一緒に回ったら?」
「……一人もいない」
「そ、そっか」声が変に裏返る。
「でも、そういうのは、す、好きな子とか誘ったら?」
「……」
「文化祭だし、一発逆転、思い出作り。高嶺の花のあの子にアタック、みたいな。クラスの男子も見直してくれるって」
「……だから今、そうしてる」24まで数えてから、ブラウスのボタンがそんなにあるはずがないと気づいた。
意を決して顔をあげれば、こちらを見ていたクモリと目が合う。野暮ったい前髪に隠れた目は、かっこいい、って感じじゃなかったけど、かわいいなとは思えた。「その、どうかな」
こうして隣にいるのに、彼の声はなんだかいつもより遠く感じた。本棚を隔ててすぐ隣にいた私たちの距離は、思っていたよりもずっと近かったのだと気づく。心臓が早鐘を打つ。鼓膜の内側でごうごうと血が流れる音がした。
口を開く。中はからからに乾いていて、喉から熱い塊がせりあがってくる。
「……あ」
その瞬間、甲高い声が私の内側で鳴り響いていたあらゆる音響をかき消した。地学教室の外を歩く女子生徒のものだ。世界が自分のものみたいに喋るその内容はまるで頭に入ってこなかったが、その黄色っぽい笑い声だけで、その時の私には十分だった。
1年次の文化祭を思い出す。あのイエローが廊下中にあふれて、私は息もできなかった。そこをクモリと連れ立って歩く自分を想像してみた。テストから逃げるために書いた小説、って感じがした。「……よしたほうがいいよ」
私はまた俯いて、自分でもびっくりするくらいにはっきりとした声で、そう言った。
「……」
「そういう青春っぽいの、私たちっぽくない」
「……その」
「私のことをどう思ってくれてるにしろ、それってあの部室の中だけだよ。クモリくんもそうだし、私もそう。えっと、なんて言えばいいかな」口調はよどみない。でも、私はやっぱり動揺してたんだと思う。言葉をまるで選べなかった。
「今の、私とレインの2択で消去法されたみたいで、ちょっとイヤだった」
数秒の沈黙の後、ぴんと張りつめていた空気が緩んだ。
「ご、ごめんなさい。嫌な気分に、させた」
顔を上げると、クモリはいつものように背中を丸めて、前髪の中に目を隠している。私とクモリとはすごく近くにいた、でも、いっつも間には高い高い本棚があった。
●
2階、地学教室。すっかり慣れた記憶──“栞”のフラッシュバックが終わった直後、私は思わずその場でしゃがみ込んだ。隣を歩いていたタイヨーが驚いて声をあげる。
「わっ、どうしたんだよ、フゥ? まだ疲れてたか?」
「ううん、何でもない、お願いだから気にしないで」
「いや、気にはなるだろ……」困惑するタイヨーを差し置いて、私は床のタイルとにらめっこする。クモリを振ったことも、その振り口上も、振ったことを今の今まで忘れていたことにも、すべてにドン引きだった。
「私、サイテーだ……」
「お、おい、大丈夫かよ」
「うん、平気、今から平気になるから、なんか関係ない話して」
「無茶ぶりするなよ……」タイヨーは頭を掻いて、それからいかにもいい話題を思いついたとでもいうかのようにピンと顔を上げた。
「そういやフゥ、結局クモリから告白ってされたのか?」
私は思わず立ち上がり、そのままの勢いで非力な拳をタイヨーのみぞおちに叩き込んだ。
「ぐふ、お、おい一体なにを……」
「ありがとう、おかげで元気になった。デリカシーなさ過ぎて逆にデリカシーあるんじゃない?」こいつが営業マンって本気かよと思いながらも、私がこうして立ち上がれたのも事実だ。営業ってサイコパスしかなれないってこういうことか。
「それで、クモリくんがなに? 私に、告白?」
「ああ、うん。したのかなって」
「それをどうしてタイヨーが知ってんのよ。クモリくんから恋の相談でも受けてたわけ?」
「まあ、誰とは言われなかったけどな。それに……見てれば気づくだろ。あれは」うそ、私全然気づかなかった。
「で、その言い方ってことはされたんだな、告白」
「……されたっぽい」
「ってことは振ったのか。フゥとクモリ、付き合う様子も気まずくなる様子もないから、てっきりクモリがしり込みしたのかと思ってたんだが」
「……振ったっぽい」
「なんだよさっきからその言い方」
タイヨーは呆れたように首を振る。同感だ。私も自分に呆れている。できればここいらでやめてほしかったが、タイヨーとしては十年間気になっていた話題らしく、追求の手はやむことはない。「──で、なんで振ったの?」
「男友達から女の子にソレ聞くの。圧かけてるみたいでサイテーだよ」
「そう思ったから当時は聞かずに我慢してたんだろ」こいついい奴なんだよな。
「10年も前のことだよ。理由なんてよく覚えてない、でも」
「でも?」私は記憶の中でクモリを袖にした女の子のことを、まるで他人みたいに分析する。
「……あそこで受け入れてたら、あの部室の中で終わっちゃう気がしたんだと思う。自分の幸せも、価値も」
鼻持ちならない文学少女の考えそうなことだ。あんな狭い場所の中でとつながって、周りからは陰キャカップルみたいに思われて、それでもなんとなく幸せになっちゃうのが、私は嫌だったんだろう。
「バカだね。あの部室以上にいい場所なんて、結局どこになかったのに」
「……だな」タイヨーから同調があったことは意外だった。でもきっとそうなんだろう。タイヨーにとっても、結局はあの部室が、一番幸せな場所だったのだ。
「ねえ、青春ってそうなのかな」
「……どういうことだよ。俺はレインじゃないから、言葉にしないと伝わんねーぞ」
「青春って、結局、狭い世界のことでしかないんじゃないかってこと」40人の学級に、私の青春はなかった。私の青春はみんなの10分の1の、4人の世界だった。
「みんな、自分がそれなりの立ち位置につけたぎりぎりの大きさの場所を、青春って呼んでるだけなのかもって、ふと思ったの」
「……別に、悪いことじゃないだろ」
「悪いことだとは思わないよ。でも、それなら──」私は自嘲気味にほほ笑んだ。昔よりはこういう笑い方も、ずっとうまくなった。
「──やっぱり私、信じたい。あの日、本棚は倒れたんだって」
●
そこはまた、私じゃない誰かの記憶だった。誰かの悲痛な声が響く。
「レイン!」
「……あ、──」
「ボロボロじゃないか。どうして……」
「アタシのパートナーに暴力振るわれて、だまってられるワケないでしょ!」
「そんな、キミがそんなこと……」声に涙が混じる。
「ごめん。僕が君を究極体にできれば、みんなの役に立ててればこんなことには……」
「──のせいじゃない! これはアタシがやりたかったことだからいいの! 負けちゃったのは情けないけど、こんなケガすぐ直るから!」
「……」
「ねえ──、ゴメンね?」
「え?」
「アタシ、強くないみたいだから、──と一緒にガマンすることしかできない。でも、もう少しでこの冒険も終わるの。世界を救って、あんな奴らと関わらなくてもよくなって──」声が、深い優しみを帯びる。
「──は、──の好きなように生きられるから! どんなことをしてもいいし、どんなものにだってなれるの! アタシ、それってすごくステキなことだと思う!」
鼓舞するような、勇ましい言葉。しかしそれに返答する声は、ひどく沈んでいた。
「……無理だよ、レイン」
「え?」
「他のみんなは、きっとそうだ。世界を救ったことを誇りにして、きっと生きたいように生きられる」
「……」
「でも、他のみんなはさ、別に冒険の前から、生きたいように生きてたよ。僕はそうじゃない、帰ったって、冒険に出る前の、ぱっとしない日々が待ってるだけ。暴力を振るわれるのも、仲間外れも、おんなじだ」
「……」
「冒険の後、この世界で救世主としてあがめられて、キミと一緒に生きられるならいい。でも、元の世界に戻って“好きに君の人生を生きていい”なんて、そんなものが報酬なら──」声がくぐもったものに変わる。膝を抱えてうずくまったのだと私には分かった。彼のそういう声を、よく聞いたことがあったから。
「──僕は、世界なんて救いたくない」
●
「──フゥ!」
「え?」タイヨーの声がして、私の体がどんと押される。ぐらりと視界が揺れて、次いで左半身に痛みが走った。
状況の理解は遅れてやってきた。ここは2階の奥の図書室だ。私とタイヨーは昔を懐かしむ話をしながらここにやって来て、レインがよく陣取っていたライトノベルの棚の前に行って、本を一冊手に取って、そこでいつもの“栞”が始まったのだ。
フィルモンと別れたときに見たのと同じ、私じゃない誰かの記憶。それを見て私は立ち往生して、今、タイヨーに体を押されて、横に倒れた。
その理由を考えるより前に、獣のうなりと、ツンと鼻につく腐臭がすべてを説明する。
顔をあげればそこにあの時と同じ狼がいた。違うのはその背丈が天井に着くほどに大きいことと、まるで人間のように2本の足で床を踏みしめていること。
そこまでくれば、レインから見せられたキャラ設定の記憶を探るのは簡単だった。「ワーガルルモン、必殺技は両腕の鉤爪で──」
相手を切り裂く、そこで私は自分が倒れた理由を理解する。身動きが取れない私をタイヨーが庇ったこと、今まさに振り下ろされんとする狼の爪の先に、彼がいること。
「タイヨー!」
私がそう叫んだ瞬間、図書室の貸し出しカウンターのPCモニターがきらめいた。それに反応するよりも先に、ワーガルルモンの体が弾かれ、壁にたたきつけられる。
うめき声をあげる狼は、体のあちこちから血を流していた。今のタックルを決めたデジモンの体に生えた無数のトゲにやられたのだ。私は知っている。針毛を極限にまで鍛えて、フィルモンが進化した──。「──スティフィルモン!」
その体は相変わらずボロボロだったが、図体が大きくなった分、前よりも安心感がある。
「また、助けに来てくれたんだね」
私の呼びかけに、スティフィルモンはこちらを見てニッと笑った。それがまるで誰かみたいで、私の目じりからは自然と涙が──。
ごと、という音で、私の思考はかき消された。音の出どころは私の隣。私もスティフィルモンも、咄嗟にそちらを向く。
「……悪い、やられた」
左肩をかばったポーズのタイヨーと、その足元に転がった────彼の左腕。
「タイヨー!」
私が駆けよるよりも、スティフィルモンが地面を蹴るのが早かった。その拳は固く握りしめられ、先ほど壁にたたきつけられたワーガルルモンに向かう。
しかし、その直線的な攻撃を交わすのは簡単だったらしい。ワーガルルモンはあざけるようにニヒリと笑って、横跳びにスティフィルモンの拳を交わす。その目がとらえているのは私とタイヨー。スティフィルモンの前で私たちを殺して見せるつもりなのだ。しかし、狼の歩みは途中で止まった。狼自身も理解できないというように足元に目を向ける。
ぽたりと血が地面に落ちる。スティフィルモンがその体に生えた赤いトゲを伸ばして、ワーガルルモンの足を床に縫い留めたのだ。「……スティフィルモン」
やった、と言いかけて、振り返ったスティフィルモンの顔に、私の呼吸が止まる。
くりくりと茶目っ気を帯びたその瞳からは、怒り以外の感情が消え失せていた。拳を再び固く握りしめ、そこからもトゲをはやすと、全身全霊でワーガルルモンにたたきつける。ぐちゃ、という音が鳴り響く。ワーガルルモンがその一撃で絶命したのだと、私でさえ分かった。
けれど、スティフィルモンのこぶしは止むことはない。なおも拳を振り下ろし、ぐちゃ、ぐちゃと、狼をただの赤い肉の塊に変えていく。拳を振りかぶった勢いで血が飛んで、私の顔を濡らした。濃い鉄の匂いで、脳の奥がくらりと揺れた。
●
「螺旋、螺旋、螺旋」
生物の授業で見たことのある二重の螺旋が、私を囲んでいる。
いや、私じゃない。これは私ではない誰かの記憶だ。無数に伸びる二重螺旋の鎖、それを見上げて、誰かが低い声で笑う。
「螺旋、螺旋、螺旋。これが可能性だ。分かるかい? このすべてが違う道を選んだ私やキミの歩く道だ。可能性は無数にあって、キミはなんにでもなれる。実に素晴らしいじゃないか!」
しかし、不意にぱきり、と音がして、ほとんどの鎖が砕け散った。あとに残ったのは数本だけ。声が不意に低くなる。
「──ああ、今くだらないと思ったね。その通りだよ。いくつの可能性があったって、無事に伸びていけるのは数本だけだ。途中で砕けるなんてのはいい方で、だいたいは鎖の長さなんて決まっていて、勝手に袋小路に突き当たる。なんにでもなれるなんて、キミの人生に責任を持たないクソのたわごとだ」
情景が変わる。再び二重螺旋の鎖が、今度は8本、伸びていく。
「これはキミたちの鎖だ。7本は迷うことなく伸びていく。キミをイジメていた仲間たちさ。彼らは可能性の話なんて聞きたくないだろうね。だってもう彼らはもう“何者か”で、素晴らしい未来は開けているんだから。で、キミは?」
声の主はあざ笑うように、出遅れた一本の鎖を指でつつく。
「何にもなれやしない。キミは元の日々に戻るだけだ。人生を変えるほどの大冒険をしたのに、キミは何も変わらかなったんだから、このあと社会に出て変わるチャンスがあるわけもない。そうだよね?」
鎖が、ぱきりと砕けた。と、声が不意におざなりな帯びる。
「──僕は、キミの味方だよ。キミと同じ、理不尽に淘汰された可能性の集合体が僕だ。キミがこのまま終わるのを見たくない」
おざなりな、犬か猫でもあやすような甘ったるい声、それでも、その声はどこか甘美だった。
「キミにはキミのやりたい人生をやる権利がある。いじめられた自分、ぱっとしない生活。それはきっと変えられないさ。でもそこに、かわいい女の子がいたら? 夢物語みたいな日常っぽい非日常が会ったら?」
ザザ、思考にノイズが走る。
「なに、後ろめたく思う必要はないよ。人生は映画だ。キミの映画の最初の10分はおよそサイアクで、そろそろ誰かが席を立つころだ。なら、面白くない映画の監督として、キミがすべきことは?」
声の主がにやりと笑う。
「──簡単だ。シアターに外から鍵をかければいい」
●
血の匂いで目を覚ます。いや、目を覚ましてはいない。私は、まだ、誰かの記憶の中にいて、その誰かの視点に立って、悪夢のような景色を見ているのだ。
周囲にはデータの塵と、いくつかの肉塊が転がっている。それが自分を虐げ続けてきた他の子どもたちの遺体だと、すぐに気づく。
「やァ、ありがとうね」
先ほどまで脳裏で響いていたあの甘美な声が、響く。
「あの子たち、強くてさ。キミがいなけりゃ正直負けてた。でも、イジメてた仲間に背中を刺されたんだから、自業自得さ。キミのことは気に入ったよ。──パートナーとの絆も、実に見事だった」
隣で、獣のうなり声がする。
そちらを向けば、紫色の体色の巨大なけものが、その鍵爪を、子どもたちだったものの一つに何度も振り下ろしていた。
醜く、恐ろしい、ラセンの獣。
自分のそばにいてくれた、唯一の友達だったもの。
“僕”にできた、初めての──。
思考がゆがむ。視点の主が、頭を掻きむしって叫びをあげたのだと私は理解する。そのそばで、下卑た笑い声がいつまでも響いていた。
本棚が倒れる。 第四話
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