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トピック
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文芸部室に吹き込む風は、いつだって、大仰なディープ・パープルを含んでいた。別に回りくどい比喩をしようっていうんじゃない。私たちの部室は高校の最上階の4階にあって、同じ階に吹奏楽部室があった。当然防音はされていたけれど、だからいいだろうと言わんばかりにいつも大音量を垂れ流していた。
それだけなら別にいい。うるさいのはうるさいけれど、別に「宝島」や「マードックからの最後の手紙」がどれだけ漏れてきたところで私は気にならない。だけど、ディープ・パープルのロックのアレンジ曲。あれだけはどうしても我慢がならなかった。
私の父は面倒くさいオールド・ロック好きだった。私が流行りの音楽を聴いていても、最近の曲は、とか、そもそも日本の音楽なんて、とかうるさかった。
そんな父のせいで、そもそもディープ・パープルと聞くだけで蕁麻疹が出るところに、あの最悪の吹奏楽アレンジだ。あんなちょっと音が鳴るだけの金属の筒をもちよって、10人か20人かでいっしょくたになってリッチー・ブラックモアのやかましいギターリフを自信満々に奏でて、死にたくならないのかといつも思う。
そういうわけで、その日も、吹奏楽部室から「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイントロが聞こえた時点で、私の執筆は直ちに中断された。もちろん世の中には聞いていても創作の苦にならない騒音もある。今響き渡ったそれは違ったというだけのことだ。
執筆中の原稿がちゃんと保存されているか3度にわたって確認して、ノートパソコンを乱暴に閉じる。せっかくいい感じにはかどっていたのに、空気の読めないラッパ吹きどもだ。そもそもなんだって春休みにわざわざパープルなのだ。というか春休みに練習なんかするな。暇なのか。「いや、それを言ったら、暇なのは私たちか……」
口からそんな呟きが漏れる。一年のどの瞬間を切り取っても、部員僅か2名の文芸部が吹奏楽部より忙しい瞬間なんて見つけることはできなかった。いちおう年度のはじめと文化祭の時期には部誌を発行しているが、追われるようなたいした締め切りもない。
椅子の背もたれに身を預けたまま、本棚に並んだ「おやすみプンプン」を引き抜いて、別に読みたくもないなと机に放りだした。文芸部を名乗っているくせに、狭い部室の本棚には歴代の部員たちが残していった漫画ばかりがやたらにそろっている。「フゥ、何言ってんのさッ!」
その時、そんな甲高い声と共に、背後で椅子のキャスターがぎゃりぎゃりと転がる音がした。私の机の反対側に、ちょうど私と背中合わせになるようにデスクを構えたもう一人の部員が、私のつぶやきを耳ざとく聞きつけたのだ。
ぎゃり、ぎゃりり、キャスターが転がる音は止まる気配がない。私がはっとした時にはもう遅く、もう一人の部員──南潟澪音(ミナガタ・レイン)が座った椅子は、私の椅子の背中と勢いよく衝突した。衝撃に頭がぐらりとゆれる。「ちょっと、レイン、何するの」
「腑抜けた仲間に喝を入れたに決まっているでしょう! フゥはアタシの同志なんだから、ちょっとの騒音で消えてしまうような創作意欲でいられちゃ困るんだって!」頭にぎゃんぎゃんと響き渡る声に、私はうんざりして立ち上がる。ちょっと前まではいちいち怒鳴り返していた私だが、今はもう3年生への進級を控えた春休み。この女と出会って丸2年だ。こういうやり取りだってもう何度もしているし、言うべきことだってもう決まりきってしまっている。
「レイン、ふたつ、伝えておくけど」
私は指を2本立てる。
「ひとつ、私の名前は西島風子(ニシジマ・フウコ)、私のことをフゥなんて呼ぶのは、3歳の時にあったことのある親戚のおばあちゃんくらい。ふたつ、私たちは同志でも何でもない。たまたま文芸部で同級生ってだけ」
「反論がふたつ、あるわ!」レインは椅子から立ち上がって仁王立ちすると、私の仕草をまねて指を二本立てる。
「ひとつ、アタシはフーコよりフゥの方が可愛いと思う。ふたつ、たまたま文芸部の2人だけの同級生になったなら、それはアタシたちを同志だとするのに十分すぎる理由じゃない?」
高らかに宣言して自信満々に鼻を鳴らすレインを、私は冷めた目で見返す。
彼女は今日もアッシュグレーの髪をツインテールにして、左目には(信じがたいことに!)眼帯を付けていた。顔が多少端正だから許されているけれど、とても高校生が真顔でやってはいけないような服装だ。
というか普通に許されてない、教師には会うたびに怒られているし、一度ジャージを貸してもらいに彼女のクラスを訪ねた時も、友達がいる様子は無かった。入学当初は居た私以外の部員や見学に訪れた後輩も、彼女の振る舞いに音を上げて部から去っていた。
確信を持って言えることは、2年間様子を見ていても、彼女がその態度を改める様子がないということ。一昔前のライトノベルのヒロインの悪いところを煮詰めたような強引な言動と振る舞いを、レインは本気でやっているのだということだった。「創作意欲がどうとか言うけど、レインだって、ほら」
私は彼女の机を指さす。そこでは、まっさらなままのテキストファイルが開かれたPCの前で、一昔前の携帯ゲーム機がさんさんと画面を輝かせていた。彼女の好きなロールプレイングゲームの名作だ。
「あ、いやいや、これはね。なんでもないの」
「さぞ執筆が捗ってたみたい」
「いや、ちょっと、資料探しをね、してただけで。王道から学べることって、やっぱりあるじゃない
?」
「はいはい、別に言い訳しなくていいから、先生にだけバレないようにね」
「べ、別に言い訳してない!」レインはしどろもどろになって私の前で手をひらひらと振った。自分の振る舞いを「言い訳」とされるのが辛いのだ。
正直見ていられない。憐れだと思う。病院に連れて行けば、ちゃんと病名を付けてもらえばと考えることもある。それでも、憐れみを持って寛容に接するには、彼女が私に及ぼす被害は大きかった
かといって彼女を完全に拒絶することもできない。結局、クラスに居場所がないのは、私も同じことだったのだ。「新作は本当に考えてたの! これまで重ねてきたファンタジーの集大成となるような大作よッ!」
「はいはい」
「フゥ! なんでそんな興味なさそうなわけ!」
「興味がないからだよ。私ファンタジー苦手だって何度も言ってるでしょ」私は気のない返事を返す。純文学を志向して文芸部に入った私と、異世界を舞台にしたファンタジーを好むレインでは、趣味もまるで合わなかった。
「いやいや、今度は本当に面白いんだって! えっとね、アタシが去年の部誌に載せた話よりも前、是まで書いた中で一番古い時代の話なんだけどさ……!」
「ふうん」レインの話が熱を帯びる前に私は気のない返事を先に置く。いつもそうだ。彼女は物語について、どんなキャラクターが何を繰り広げるかではなく、自分の頭の中にある複雑なサーガのどの部分を占めているかで語る。それが言語として機能する世界がどこかにはあるのかも知れないが、少なくとも私には、そんな話が面白いとも、本質的だとも思えなかった。
「──でね。はじまりの4人の子どもたちと一緒に冒険するモンスターたちは、朱雀、白虎、玄武、青龍がモデルなのね」
「はいはい、もういいよ」
「そう? 聞いてくれてありがとね」レインがとめどなく語る設定に、聞いているこっちが恥ずかしくなる。ディープ・パープルよりももっと酷い。こんなのを毎日毎日聞かされているのだ。彼女への寛容さに限界が来るのも無理は無いと思う。
でも真にサイアクなのはこの後だ。彼女はいつも自分の創作世界について熱心に語る。そして満足すると、私に指を差して、こう言うのだ。「はい、それじゃ次はアタシがフゥの話、聞く番ね!」
「ぐえ……」こいつ、文芸部に所属している以上は私も自分と同じ熱量で創作論を語ることが出来ると思っていやがる。いや、創作論なんてもんじゃない。自分の頭の中の世界に関するタダのオタク語りだ。
そんな話を私は持ち合わせていない。私は日常の心の機微を切り取るような文章が書きたかった。之まで部誌に載せてきた文章も、出来不出来はあれその手の小説を標榜したものだ。
それなのにレインが興味を持つのはキャラクターの身長や体重、詳細な家族構成やイメージカラーみたいな作品上必要の無いパーソナルデータばかり。そんなものは決めていない、意味はないと言っても聞く耳は持ってくれない。
勘弁してくれと言いたいが、彼女にこちらの言い分を理解させるのは彼女と同程度の熱量が必要で、それはいくら何でも恥ずかしすぎる。現状私に許されているのは、無視する、相手にしないといった消極敵対応ばかりで、それらも拗ねたレインにまとわりつかれて執筆を邪魔されるという点で不完全だった。
ただまあ、今のところは、その対応だけで間に合っている。なぜなら──。「おい、文芸部! うるさいぞ」
そろそろだと思ったのと同時に、頭上から怒気をはらんだ声が降ってきて、私は思わずほくそ笑む。レインはきっと怒りを目に浮かべ、部室の西側の壁にある本棚の方に向けて叫んだ。
「はあ? こっちはパソコン部とは懸けてるモノがちがうの! タイヨーにとやかく言われる理由なんてない!」
「さっきから意味分かんないことしゃべってるだけだろ。あと俺はタイヨーじゃない。陽太だ」
「そんなこと知ってるよ。あんまりフツーの名前だから、アタシがひっくり返してタイヨーにしてあげたんじゃん」
「そんなこと頼んでない。人の名前を悪く言うな」ふう、快適快適。レインの興味が頭上から響く声に移った事に満足し、私は椅子にもたれると、スクールバッグから今朝買っておいたグレープ味のグミを取り出した。いつの間にかディープ・パープルもやみ、吹奏楽部室からは不規則な個人練習の音がわずかに漏れてくるのみだ。これでやっと執筆に戻ることができる。
今声を掛けてきたのは松北陽太(ショウホク・ヨウタ)。私達と同じ2年生で、パソコン部の部長だ。さらさらとしたストレート・ヘアの前髪を伸ばした男子で、クラスにも普通に友達がいる(これは当社比だ)。パソコン部なんて有ってないような部活に入っている割りにはいささか真面目すぎるきらいがあり、態度が硬いこともあってレインとは相性が悪い。ともあれ、私にとってはレインを押しつけられる格好のおとり役だった。パソコン部のタイヨーの声が、文芸部室に届くのには世知辛い理由がある。
校舎に部室として使える部屋はそう多くない。かといって、スポーツ系部活や軽音学部の部室がある部室棟は湿気に満ちていて、大量の部誌やパソコンの保管には不向きだ。
創部の時の精神は知らないが、現時点でろくな活動実績のない文芸部とパソコン部に教室を丸々一つ部室として与えるような余裕はなく、結果として両部は、4階の一室を仕切りで分け合う形で活動していた。
私達の部室は一般的な教室より少し狭いくらいの部屋だ。そこに2分割するように背の高いスチールラックが置かれていて、文芸部誌や小説、マンガがみちみちに詰まった本棚として利用されると同時に、2つの部を仕切るのに機能していた。前の扉から入るとパソコン部室、後ろの扉から入ると文芸部室、という具合だ。棚は天井に届くほどではなかったから、上には隙間が空いている。ちょうど上の方で男湯と女湯がつながっている銭湯みたいな具合だ。
そんなわけだから、片方の部室で行われる会話はもう一方に丸聞こえ。文芸部が騒音で執筆を邪魔されて怒ったり、今回みたいにパソコン部からクレームが来たりはしょっちゅうだ。口げんかだけならまだ良い方で、上の隙間を通じてもう使わないマウスや「罪と罰」を投げつけ合う大戦争に発展することもある。まあ要するに、私達もあいつらも暇なのだ。
そんなことを思いながら、私はグミを2、3個口に放り込んでもぐもぐと口を動かし、本棚の向こう側にいる、タイヨー以外のもうひとりに話し掛けた。「クモリくん、グミ食べる?」
「え、あ、フゥさん、いいの?」
「うん。騒がしくしたお詫びね」私は本棚の特装版「風の谷のナウシカ」を抜き取り、そこに空いた特大の隙間からグミの袋を持った手を伸ばした。細い、どこか老人のような指が袋に差し込まれ、おずおずとグミを取り出す。その拍子にその手が私の手に触れて、本棚の向こうの彼は声をうわずらせながら手を引っ込めた。
「ご、ごめん」
「うん? グミ2個取った? それは許さないけど」
「ち、いやそれはちがうよ」
「ならいいけど。どうしたの?」
「……なんでもない」心底安心したようにため息をつくクモリに私は首をかしげた。
彼は東宮久守(トウミヤ・ヒサモリ)。あだ名は名前の読み方を変えてクモリで、これも出合い頭にレインが命名した。彼自身も自信の古風な名前はあまり好きではなかったのかタイヨーのように嫌がる様子はなく、私もクモリ呼びが染みついてしまっている。
とにかく臆病で引っ込み思案な性格で、色白、猫背。いじめられっ子を絵に描いたような少年で、実際に中学では酷いいじめに遭っていたらしい。高校では無関心がそれに取って代わり、この部室だけが居場所になっているようだ。唯一タイヨーには心を開いているようで、部室を同じくしていることから私とも話してはくれる。
ただ、まあ、なんというか、人間、合う合わないはあるもので。「ちょっとフゥ! なんでクモリにだけ? アタシにもグミ寄越しなさいよ!」
「ひっ!」案の定というかなんというか、クモリはレインのことを苦手としていた。というかほとんど天敵だ。私はため息をついて、グミの袋を彼女に差し出す。
「はいはい、いくらでもあげるから、声のボリューム落としてね。タイヨーも……」
「ありがとうフゥ! さすが私の同士ね!」タイヨーにもグミを勧めようとした瞬間、レインは残り数粒だったグミをぐわしとすべて掴み、あっという間に自らの口に突っ込んでしまった。
「あ……」
「声しか聞こえないけど、どうやら俺の分はもうないらしいな」
「”いくらでも”って言ったのはフゥだからね!」
「あとでジュースか何かおごってよ」心の底からの怒りを込めた口ぶりでそう言えば、レインは舌を出してそっぽを向いた。
その反応が少し引っかかって、私は首をかしげる。彼女は普段からむちゃくちゃではあるけれど、こうして私が怒りを明確にすれば、おとなしくこくこくと頷くくらいには空気が読めた。タイヨーとのケンカだっていつものことだが、私が怒ることを承知でグミを全部横取りしてしまうのは、いささか過剰な気がする。「あ、タイヨー、僕のもらったやつ、食べる?」
「いや、別にいいよ。別に元々食べたかったわけじゃないしな。あと、陽太」
「あ、ご、ごめん」本棚の向こうで、クモリとタイヨーがそんな言葉を交わす。レイン式あだ名の感染力はなかなかの物で、この部室にいる人間達は皆お互いを彼女の考えたあだ名で呼び合っている。タイヨー呼びを嫌がっている陽太だって、私のことは「フゥ」、久守のことは「クモリ」と呼ぶ。そんなだから、いっこうにタイヨー呼びをやめてもらえないのだ。
とにかく、この場は私のグミを犠牲にして収まった。痛手ではあるが、そこは後でレインになにかおごらせれば済む話。いい加減に執筆に戻ろうと、私はPCを開いた、のだが。「ちょっとタイヨー! フゥのグミが食べられないとは聞き捨てならないわね!」
今日のレインは止まらなかった。
「ちょっとレイン、私は別に気にしないったら。そもそも──」
「そもそも俺の分をお前が食べたのが原因だろ。いちゃもんつけるな」
「それはそれよ。断り方っていうものを知らないの? あとクモリも!」
「え、その、僕?」矛先がクモリにも向いたことに私は驚き、振り返ると、レインの袖を引っ張る。
「ねえちょっと、レイン、どうしちゃったの」
「もらった物はアンタの物なんだから、気を遣わないで食べなさい」
「え、いやその……」
「はい、それ! そのしどろもどろの態度がまず良くない!」
「ひっ」
「そんなんだから、友達できないんじゃないのよ!」ぴしり、とそんな音がするほどの沈黙だった。ドアの外からは吹奏楽部ホルンの音がのんきに流れてくる。パソコン部側にある窓から吹き込む春の爽やかな風が、私達の間を足早に駆け抜けた。
お前が言うな。その思いで、本棚の向こうにいる私とタイヨーの心は完全にシンクロしていた。普段だったらすぐに怒鳴り出すタイヨーが、3秒経っても静かにしているのが証拠だ。
向こうは私の対応を待っている。私が「いい加減にしなさい」と言いながら本の角でレインを殴り、ここ以外のどこかに連れ出して説教をするのを期待しているのだ。そしてその後部室に残ったタイヨーがクモリをフォローする。
実に完璧なプランだ。丸2年の付き合いというのはこれほどのテレパシーすら可能にするのか。私は感動を覚えながら本棚から分厚い本という名の凶器を取り出す。なるべく固くて重めのやつを探して「失われた時を求めて」に手が伸びた。レインに「そんなんだから友達いない」はクモリだけではなく、タイヨーと私、すなわちこの場にいる全員に突き刺さる最も鋭い刃物だと言うことを思い知らせるには、それだけの質量が必要だったのだ。「レイン、いい加減に──」
「な、なんでレインさんに、そんなこと言われなきゃいけないのさ」かすれた声が部室に響き渡り、私とタイヨーとの間に起こったケミストリーは一瞬で崩壊してしまった。
「クモリくん……?」
「クモリ?」私もタイヨーも、一瞬それが彼の声だと分からなかった。クモリがそこまで声を張り上げることなんて、滅多になかったから。
「レインさんは、僕のこと何も知らないくせに。そんなことを言われたら、傷つく」
クモリはひとことひとことを読点を区切るように発した。ぐうの音も出ないほどの正論だ。私は驚きながらも少し感心する。クモリもやられっぱなしではない、ということらしい。
「そういうこと、ほら、レイン……レイン?」
さすがにこんなしっぺ返しを食らえば、レインも少しおとなしくなるだろう、と彼女を見た私は、ひどく動揺した様子の彼女に、思わず言葉を失った。
予想していなかった反撃を食らった、というだけではない。ぎゅっと握りしめたこぶしをわなわなと震わせ、目にはかすかに涙すら浮かべている。「レイン、どうしたの? 今日ちょっと変──」
「そうやって、そうやって壁を作ってるのがいけないんでしょうがッ!」彼女が、そう叫んだものだから、棚の向こうのタイヨーもことの異様さに気づいたらしい。
「おい、レイン、言ってる事おかしくなってるぞ。おとなしく頭冷やしてこい」
「変なことなんか言ってないし! クモリが分からず屋だから悪いんじゃん。そんな壁で自分のこと閉じ込めてさ」
「レインさんに何が分かるんだよ」
「おいクモリ、お前も頭冷やせ、あんなのほっときゃいいんだから……」タイヨーの説得にもクモリは応じる様子は無い。何かが変だった。言い争いはあれど、居心地のよかった部室に、今は冷たい風が吹いていた。
「どうしようもないことなんだ。ほっといてくれよ。レインさんには関係ないことだ」
その言葉を大砲に詰められてぶつけられたように、レインは一瞬のけぞった。
「……ああ、そう。それなら」
そして不意に意を決したように、前に一歩進むと、両手を広げて、本棚をがしりと掴む。
「その壁とかいうの、倒しちゃえばいいんでしょ」
「は? レインちょっと──」私の制止も遅く、レインは本でぱんぱんに膨らんだ棚を、両の腕で押し始めた。固定はしっかりしていて、詰め込まれた本で棚自体の重量も相当なもの。彼女が少し動かしたくらいではびくともしない。それでも、棚が少し揺れたことで、彼女がやろうとしていることは向こうにも伝わったらしい。
「ちょっとレイン、何考えてるの!」
「おい、マジでイカれたかよ!?」
「そんなことしても、意味ない」
「クモリも煽るな! 今日どうしたんだよ……?」焦りよりも困惑が勝つような口調でタイヨーがつぶやく。レインが力を緩める様子は無く、棚の上の方から誰かが全巻揃えた「ソウルイーター」のコミックスが床に落ちて散らばる。
「2人とも、そんな喧嘩がしたいなら廊下に出てしてよ!」
「やだ! 絶対にこれ倒す! そんで、クモリがどんな顔であんなこと言ったか見てやる!」
「それなら廊下を回って向こうの部室に行きなって!」
「勘弁して、僕に構わないでよ」
「クモリくんも黙っててよ!」私は悲痛な声でそう言うと立ち上がり、レインを羽交い絞めにしようとした。しかし彼女の細い腕にこもった力は驚くほど強く、私一人の力ではどうしようもない。
「邪魔しないで、絶対に倒してやるんだから!」
「力つよっ! タイヨー! こっち来て止めて!」
「はぁ? いやいや、え、マジ……?」
「混乱してる場合じゃないから!」レインと揉みあいながら私がそう言った瞬間、レインの腕からふっと力が抜けた。
「──あ」
「おいおいおい。やめろよ、こっちにはパソコン周りの機材とかいろいろ──」ぐらりと傾いた本棚に、タイヨーの早口が止まる。下敷きになったらどうなるか分からないくらいの重量がある棚に、自分の身の安全の確保がどんな機材より大事だということに思い当たったのだろう。
レインといえば、自分の手を離れて傾きだした棚に勝ち誇った顔をするでもなく、身を乗り出して、また一息、力を込めた。最悪だ、終わった。
説教、弁償、廃部。これから起きるであろう惨事が目の前で走馬灯のように展開され、私は思わず目をそらす。
そして、私たちの前で、私たちを隔てていた本棚は、音を立てて倒れ──。
●
がばり、と私は飛び起きた。そこは少し硬いベッドの上で、隣で寝ていたらしい飼い猫が、起きるときはひとこと言え、と言わんばかりににゃあ、と鳴いた。
時計を見れば10時30分だった。遅刻だ、と血液が一瞬で沸騰したような感覚に襲われるが、ここが実家だと思い出して、その熱は安堵と共に急速に失われていく。東京での仕事を辞めて盛岡に帰って来てからもう2週間になるが、この習性はなかなか抜けてくれそうになかった。
もぞもぞと寝床から這い出す。寒さを感じることはなかった。3月も後半になり、盛岡も暖かい日が続いている。昔はこの街ももっと寒かった気がするけれど、それすら私の気のせいかもしれない。
大きく伸びをして、猫を撫でる。大学に行くために盛岡を出た18のころから、この部屋は変わっていない。本棚には何度も繰り返し読んだ本たち、アーヴィングの「ガープの世界」は半分飛び出した状態で制止しながら、次に開かれるときをもう何年も待っている。CD棚にはくるりやスピッツのアルバム。私の青春はサブスクリプションが隆盛を極める前の、CD最後の時代の中にあった。こんな部屋で寝ているから、あんな夢を見るのだろうか。
私は息をつく。2年生の春休み、17歳だった私と、レインとタイヨー、クモリの夢。レインが過去に類を見ない暴走を見せたあの日の夢を、実家に帰って来て以来、私は頻繁に見ていた。夢はいつも、まさに本棚が倒れる、その瞬間で終わっていた。
あれからどうなったんだっけ?
記憶をどれだけさらっても、その先は思い出せなかった。あんな風に本棚を倒したのなら、全員そろってこっぴどく怒られたはずだし、レインとクモリの間にも確執が残ってしかるべきだと思うが、そのあたりの記憶はない。きっと酷い思い出すぎて脳が勝手に消去したのだろう。
あるいは、ただ、何の理由もなく忘れてしまったのかも。無理もない。だって私はもう27歳で、今年で28歳になる。あの春の日から、10年もたつ。高校時代のことなんてのは薄もやがかかってよく思い出せないという点で、2歳の時の思い出と変わらない。「フゥちゃん、ご飯できてるけど。そろそろ起きたらー?」
居間から聞こえる母の声に、私は立ち上がる。あの頃の自分は他人のようだった。私は他人がしまい忘れた他人のCDを手に取り、手で埃を払うと、他人のCD棚に戻した。
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「疲れすぎちゃったのよ。無理もないわ、東京ってそういうとこだもの」
母はそう言って、私に目玉焼きとベーコンを挟んだイングリッシュ・マフィンを勧めた。言われるがままにかぶりつけば、半熟の卵の黄身が唇の端を伝って落ちていく。
「とりあえずはゆっくりしたら? もう新年度始まっちゃうし、来年の4月にはこっちで職見つけられたらくらいの気持ちでいたらいいのよ。父さんも定年まであと数年あるしね」
あ、当然家事はやってもらうけどね、といって母は優しく笑う。いい母さんだ。家には決して余裕があるわけでもないだろうに、私の上京に反対したことをおくびにも出さず、帰ってきた私を何も聞かずに受け入れてくれている。
母はきっと、私が過労か職場でのパワハラに疲れて仕事を辞めたと思っているのだろう。わざわざ訂正するつもりはなかった。別に正確を期したところで理解はしてもらえないし、傷ついて、疲れて帰ってきたのは嘘ではないのだから。
それに、本当は作家の夢を諦めてなかったんだけど、いよいよ限界を思い知ったの。なんて言って笑われでもしたら、私は立ち直れる気がしなかった。テレビは10時台の情報番組をやっていた。お笑い芸人がメインの、ほとんどバラエティ番組みたいなやつだ。新しく日曜の朝9時から始まるというアニメの宣伝か何かをやっている、なんでも人気ファンタジー小説が原作で──。
「レインちゃんすごいわよねえ。シリーズ累計1000万部、とか言ってたわよ」
ああ、私は息をつく。そうなんだよねと、心の中で呟く。心の中で呟いて──。
「……昔から、レインは天才だったから」
──あの日の私も、レインも、その一言でまとめて殺した。
私を元気づける足しになると思ったのか、なおもレインの話を続けようとする母に曖昧な相槌を打ちながら、残りの朝食を急いで詰め込み、オレンジジュースで流し込む。手早く食器を洗い、今日は夕方まで帰らないかも、と言って、トートバッグだけ持って外に出る。
春の太陽は眩しかった。うららかな陽気に、花の匂いが鼻腔をかすめる。私はアパートを出て、裏手の駐車場に回ると、周囲に人がいないか確認することもせずに、ひどく嘔吐した。
イングリッシュマフィンとオレンジジュースだったものがびちゃびちゃと音を立てて散らばっていく。胃の中が空っぽになった後も、私はなんどかげえっとえづいて、それから目じりに浮かんだ涙をぬぐった。「……私は、そんなにいいとは思わなかったけどな。『デジタル・モンスター』」
今では誰もが知る小説のタイトルを口に出す、それがあの日にレインが語って聞かせてくれた物語と接続してるなんて、とても信じられなかった。当たり前だろう。あの頃から私は一度だって、本気でそれを読んだことなんてなかったから。
でももう、何でもないことだ。あの頃のみんなとは卒業後一度も話していない。そもそも当時から互いの連絡先だって交換していなかったのだ。私たちの時間はあの半分に割られた部室の中にあって、そしてもう終わって、二度とは帰ってこないのだ。「……今日は、ハロワ行かなきゃかな」
母さんはああいうけど、ちょっとくらい働かなきゃだし、と自分に言い聞かせるように口に出す。
春風が吹く。
あの日、結局本棚は倒れたんだっけ。口内の酸っぱい感触とともに、そんなことを考えた。
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