デジモンに成った人間の物語 第二章の④ ー友の為ー

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    ユキサーンユキサーン
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      横方向に渦を巻いた水流が、電気を帯びて風船のように爆ぜる。

      大量の水が壁や床を叩く、雨にも似た音が屋内に響き渡る中、赤い竜人――司弩蒼矢は立っていた。

      彼が背後へと振り向くと、その視線の先には敵対者たる黒い礼服を身に包んだ『組織』の男が、意識を失い仰向けに倒れていた。

      その有様は、赤い竜人と炎の魔人の戦いの勝敗を明確に示していた。

       

      「…………」

       

      雨音が途切れ、行使した技の影響で水浸しとなった屋内には静寂が訪れていた。

      敵対者である魔人が意識を失い、元々の姿であった人間の姿に戻るとほぼ同時に、彼の能力で辺りに満ちていた副産物たる冷え固まった鉄は最初から存在しなかったかのように消えていた。

      溶鉄を口から吐き出していた魔人が元に戻ったことによる影響だろうか。

      この分だと、竜人が元に戻った場合も同じように足元を浸している雨水が消えたりもするかもしれない。

      ……その事実自体も、あるいは重大な謎に関わる話なのかもしれないが、今の司弩蒼矢にとってはどうでもいい事だった。

      彼は魔人を倒しこそしたが、その姿を元の人間の姿に戻そうとはしない。

      まだ、この竜人の姿でやらねばならない事があるからだ。

       

      (あの二人の安全を確保するまで、安心なんて出来ない。まずはどこに向かって逃げてくれているのか、調べて動かないと……)

      『アテはあるのか?』

       

      蒼矢の呟きは思考という形でしかなかったのだが、応じる声が脳裏より在った。

      彼に宿っている(らしい)、リヴァイアモンと名乗る怪物の声だ。

      蒼矢はその声に対して、頭の中で自らの言葉を紡ぎながらも行動する。

       

      (この男が本当に何らかの『組織』の一員として動いていたのなら、仲間と連絡を取るために電話ぐらいは持っているはずだ。まずはそれを……)

       

      蒼矢は目の前の、自らの技を受けて倒れ付す男の衣類に目をやると、それなりに高価に見える黒い礼服と同じく黒一食で薄そうな生地のズボン――そのポケットに右手を突っ込んでいく。

      その手が何か固いものに触れ、目当ての物が見つかったと判断した蒼矢は竜人の手でうっかり壊してしまわぬように『それ』をポケットから慎重に取り出す。

      取り出したものは、高校生として周りの人間達が手にしているのを見た事がある、割とありふれた型のスマートフォン。

      その画面を見て、空いた左手で触れると、蒼矢の表情が曇った。

      反応が無かったらしい。

       

      (……壊れてる。無理も無いか……)

      『正直機械に詳しくは無いんだが、あんだけの攻撃をぶっ放しておいてこんな薄っぺらい板みたいな物が何事も無いってのは考えにくいな』

       

      試しに電源キーを長く押し続けてみるが、電源が点く気配は無い。

      蒼矢自身予想していない可能性ではなかったが、魔人と化していた男が所持しているスマートフォンは既に壊れていた。

      戦闘の過程で魔人の体ごと水没させてしまったからか、魔人に向かって電気を用いた攻撃を直撃させたからか、あるいはそもそもずぶ濡れの手で触れてしまったからか――様々な可能性は考えられるが、恐らく濃厚なのは二番目の可能性だろう。

      近頃のスマートフォンは防水機能が付与されている機種が多く、むしろその機能を有さない機種を探す方が難しい。

      一方で、防電機能を備えたスマートフォン――及び機械など避雷器ぐらいしか聞き覚え自体が無い。

      そもそも常識の話として、10億ボルトの電圧を誇る自然の雷が電線に命中すると、充電中の携帯電話を含めたコンセントを繋いで機能させる家電製品が壊れてしまう可能性があるとさえ言われている。

      竜人自身、魔人を撃破するために全力で鎧の発電機能を行使していた。

      自然の雷と同じく10億ボルトとまでは言わなくとも、家電の許容量を超えた電圧・電流を有していた可能性は十分に考えられるだろう。

      他に手がかりとなりえる道具が無いかと辺りを見回すが、現時点で水浸し、少し前には一度溶鉱に一掃された建物内に『何か』が原型を留めて残されているとはそもそも考え難く、仮に『何か』が在ったとしてもそれが二人の少女の足取りに繋がるものである可能性は低い。

      むしろ、此処で微かな可能性を導き出そうとするよりは、外に出て実際に探しに向かった方が二人の少女の危機に『間に合う』可能性は高くなるだろう――そう考え、蒼矢は気絶した男を放置してひとまず建物の外に出る事にした。

      建物を出てすぐに、思わず内心で当然の疑問を呟いた。

       

      (……何処だ、ここ……)

      『少なくともお前が知ってる場所では無いだろうな』

       

      目の前に見えるのは、先ほどまで自分が連れ込まれていたものとは異なる建物がいくつも並んだ街並み。

      どの建物にも、焦げ痕か何かのように黒い色がちらほら見えている。

      足元に広がるのは、ひび割れすら所々に見える荒れたアスファルトの地面。

      率直に言って、都会――それも島国の首都の景色としては、昔に大規模な災害があってその跡地なのだと説明されても納得出来るほどに荒廃した有様だった。

      実際に起きたことが火災か地震かは知らないが、少なくとも真っ当に学生として生活していく上では立ち寄る必要すら無い場所に立っている事だけは蒼矢にも理解が出来た。

      ふと、自らが連れ込まれていた建物の方へと振り返ってみる。

      看板は見当たらなかった。外壁には他の建物と同じく黒い染みのような汚れが所々に見えていた。漂う臭気に好ましさは感じ取れなかった。

      ただ主観として、あるいは自分が生まれるよりも以前に存在していたと思わしき、何処かの企業が経済目的に建てていたものだと蒼矢は思った。

      戦いの場となった一階の空間自体、元は巨大な観葉植物か何かでも設置するためか、床から天井まで信号機の電柱程度の高さを有した空間が設けられていたためだ。

      ……仮にそうだとすると、戦いの終盤に魔人が吐き出した溶鉄が建物を支える柱を溶かし尽くしていた場合、機転を利かせて溶鉄を冷やし固めていなければ、いずれ建物が丸ごと倒壊してしまう可能性もあったのだろう。

      そうなった場合、溶鉄を放った魔人の男はともかく蒼矢は脱出する事が出来ず、崩落に飲み込まれていたかもしれない。

       

      (……くそっ、どっちに向かったんだ……?)

       

      道標となるものが無い以上、どの方向へ進むかは直感で選ぶしか無い。

      だが、仮に兎の耳を生やしたあの少女が波音を担いで逃げた方とは違う方へと向かってしまった場合、少女達が魔人の属するらしい『組織』の者の手によって手遅れになってしまう可能性は飛躍的に上がってしまう。

      少なくともあの少女は、自分の耳と足で『組織』が蒼矢を拉致した建物の場所を探り当てた以上、人気のある場所への逃げ道は理解しているはずだが、それでも人を担いだ状態ではあまり速く走る事は出来ないだろう。

      少女達が建物の外へと出たタイミングと、追跡者が建物の外へ少女達を追い出したタイミングも多少離れてこそいるが、逃げ切れるだけの十分な時間があったとは言い切れない。

      急がねばならない状況にありながらも、同時に間違えてはならないという事実が蒼矢の心に不安と焦りを募らせる。

      だが、それによって生じた躊躇は五秒にも満たなかった。

       

      (……迷っていられる時間は無い)

       

      意識を研ぎ澄ますと同時、体の各部に存在する甲殻の鎧から――厳密にはその内部に組み込まれた発電装置から、蒼白い電光が迸る。

      それは速やかに全身内部に行き渡り、心拍を跳ね上げ五感を醒まし、全身の筋肉を強制的に伸縮させる事で運動機能を向上させる。

      まるで電気を纏ったかのような姿になった蒼矢は即断する。

       

      (不足は文字通り足で補うしか無い。諦める理由に運なんて言葉を使ってたまるか……!!)

       

      駄目元で方向を決め、一息に駆け出そうとする。

      その、一歩目を踏み出す直前の事だった。

       

      ――突如として、右腕と右脚を除いた全身に鋭い痛みが生じた。

       

      「――ッ!!?」

       

      まるで筋肉痛を何倍も悪化させたかのような、あるいは筋繊維の一本一本に針で穴を開けたかのような鋭い痛みに、思わずバランスを崩して右膝からくず折れる蒼矢。

      全身に纏っていた電気の勢いが衰え、口元から苦悶の声が漏れ出す。

      頭の中からリヴァイアモンの声が響く。

       

      『……言わんこっちゃ無い。考えてみれば当然の事だぞ、痛いのは』

       

      その声もまた、少しだけ痛みに震えているようだった。

      肉体的にも精神的にも『共に在る』今、蒼矢が感じている痛みをリヴァイアモンもまた感じているのかもしれない。

      最初からこうなる事を理解していたかのような言い分に、蒼矢は思考で言葉を紡ぐ。

       

      (……甲殻の中に仕込まれている装置によって電気の力を使えるって事を教えてくれたのは、リヴァイアモンじゃないか)

      『それにしたって電気を自分自身の体に流しだすとかマジで正気を疑ったわけだが。ついでに頭にしか無かったはずの甲殻が鎧として体の色んなとこにくっ付いてるってのも、その全部に発電のための装置が仕込まれている事についても予想外だったわけだが。……何より、何で俺より先にお前がその事実に気付いてんの?』

      (気合を入れたら勝手にああなってこうなっただけ。一から十まで解ってたわけじゃない)

       

      言葉を返しながらも蒼矢は膝を曲げた右脚を起点に立ち上がろうとするが、まるで麻痺でもしているかのように力が入らず、気付けば右脚だけでなく右腕もまた力が入りにくくなっていた。

       

      元々生身であった部位に対しての激痛、そして機械仕掛けと化していた部位の、痙攣にも似た感覚麻痺――原因はわざわざ問うまでも無い。

       

      『いーしーえむ……だったか? それの理屈は知らんのだが、要は電気で無理やり動かしているわけだろ? 体を。ロクに加減もせずに敵殺せそうなぐらい全力全開の電気なんて流したら壊して当然だ。そりゃまぁ、多少の耐性は備わってるつもりだけどよ……』

      (……こうでもしない限り、アイツを倒す事さえ出来なかったのも事実だろ)

      『そこは認めざるも得ないが、もうちょい加減は出来なかったのかって話だ。最後の一撃の時に出してた電気の量だって、明らかに過剰だったしな。それで動く事も出来なくなったらそれこそ本末転倒だろうが』

       

      苦い表情を浮かべたまま立ち上がるが、体の内側から伝わる痛みは一向に途切れず、右脚と右腕の感覚は鈍いままだ。

      痛みは過度極まる筋肉の強制伸縮によって生じた筋肉痛と、炎と鎖を操る魔人との戦いによって受けたダメージによるものだと推測出来る一方で、右脚と右腕の感覚麻痺については不確定要素が多く、確証を持てるような回答を蒼矢には導き出せない。

      今の形に変わる前が人間の血肉ではなく機械仕掛けの擬肢であった事を考えると、莫大な電流に負荷が掛かり、人工の神経に障害が生じてしまっているのかもしれないが、そもそも変化する『前』の体の状態が何処まで変化した『後』の体に影響を及ぼすのかが解らないのだ。

      どちらの問題も、時間と金さえあれば解決出来なくも無い話ではあるのだろう。

      だが、今は痛みに悶えて立ち止まっていられるほどの時間も無ければ、動かしづらくなった義肢を修理するための金も場所も目に見える範囲には無い。

      少女達に迫る危機へ追い付くためには、全ての要因を飲み込んだ上で走るしか無い。

      痛みも不具合も承知の上で、改めて体に蒼色の電気を帯びさせる。

       

      「……ぐうっ……!!」

       

      理解して尚、口から苦悶の声が漏れる。

      歯を食い縛って痛み耐えながら、路地を駆け出していく。

      だが、苦痛に耐える努力も空しく、駆ける速度は中々上がってくれない。

      不安と恐怖が、胸の内にただ募っていく。

       

      (……くそっ、こうしている間にもあの子達が危険な目に遭ってるかもしれないのに……!!)

      『気持ちは解ってるつもりだが、落ち着け。気合だけ先走って、先に体が壊れたら俺でもどうにも出来ないぞ』

       

      頭の奥から聞こえる怪物の声は、蒼矢とは対照的に焦りの色を感じさせないものだった。

      走ろうと奮闘しながらも、怪物の冷や水でも浴びせ掛けるような口ぶりに、蒼矢は苛立ちを覚えた。

      心の声で、思い浮かぶままの言葉を投げ掛ける。

       

      (……どうして、そんなに冷静でいられるんだ)

      『焦ってどうにかなる話じゃないからに決まってんだろ』

       

      真剣な声で、怪物はそう返していた。

      その言葉には、若干の苛立ちが込められているように思えた。

       

      『本当に失敗したくないのなら、こういう時こそ冷静にならなきゃならない。今のお前のそれは全力とは言わねぇよ。ただの力任せだ』

      (……けど、もっと速く走らないと、間に合わないかもしれない……)

      『その前に辿り着けないだろ、そのままだと。疲れは気合でどうにか出来ても、体は気合だけで治せないってのは俺でも解る話だぞ。そりゃ一時的には馬鹿みたいな速さで動けるだろうが、それ以上は途中で体の方が駄目になるのがオチだ』

       

      そんな事は、言われるまでも無く解っているつもりだった。

      だが、怪物からの声でその事実を改めて認識して、ふと蒼矢は疑問を覚えた。

      もしかすると気付かぬ内に、自分は都合の良い方向に自らの行いを正当化しようとしていたのではないだろうか、と。

      例え自分の体が、与えて貰った機械仕掛けの手足が壊れてしまっても、それを許容さえすれば少女たちを救える可能性を見い出せるのなら構わない――と。

      実際はそこまで辿り着く事さえ出来ない可能性の方が高いというのに、そんな自己犠牲を前提とした理想論を前提に行動しようとしていた――その事実を、認識する。

      確実性を求めようとしているようで、自ら確実性を放棄しているようなものだと。

      心を落ち着かせ、体内に廻らせていた電気の力を弱めていきながら、彼は素直に怪物の知恵を頼る事にした。

       

      (……だったら、どうすれば良い? ここは水場じゃないんだ。さっきやったように『海水』に変えた水を操作して擬似的に『海流』を作る、なんて芸当は出来ないと思うけど。その上で速く移動するための方法に心当たりは?)

      『それなんだが、その電気の使い方と同じで、完全にお前のイメージに頼る形になるぞ』

      (構わない。アイデアさえあれば、後はこっちで形にしてみせる)

       

      頭の中で意思を伝えると、怪物は真剣な声色でこう告げた。

       

      『……確か、陸地だと氷ってのは「滑る」ものなんだよな?』

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      数分前、その身を兎と人間を混ぜ合わせた(それでいてバニーガールのそれとは異なる拳法着にも似た黄色い服に身を包んだ)獣人の姿に変えた縁芽好夢は、自分よりも年上と思わしき――彼女は知らないが磯月波音と言う名の少女の体を両腕で抱えながら走っていた。

      未知の力で身体能力を強化されているおかげか、その足取りは人間一人を抱えている割りには速い方だが、一方でその長い耳は確かに背後から迫る追跡者と思わしき存在の足音や息遣いを聞き取っている――距離を離すことに至っていない事は明白だった。

      逃げ始めた時点からひたすら勘を頼りに道は角に曲がったり、追跡者の目から逃れようと意識しているものの、芳しい結果には結びついていないようだ。

       

      (……このままだと、追い付かれる)

       

      特撮番組にでも出演してそうな外見のイカの怪人、江戸時代の侍を思わせる風貌の鳥人、両腕に鎖を巻き全身を青く燃え上がらせた炎の魔人、片腕が『蛇』と化し脚が『尾』と化した青緑色の半漁人――そしてそれが『進化』したと思わしき、稲妻の剣を携え甲殻の鎧と赤い鱗に覆われた竜人。

      これまで見てきた、誰も彼もが何処かに『人間』の要素を含んだ姿をした異形は、外見の違いと同じくその身体能力にも明確な差異があった。

      こうして追い付いて来ている以上、恐らくは今の自分と同じ類の力を用いて異形と化しているであろう追跡者の足の速さは、最低でも少女を抱えて走っている自分を上回るものなのだろう――と好夢は走りながら確信する。

      実際問題、逃げる前に交戦した炎の魔人の力は明らかに自分が使っているそれより上で、その仲間であろう追跡者が宿す力もまた今の自分を上回っている可能性が高い。

      致命傷と言えるほどではないが、先の戦闘でダメージを受けている今、無防備な少女を守りながら追跡者と直接戦闘して勝てる確率は低いだろう。

      せめて何処か、身を隠せる場所があれば好ましいのだが……。

       

      (……とは言っても、この辺りにどういう建物があるかなんてわからない。下手すると袋小路に迷い込む可能性だってある……)

       

      であれば、やはり人混みの賑わう表通りの方へと走り抜ける以外に逃げ切る方法は無い。

      これまで通ってきた道を辿るわけではないが、幸いにもどの方角に向かえば表通りに出られるかどうかはある程度予測が出来る。

      後は、うっかり行き止まりに向かってしまわない事を祈りつつ、走り続けるのみ。

      ……なのだが。

       

      (……あーくそっ、あのファイヤーマンの攻撃……思ったより体にキテるわね……骨は折れてないはずだけど、滅茶苦茶痛むし……)

       

      文字通り体を焼くような痛みに表情を歪ませる好夢。

      炎の魔人の攻撃を受けた部位は決して軽くは無い火傷を負っており、確実に好夢の走りを阻害していた。

      気持ちとしては痛みを堪えて全力で走っているつもりでも、実際問題背後から聞こえてくる重みのある足音は確実に近付いて来ている。

      そして、

       

      「――デストロイ

      「――――っ!!」

      ――キャノンッ!!」

       

      好夢が、その長い耳で不穏な単語を聞き取り、殆ど反射的に裏路地の一本道――その右の壁際に向かって動いた直後の事だった。

      彼女のすぐ隣――数瞬前まで好夢が立っていた場所を、何か得体の知れない黒いエネルギーのようなものが通り抜けて、

       

      ドギュゴッッッ!! という、爆竹や風船が破裂するそれとは異なる現実離れした爆音と共に、眼前に見えるアスファルトの路面の一部が砕け散った。

       

      心音が高鳴る。

      背筋に嫌でも冷たいものが走る。

      もう、すぐ背後に追跡者は来ている事を理解する。

       

      それでも、振り返る事はしない。

      砕け散った路面の上をそのまま駆け抜けていく。

      その行動に苛立ちでも募らせたのか、背後から男の声が強く響く。

       

      「逃げんなウサギ女ァ!! 人のツラ殴り倒しておきながらお返しが無いとか思ってんじゃねぇぞ!!」

      (――だぁうっさい!! っていうか追って来てたの、やっぱりあたしが一発でダウンさせた奴かよ!!)

       

      ドスドスドスドス!! と。

      背後から追い迫る怪物の、不必要なほどに重い足音には明らかに負の念が乗っていた。

      捕まった後の末路など考えたくも無かったが、こうもリアルに恨みを買った事実を目の当たりにしてしまうと、直接的に殺される事もそうだが、官能小説染みた展開も覚悟しなくてはならないのかもしれない――と、好夢は真剣に恐怖を覚え始めた。

       

      (――あー、こういう妄想があっさり浮かぶのって、絶対苦朗にぃから没収したエロ本の中身を少し『確認』しちゃった影響なのかなぁ……あーもー割と自業自得っぽいのがムカつくっていうか何ていうか……!! ちょっと真面目に妄想の元凶っぽい苦朗にぃの事ブン殴りたい……!!)

       

      理不尽だと多少思いながらも、この場にはいない義兄に対して恨みの念を放つ好夢。

      しかし今は不穏な未来図に不安を覚えていられる余裕など無い。

      日陰しか無い裏路地を駆け抜け、日向の広がる錆びれた路道に出る。

      左右に視界を泳がせ、遠くの音を聞き取ろうと意識を一瞬でも研ぎ澄まそうとする。

      一つの結論を出す。

       

      ――これ以上は逃げ切れない。

       

      (……仕方無い、か)

      「――あん?」

       

      開けた路道で立ち止まる。

      突然の行動に疑問を浮かべたのだろうか――追跡者の足音が止まる。

      好夢は抱えていた少女の体を地べたにゆっくりと下ろす。

      振り返り、初めて追跡者の姿を視界に捉える。

       

      その姿を一言で説明するならば――黒毛の熊の人形。

      間接部に縫い糸が見え、内部には綿でも詰まっているのか少し膨らんで見えて、人型と言うには丸みを帯びた輪郭。

      腹は裂けており、その奥には底の知れない闇と覗き込む怪しげな光が見えていて、太い四肢の先端には灰色熊のそれを想わせる爪が人間の指と同じく五本存在している。

      そして、よく見てみると背中越しに赤色のマントが取り付けられていた。

      生物のようにも見えて、人形のようにも見える――生物として扱うべきか、無機物として扱うべきか、境界線がとても曖昧な身体。

      これまで見てきたもの全てとは異なる異形の姿がそこにあった。

      作り物にしか見えない両目を細めつつ、人間の身長など軽く超える体躯をした黒いテディベアは言葉を発する。

       

      「諦めたのか、それとも立ち塞がってるつもりか。まぁ何にせよ一旦ボコるのは確定だがよ」

      「勘違いしないで。諦めたりなんかしない」

       

      真っ向から言葉を返しつつ、好夢はすぐ背後で横になっている庇護対象の事を考える。

       

      (……あんな蹴りを貰ったんだ。多分、何処かしらの内臓がヤバい事になってる……)

       

      冗談抜きに、命の危機だという事は素人目でも理解が出来た。

      一部始終を目の当たりにしていた好夢から見て、腹の辺りを蹴られていたように見えた事から、辛うじて心臓や肺に折れた場合刺さる危険のある肋骨は折られていないだろうと思う――思いたい。

      だが、それでも内臓に伝わっているダメージは甚大なものだろう。

      早急に病院まで搬送しなければならないが、手持ちの電話で連絡を取っていられるほどの余裕は無いし、そもそもイカの怪人や侍の鳥人と遭遇した時も急にデジタル表記な腕時計の調子が悪くなっていた事を考えると、携帯電話もマトモに使えるかどうか怪しまれる。

       

      (……まずはこいつを倒す。どんな手を使ってでも。それ以外に道は無い!!)

      「何だ、不意討ちもせず勝てるつもりなのか? そんな細腕で」

      「……その細腕の一撃でダウンしてたヤツが言う台詞だとは思えないんだけど」

      「そこはまぁ、言い返せねえが」

       

      力不足は理解している。

      難題である事など承知の上。

      それでも、誰かが立ち向かわなければこの危機は乗り入れない。

      黒い熊の人形が嗤う。

      身体を染める色が示すように、悪意が言葉として表れる。

       

      「もう不意討ちが通るようなチャンスは与えねえ。そんな生意気な口が利けなくなるよう、しっかり痛めつけてやるよ」

       

      後ろには一歩も引けない。

      攻撃だって一つも通させてはならない。

      故に少女は、意を決して真正面から熊人形の化け物に突撃する。

       

      「はあああああああああああああっ!!」

       

      渾身の力を込めて駆け出し跳び、熊人形の顔面――より正確に言えば鼻にあたる部位に向かって足を放つ。

      防御も回避もされず、好夢の蹴りは確かに熊人形の顔面に突き刺さり、その威力でもって熊人形の体を少し後方へと圧し返した。

      マトモな人間であれば、下手をすると顔どころか首の骨が折れかねない一撃。

      だが、

       

      「……その程度か?」

      「――っ!!」

       

      人外の膂力でもって放たれた蹴りを受けた熊人形には、全くと言ってもいい程に堪えた様子が無かった。

      足を突き出した姿勢から空中で回転し、危なげなく両脚で着地をした好夢にとって、その反応は疑問を浮かばせるに十分なもの。

      蹴りを放った好夢自身からしても、放った足に伝わる感触は違和感を覚えるものだった。

      まるでそれは、布団かサンドバックでも殴っているかのような――確実に威力は伝わっているはずなのに、その全てが何事も無く吸収されているような、いっそ空しささえ覚える感触。

      事実としてダメージらしいダメージを与えられてはおらず、当の熊人形は痒そうに左手の熊の爪で蹴りを受けた鼻の辺りを擦るだけだった。

       

      「まだだっ!!」

       

      好夢は走ると言うよりは跳ねるような形で駆け出し、熊人形の懐に潜り込んでいく。

      その速さは、磯月波音の体を抱えていた時と比べても二倍以上――常人の走行速度を軽く凌駕していた。

      勢いのまま、今度は地に足を着けて右の拳を腹部に向かってアッパーカットの形で放つ。

      ぼすっ、という音だけがあった。

      音は蹴りを放った時と同じく空しく、そして――

       

      (――こいつの体、柔らかいくせに重い……!! 何よ、ガワの内側には鉛でも入ってんの……!?)

      「おいおい、この程度じゃ話にならねぇぞ」

       

      言葉と共に無造作に振るわれる凶器の右手を、後ろに跳ぶ事で辛うじて避ける好夢。

      逃走中の一本道で放って来た飛び道具――それに用いていた力を掌か爪にでも込めていたのか、先ほどまで好夢の立っていたアスファルトの路道はあっさりと砕け散っていた。

      マトモに受けていれば、とても五体無事に済んでいたとは思えない有様だ。

      その威力もそうだが、拳で直に殴った時の感触でもって、改めて敵に宿っていると思わしき怪物の能力を思い知らされる。

       

      (……さっきの火炎男といい、相性が悪過ぎる……!! こんなの、燃やすか切り裂くかしない限り無理じゃない!!)

       

      熊人形の反応から見ても、単なる打撃が通用する身体ではないのかもしれない。

      仮にそうだとすれば、これまで目にしてきた怪物の力を振るう者たちとは異なり、四肢を用いた物理攻撃以外に攻撃の手段に心当たりの無い好夢には文字通り打つ手が無い。

      唯一の弱点と思わしきは裂けた腹部の奥に見える謎の『光る目』だが――それを視界に入れているだけで、得体の知れない恐怖が胸の内に湧き出てしまう。

      アレは、触れてはならないものだと。

      何故そう想ってしまったのか、好夢自身その理由は解らないが――実際に拒もうとする感情が止め処なく溢れてくるのだ。

      だが、だとすれば何処を狙えば良いというのか。

      答えを導き出す前に、熊人形が言葉を紡ぐ。

       

      「さて、あまり時間を掛けられねぇんだ。手っ取り早く済まさせてもらおうか?」

      「……何度も言わせないで。そう簡単に……」

      「言い忘れてたんだがよ、痛めつけるってのは体もそうだが、心だって含まれてるぞ?」

       

      意味の解らない言葉の直後だった。

      熊人形が右手の爪を、さながら拳銃のジェスチャーでも作るような調子で無造作に突き出すと、その先端に真っ黒な色をした何かが収束していく。

      それはやがて愛情や恋情を示すハートの形を成すが、形作られたハートには亀裂のようなものが生じている。

      最初、その謎の攻撃に対して警戒をしていた好夢は、よく見ると右手が自身ではなくその背後へ向けられている事を知り、目を見開いた。

      そう――熊人形の狙いは、好夢ではなく磯月波音――!!

       

      「駄目ええええええええっ!!」

       

      熊人形の思惑は察していた。

      その黒いハートの形をした物体がどれほどの殺傷力を秘めているかは知らないが、それを使って好夢にとっては庇護対象である磯月波音を殺害出来ればそれで良し。

      仮に好夢がその狙いを阻もうと庇う選択をしたとしても、それはそれで邪魔者を排除出来る。

      どちらを選択したとしても、熊人形の思惑に沿う展開になる。

      そして、解っていても――それ以外の道を模索する時間など、無かった。

      好夢は咄嗟に熊人形の謎の攻撃の射線に飛び込んだ。

      申し訳程度に両腕を交差させ、防御の姿勢を取ろうとする

      そして、熊人形の口から言葉が紡がれた。

       

      「|大失恋劇《ハートブレイクアタック》」

       

      必殺技のような言霊の直後。

      亀裂の入った黒いハートが真っ直ぐに磯月波音へと向かい、それを遮らんとした好夢の体に直撃する。

      両腕を交差し作った防御が功を制したのか、黒く罅割れたハートは途端に砕け散った。

      謎の攻撃を受け止め、防ぎ切った。

      そう思った。

      だが、

       

      「……っ、ぁ……」

       

      罅割れたハートを受け止めた好夢は、着地に失敗して尻餅をついていた。

      それだけならば空中でバランスを取る事に失敗した、だけで済ませられる話だったが――尻餅をついた好夢の身体は、小刻みに震えていた。

      今すぐにでも起き上がらなければならないというのに、腕にも足にも力が入っていない。

      何か、身体を動かすための柱とも呼べるものを折られたかのような様子だった。

       

      「終わりだなぁ」

       

      熊人形が嘲るような口ぶりで喋る。

      神経を逆撫でる声を耳にしても、好夢は立ち上がれない。

      その瞳から光は失せ、漏れる言葉はどれもか細い。

       

      (……何よ、この感じ……)

       

      身体はまだ動かせるはずなのに。

      背後で倒れている女性を助けたい、見捨てられないと思う気持ちは、間違い無く胸の内に在るはずなのに。

      抑え込んでいたはずの恐怖が――いや、それ以外にも現在の状況に対して自身が意識して抱く理由も無いはずの哀しさや寂しさなど――負の感情が、胸の内にあった闘志を丸ごと押し殺すほどに湧き出てしまっている。

      それは悔しさにも怒りにも変換出来ない。

       

      (……怖いのは、解る。でも、何で哀しいの。何で寂しいの。心が、寒い。苦しい。やだ、こんなの……)

      「イイ顔だ。こうして見ると中々可愛らしいじゃねぇか」

       

      気付けば、好夢の身体からノイズのようなものが生じていた。

      湧き出た恐怖によって削ぎ落とされつつあるのか、彼女の身体を変えていた力が徐々に薄れている。

      それを望んでいるわけでも無いはずなのに、ただの人間に戻ろうとしている。

      拒むように、好夢は口を開いた。

       

      「……駄、目……まだ……闘わなくちゃ……ならないの……」

      「あん? まだ完全には折れてないのか」

       

      どんな形でも良い。

      臆病で惰弱な自分自身に訴え続け、奮い立たせろ。

      マイナスの感情を抑え込むプラスの感情を、強引にでも再稼動させるために。

      だが、

       

      「時間は掛けない方がいいんだが、まぁいいか――」

       

      再び熊人形の口元が悪意に笑みの形を作る。

      その両手の上にそれぞれ、黒く暗いエネルギーのようなものが収束していく。

      罅割れたハートの形を成し、浮遊する。

      直後に何がどうなるのか、予想は出来ても回避は出来ない。

      それだけのための力も、湧き出て来ない。

       

      「倍プッシュだ。どこまで耐えられるか見物だな」

       

      黒く暗い力が、再び好夢の身体に当たり炸裂する。

      同時に、先に注入されたもの以上の負の感情が胸の内に更に注入される。

      許容量を超えた恐怖と哀しみと寂しさに、好夢の心と共に視界までもが黒く染まっていく。

       

      「…………」

       

      言葉さえ出ない。

      耐え切れない感情の奔流に、思考も纏まらなくなる。

      熊人形の悪意ある言葉と、重みのある足音だけが、好夢の耳に嫌でも入ってくる。

       

      「――ったく、部外者の分際で手間を取らせやがって。だがまぁ、思わぬ収穫って事にしておくかね」

       

      勝負は着いた、と言わんばかりの口ぶりだった。

      実際問題、今の好夢には最早熊人形と戦うだけの力は無い。

      情けなかった。無様だった。惨めだった。何の役にも立てなかった。

      その事実に沸き立ってくるはずの悔しさも、恐怖や哀しみに阻害されてぼやけてしまう。

       

      (……あた、しは……)

       

      暗く冷たい心の激流に押し流される。

      五感の全てに嫌気が刺す。

      力が抜ける。

       

      (……結局、あたしじゃ、駄目って事なのかな……)

       

      もう無理だ。

      これ以上、自分に出来る事は何も無い。

      体を熊人形の右手で掴み取られながら、流されるようにそう想っていた。

      人為的な圧迫感の中、嘲る声が再び耳を打つ。

       

      「ご苦労さん。まぁ世の中そんな都合の良い救いなんて無いと諦めるんだな」

      (――――)

       

      その言葉に、好夢の中で何かが揺さ振られた。

      ふつふつと、胸の内に何かが泡立っていく。

       

      (――この世に、救いなんて、無い?)

       

      責められるだけなら構わない。

      自身の無力を嘲られるのはいい。

      が、その言葉だけは許せなかった。

       

      「……ふざ、けんなっ……」

      「あん?」

       

      胴体に密着した両腕に力を込める。

      当然、抵抗の意思がまだあると見なされ、体に加わる圧迫感は増した。

      作り物の指とは思えない力に握り潰されそうになりながら、それでも好夢は言葉を紡ぐ。

       

      「……救いってのが、都合良く簡単に訪れるものじゃない事ぐらい知ってる……」

       

      骨肉を襲う痛みに歯を食い縛りながら。

      その瞳に光を宿し――だけど、と真っ向から睨み付ける。

       

      「……救いはある。救われた事があるから解ってる!! 世の中の全ての人が救われる事が無いとしても、失われたものは絶対に戻らないとしても、それでも世の中の何処かには救いがあるんだって!!」

      「現実ってやつを知らんガキだな。アニメの見すぎじゃねぇのか? 全ての悪党に対して本当に等しくヒーローがやってくるなんて、夢物語にも程がある」

      「それでも、例え夢物語だとしても、実際にヒーローはやってきた!! あたしを頼りにしてくれたあの人は、必ずあの野朗に打ち勝つ。そして此処に救われないこの|女《ひ》|性《と》を救いに来る!! それこそ本当に、ご都合主義に溢れたアニメみたいに!!」

      「――ぎゃあぎゃあ五月蝿いな。黙って凹んでろよ」

       

      鬱陶しいとでも言いたげな口ぶりの言葉と共に、手の平越しに黒い力が好夢の全身を包み、その心を蝕まんとする。

      三度目となる、冬の海の中に放り込まれるが如き冷たい感情の奔流。

      その渦中に三度流されそうになりながらも、好夢は怒りと共にこう思った。

       

      (……こんな紛い物の苦しみなんかに、負けてたまるか……)

       

      与えられた紛い物ではなく、現実の苦しみの味を、少女は知っている。

      寂しさも哀しさも、それ等に対して抱く恐怖も――とっくの昔に。

      そして、その直後に与えられた現実の救いの味も、強く心に刻まれている。

      故に。

       

      都合の良い救いなんて有り得ない、なんて言葉を許すわけにはいかない。

      そんな言葉が罷り通ってしまうような、冷たい現実を認めるわけにはいかない。

      絶対に。

       

      (……あたしに出来る事を、全力で……)

       

      心身共に抵抗する。

      華奢な身体を握り潰さんとする握力に。

      心を絶望で押し潰さんとする作り物の冷たい濁流に。

      無論、それだけで現実は変わらない。

       

      だから、自身の力不足を理解する少女は、苦しみに耐えながら祈り続けた。

      救いを、助けを、願いを、ただただ請いた。

       

      あるいは、今も尚炎の魔人と闘っているかもしれない赤き竜のヒーローに。

      あるいは、文明の発達と共に信仰こそ廃れど、何処かで人間達の営みを見守ってくれているかもしれない神様という存在に。

      あるいは、今の姿に成るための力を与えてくれたかもしれない、自分の中に宿る声も素性も知らない誰かに。

       

      早く護り手をバトンタッチしろ、と。

      心から救われない人に、どうか救いの手を与えてください、と。

      この冷たい現実を変えるための力を貸してくれ、と。

       

      声の無い訴えが何処に届いたのかは知らない。

      あるいは、それは弱い心が生んだ幻聴だったのかもしれない。

      それでも、救いを請う少女の脳裏に、一つの声が届いた。

       

      ――確かに、聞き届けたよ。

       

      気付いた時、少女の視界は真っ白に染まっていた。

      此処は何処だ、という疑問を解決する前に、眼前に見覚えの無い像が見えた。

      今の自分の姿の元になっていると思わしき兎の獣人とは、少し違う――だけど、何処か似ているような輪郭。

       

      (……誰……?)

       

      当たり前の疑問があった。

      だが、それを解決するより前に、白い世界に佇むその存在に一つの動きがあった。

      自らの――人間のそれと比べるとあまりに大きな、あるいは翼のようにも見える右手を好夢に向かって差し出したのだ。

      握手を求めている――直感的にそう判断した好夢だったが、応じる前に変化は生じる。

      好夢の身体の内側に、何か暖かいものが満ちてきたのだ。

      それは心に巣食っていた紛い物の苦しみを瞬時に拭い去り、それだけには留まらず身体から失われた活力をある程度取り戻させていく。

      未知の力と、それによって与えられた癒し。

      誰がやったのかなど、わざわざ考えるまでも無かった。

      視線を、翼にも似た両手を有する存在へと向ける。

      表情も実態も解ったものではないが、不思議とその存在は悲しんでいるように見えた。

       

      ――天使のクセに、この程度の助力しか出来なくて申し訳無いけど。

       

      男性のようにも、女性のようにも聞こえる声が響く。

      謝罪とも憤慨ともとれる声色に、決して少なくは無い優しさを見た気がした。

       

      ――それでも、与えられる限りの『光』は確かに託したよ。

       

      この、自身を『天使』と呼ぶ何者かが、自分に『変わる力』を与えた存在の正体なのだろうか。

      疑問は尽きず、聞きたい事は山ほどあれど、まるで夢から覚めるように『天使』の輪郭がぼやけてきた。

       

      ――強く、イメージして。輝くものを。それだけで、きっと使えるから。

       

      もう、話をするだけの時間も無いのだという事だけが解った。

      だから、ただ一言だけを好夢は伝えた。

       

      ――ありがとう。

       

      そうして少女の視界に現れた幻想は消える。

      視界は嫌になるほどの闇一色で、身体に加わる圧迫感が少女に現実を思い出させる。

      だが、その身体の内側には確かに力が漲っていた。

      白い夢の中で『天使』に与えられた力は、決して幻想などでは無かったのだと、そう思った。

      故に、好夢は闇の中、一度だけ深呼吸をして、あるイメージを頭の中で固めていく。

      眼前の闇を払うほどに強く、そして暖かくて輝かしい『光』の力を。

      力を与えてくれた、あの『天使』の言葉に従って。

      言霊を、放つ。

       

      「……輝いて……」

       

      直後の事だった。

      好夢の身体から、黄色く眩い閃光が爆発的に迸った。

      それは文字通り瞬く間に周囲を覆っていた闇を祓い、闇の向こう側で嘲る笑みを浮かべていた熊人形に届く。

       

      「なッ、まぶ……!?」

       

      堪らずといった調子で、熊人形は右手で掴み取っていた好夢の身体を放していた。

      両脚で安全に着地をして、熊人形の拘束から開放された好夢は、空いた左の熊の手で自分の目元を覆う熊人形の懐に向かって即座に駆け出す。

      そして握り締めた右の拳を、輝きのイメージと共に裂けた腹の奥に見える『輝く目』に向かって突き出す。

       

      「そこだああああっ!!」

      「――ぎっ、がああああああああ!?」

       

      裂けた腹の奥が好夢の立ち位置からでは確認出来ないが、暗闇の奥に隠れた標的を捉えたらしい。

      ここに来て初めて、熊人形の口から明確な苦悶の声が漏れたのがその証拠。

      予想通り、熊人形の弱点はその裂けた腹の奥より見える『輝く目』であったらしい。

      そして、恐らくは『天使』が与えた輝く光によるものなのか、心を蝕んだ黒いエネルギーの源泉であるようにも見えていた得体の知れない暗闇に手を突っ込んでも、好夢の心は何の冷たさも感じず平常心を保てていた。

       

      「て、めぇぇぇえええええええええ!!」

      「っ!!」

       

      だが、一撃ではやはり足りなかったのか、熊人形は怒りの声と共に抵抗を見せた。

      鋭い爪を有した熊の両手を、至近距離にまで踏み込んだ好夢に向かって振り下ろしたのだ。

      巨腕でもって叩き潰すためか、あるいは凶爪によって引き裂くためか。

      どちらにせよ、好夢がとるべき行動は一つだけだった。

      即座に後方へと跳躍し、その勢いでもって裂けた腹に突っ込んでいた右腕を引き抜く。

      力加減などせずに跳躍してしまったため、好夢は磯月波音の体が前方に見える位置にまで後退してしまう。

      今、倒れている磯月波音に一番近い位置に立っているのは追跡者たる熊人形だ。

      余程先ほどの攻撃が堪えたのか、よろめきながら近付いて来る。

       

      「よくもやりやがったな……一度ならず二度までも、痛手を負わせやがって……」

      (ま……ずっ……!!)

       

      好夢はすぐさま前に駆け出そうとするが、その前に熊人形の右手が磯月波音の体を掴み取ってしまった。

      元々、追跡者の目的の優先順位としては部外者である好夢よりも磯月波音の方が高いはずだ。

      そして、この状況において、磯月波音の身柄は人質としての要素も孕む事になる。

      ただでさえ、体の中身がどうなっているのか定かではないのだ――少し握力を加えただけで、どうなるか解ったものではない。

      殺すも生きるも手の平の上に乗せられた以上、好夢はこれ以上抵抗する事が出来ない……!!

       

      「だがテメェの抵抗もここまでだ。コイツを殺されたくなければ、大人しく……」

       

      だが、追跡者はこの瞬間失念していた。

      磯月波音を救おうと闘っているのは、好夢一人ではない事を。

      そして、好夢もまたこう発言していた。

       

      ――必ず打ち克つ。そして救いに来ると。

       

      「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

      「――なッ!?」

       

      故に。

      これもまた、あるいは必然だった。

      咆哮の如き声と共に、赤い竜人が磯月波音の危機に辿り着く。

      背後から――右腕に装備された稲妻の形をした刃で熊人形の右肩を突き刺す形で。

       

      「テメェ……!! まさか、アイツに勝ちやがったのか……!!」

      「――当たり前だ。まだ僕達は諦めていないんだからな――頼む!!」

      「りょーかい!!」

       

      好夢の応答を聞くと、すぐさま赤い竜人――司弩蒼矢は、容赦無く熊人形の右肩に見える人形の縫い痕らしき部分を稲妻の刃で力を込めて切り裂く。

      熊人形の右肩が半分ほど切れ、必然的に握力を失った右手から磯月波音の体が落ちる。

      その瞬間を逃さず、好夢は即座に駆け出し滑り込み、地面に当たる前に磯月波音の体を安全にその両腕で抱き留めた。

      即座に跳び退き、距離を取る。

      司弩蒼矢もまた着地をすると、すぐさま移動し好夢のすぐ横に並び立つ。

      よく見ると、その両脚はアイススケートで用いられるような靴――を模した形の白い氷で覆われていた。

      それだけで、少なくともどんな方法でここまでやってきたのかは簡単に想像出来た。

       

      「……滑って来たの? アスファルトの上を?」

      「今可能な範囲で、速さを得られる方法がこれしか無くて……遅くなってごめん」

      「いいよ。少なくとも、まだ手遅れじゃなかったんだし」

       

      瞳と言葉を交わし、二人は共に視線を熊人形の方へと投げる。

      怒り心頭とでも言わんばかりの表情を浮かべる、追跡者の姿がそこにあった。

       

      「クソったれが……好き勝手してくれやがって。そこまで痛い目を見ないと解らないってんなら、もう容赦はしねぇ。心身共に凹ませてやる……」

      「随分負担をかけて申し訳無いけど、また走ってもらってもいいかな。コイツはこっちで食い止めるから」

       

      怒りの声を聞き流し、蒼矢は好夢に語りかける。

      その言葉を聞いて、好夢は即答した。

       

      「すぐ戻るわよ」

      「えっ」

       

      どうやら蒼矢からすれば意外な言葉だったようだが、好夢は気にせず間の抜けた声を漏らす蒼矢に対してこう言葉を返した。

       

      「こっちもこっちで、アンタが来るまでボコられててね。お返しがたったの一発じゃ気に食わない。この人を少し離れた場所に寝かせてから、すぐ助けに来る」

      「いや、でも君……大丈夫なのか?」

      「少なくとも、目に見えて火傷だらけのアンタに言われたくはないわよ……っと!!」

       

      蒼矢の返答も待たず、迫り来る熊人形から退く形で好夢は飛ぶように駆け出す。

      裏路地を再度進み、一分も経たない距離に放棄されたものと思わしきコンビニを見つけると、好夢はガラスの割れた入り口からその内部に侵入し、本来は店員が立つレジの奥の方へと磯月波音の身柄を隠した。

      これで足取りを追われていない限り、この場所に追跡者はやってこないだろう。

      すぐさま踵を返し、司弩蒼矢の救援に向かわなければならないが、その前に好夢は意識も無く床に横になった磯月波音の手を掴み、念じた。

      きっと、声は届かないだろうけれど。

      白い世界の中で『天使』が自身に対してやったのと同じように、磯月波音の体に少しでも活力を与えるために。

      瞼を閉じて、黒に染まる視界に輝きを強く想起し、言霊と共に祈る。

       

      「……どうか、助かって……」

       

      本当は意味なんて無かったのかもしれない。

      祈りなんて、願望なんて、現実を変えてくれはしないのかもしれない。

      それでも、事実として起きた奇跡を好夢は信じぬくと決めた。

      偶然と奇跡が生んだ新しい力を、それを与えてくれた存在の優しさを、決して否定はしないと。

       

      「…………」

       

      瞼を開き、未だ幸福の訪れない女性から手を放す。

      踵を返し、救われぬ者を背にして、少女は戦場へ駆け出していく。

      悲劇では終わらせない――それだけを決意し、自らに言葉を投げ掛けながら。

       

      「ここからが本番よ、縁芽好夢」

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      暗い。

      さながら眠りから覚めるように目を開いて、そうして視界に入った景色に対して、彼が抱いた第一の感想はそんなものだった。

       

      (……ここは……?)

       

      彼を取り巻く世界にあるのは、夜闇のそれを世界全てに塗りこんだが如き真っ黒の景色。

      五感を介して感じられるものは、生きている心地を感じられない寒々しい風と、頭の先から何かに引き寄せられるような落下の感覚のみ。

      自分が何故こんな場所にいるのか、ぼんやりと思考をしてみて。

      そうして、前後の状況がさっぱり頭に思い浮かばない事に気付く。

      何か、忘れている気がする。

      何か探さないといけないものがあったような、何かやらないといけないと思った事があったような。

      霧がかかったように朦朧とした意識は、正しいと信じられる答えを導き出そうとしない。

      眠る前に何を起きていたのか、いやそもそも自分が何をやっていたのか。

       

      (…………)

       

      何も浮かばない。

      寒々しい暗闇の中、光源の一つも見えない。

      自分以外の誰の声も聞こえない。

      誰もいないのだから、この状況を抜け出すためのヒントも何も無い。

      延々と続く落下の感覚と寒々しさが織り成す気味の悪さに、どうしようも無い不安ばかりが過ぎる。

      自分は死んでしまったのか。

      それとも、ただ単に夢を見ているだけなのか。

      夢だとして、この何も無い景色はいつになったら終わるのか。

      そうして疑問が疑問を生み、やがて寂しさと言える情感が湧き出てきた頃。

       

       ざ

      暗闇の中に、薄っすらと光が灯り始めた。

      長々と続いていた落下の感覚が消え、彼は現在の自分がうつ伏せの体勢で倒れている事に気付く。

      気だるげに四肢に力を加えて立ち上がろうとするが、思いの他うまく立ち上がれない。

      違和感を覚え、ふと首を動かし手から足までなぞるように確認してみると、彼は自分の体が人間のそれでは無くなっている事に気付く。

      ああ、そうだったなと思い出すように理解する。

      今の彼の体は、人間のそれとは違うものになっている。

      脳に宿っているらしいデジモンの力を用いた変換の能力を用いて、狼男のような姿に成っているのだ。

      赤い毛皮に身を包み、四肢に黒のベルトをいくつも巻きつけた――

       

      ザザザ!!

       

      ざざざざざっ!!

       

       

       

      「――っ?」

       

      頭の中をかき乱すようなノイズがあった。

      まるで寝不足か何かのように、鈍い痛みが頭に集中している。

      殆ど反射的に目を閉じ、痛みを抑えつけようと獣のものと化した片手を頭に押し付けていると、やがて頭に集中していた痛みは鎮まった。

      改めて、彼は自分の体を確認する。

      青と白と銀の色を宿した、部分部分が刃物のようになっている毛皮に身を包んだ狼――ガルルモンと呼ばれるデジモンの体を原型とした、さながら人狼と呼んでも差し支えの無い姿。

      思うように立ち上がれなかったのも当然だ――人間のそれとは逆の間接を有し、二足歩行には基本的に向いていない構造をしているのだから。

      しかし、理解してしまえば話は簡単だ。

      二本の足だけではなく、二本の腕も支えとして立ち上がればいい。

      二足歩行ではなく、四足歩行の姿勢。

      ぎこちなさなどは特に無い慣れた様子でそれに移行すると、人狼は周りの景色を一望する。

       

      月明かりに照らされた、深緑の広がる森の中。

      少なくとも、都会の景色の中には存在しない規模の場所だった。

      毛皮を伝う夜風が不思議と心地良い。

      夢にしては随分と現実染みているが、本当に何がどうなっているのだろう。

       

      そんな風に考えていると、ふとして風が吹くような音が聞こえた。

      ホイッスルの音のようにも感じられたそれは、深く茂る森の向こう側から発せられたものだった。

      誰かが呼んでいる、と人狼は判断した。

      ただでさえ理解の及ばない状況だったのもあってか、人狼は誰でも構わないから会いたいと思った。

      何の躊躇も無く四足で駆け出し、光源の乏しい森林の間を無我夢中に抜けていく。

      何処となく慣れた挙動でもってある程度の距離を進んだ先には、円を描くような形で存在する一つの湖があった。

      夜を照らす黄金の満月を映し出した、美しい湖面を中心とした景色。

      その中には、先客とも呼べるかもしれない一人――いや、一匹の姿が見える。

      今の自分の身を包んでいるものと同じ色の毛皮をフードのように被る、人間の五歳児ほどの小柄な背丈をした一本角のナニカ。

      見たところ草笛を吹いていたらしいそれは、デジモンの種族としてはとても有名なものだった。

       

      「……ガブモン?」

       

      自分の現在の姿の原型たる、ガルルモンというデジモンに最も進化する可能性が高いとされる種族。

      何故自分の目の前にいるのかといった声色で、彼は呆然としたようにその名前を呟いていた。

      その声に反応してか、そのガブモンは自らが吹いていた草笛から口を放し、その顔を静かに人狼の方へと向ける。

      まるで、友人か何かに向けるような、穏やかな表情をしていた。

      目の前に現れた、人間ともデジモンとも呼べないかもしれない異形に対する恐怖や驚きなど、微塵も見当たらない。

      初対面であるはずの自分に対して、何故そんな顔を向けてくるのか。

      疑問だらけの中、穏やかな表情をしたガブモンの口がゆっくりと、うご

       

       

       

       

      ざざざざざざざざざざざザザザザザザザ!!

                      ザザザザザザザザザざざざざざざざざざざざ!!

       

       

       

       

      「――……っ!?」

       

      先ほどよりも更に強く、頭の奥で雑音が響いた。

      タワシを擦り付ける音を何倍にも増幅させたような障りのある音に、人狼は耐え切れないといった様子で両の手を頭に押し付ける。

      二本の足で自重を支える事さえも出来ず、ガブモンの目の前で人狼は倒れ込んでしまう。

      頭が割れてしまいそうだった。

      思考が定まらず、見えていた森と湖の風景さえもぐちゃぐちゃになっていく。

      許容量を超えた痛みに耐え切れなくなったように、その目元から涙が溢れ出てくる。

      言葉らしい言葉も吐き出せず、ただただ呻き声だけが漏れて。

      色彩の奔流に呑み込まれるような形で、彼の意識は落下の感覚と共に再び閉じていく。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

       

       

      率直に言って。

      熊の人形のような姿をした怪物の右肩に向かって刃を突き立て、その半分ほどを稲妻の刃でもって切り裂いてみせた司弩蒼矢の体力は限界に近付きつつあった。

      炎の魔人との戦いの中で受けた殴打と火傷のダメージは全く癒えておらず、擬肢である右腕と右脚を除いた生身の筋肉は過度極まる電気刺激の影響で疲労し、激しい痛みを断続的に発してしまっている。

      そして、今の竜人の姿に成る前は人工物で構成された作り物であった右腕と右脚についても、再度電気を流したりしたら痙攣程度では済まないレベルで使い物にならなくなるかもしれないと危惧するほどに、感覚が薄れてきている。

      正直な所、熊人形の右肩を半分切断する事が出来たのは幸運だったと言えた。

      刃を突き立てた時、自分の声にウサギ耳の少女が応え、磯月波音の体を受け止めてくれた事も含めて。

      本当に、あのウサギ耳の少女には感謝しか無いと蒼矢は思う。

       

      (……だからこそ、本当に戻って来てほしくないんだけどなぁ……)

      『そういう事は全部自分で何とか出来るようになってから言うべきだな』

       

      浮かべた思考に対して、宿りし怪物が呆れ気味な声色でそう漏らしていた。

      実際問題、眼前に見える熊人形の怪物は自分達の事を逃がす気はないだろし――二人の少女の事を想うのであれば、まず自分一人の力でどうにかしてみせるべきだろう。

      熊人形の怪物が、竜人と成った蒼矢を睨みつけながら忌々しげに言葉を吐きだしてくる。

       

      「チッ……どうやってアイツに勝ちやがったのかは知らんが、面倒事を増やしやがって」

      「そっちが色々と諦めてくれれば話は早いんだけど」

      「やなこった。これから先、お前のような強大な力をもった戦力が必要になる場面は少なくねぇんだ。何が何でも、お前には仲間になってもらう」

      「……少なくとも、こんな方法を取られた時点で仲間になるなんて絶対嫌だな」

       

      鱗の鎧を纏った赤き竜人と鋭利な爪を携えた黒い熊人形の怪物は、それぞれの獲物を構え出す。

      蒼矢はその腕に携えた稲妻の剣を、熊人形の怪物はその左手の携えた獣の爪を、腰元にまで寄せる形で。

      先に動き始めたのは熊人形の怪物の方だった。

       

      「大人しく仲間にならなかった事、しっかり後悔させてやる――」

       

      呪詛のように害意の篭った言葉と共に、あからさまに構えた左手ではなく右の手が差し向けられる。

      見れば、熊人形の怪物の周囲に、明らかに物理現象によって発生したものとして説明出来ない未知の凶器が複数発生していた。

       

      「――ヘルクラッシャー!!」

      「っ!!」

       

      その個数を数える間も与えぬ形で怪物が言葉を吐き出し終えると同時、怒号の如き声と共に未知の凶器――紫色に燃え盛る禍々しい怨念染みた炎――が飛び道具として放たれる。

      同時、蒼矢は氷に覆われた両脚でアスファルトの地面を蹴り、素早く滑り出すことでそれを回避していく。

      紫色の炎の群れ、その一つ一つはとても大きく、蒼矢の半身を丸呑み出来てもおかしくない規模のものとなっており、下手に掻い潜ろうとすれば痛手を負いかねないほどに密度も高い。

      故に、求められる進路は遠回りの道なのだが、氷の特性を利用した移動手段では踏ん張りを利かせづらく、途中途中で紫色の炎に命中しそうになってしまう。

      その度に稲妻の剣を振るって紫色の炎を切り裂く事で直撃を免れようとするが、ただでさえ高速で動いている中で完璧な迎撃など出来るわけも無く、二回ほど紫色の炎に身を焼かれてしまう。

      鉄の面を被った炎の魔人が放っていた炎のような熱は感じられないが、命中した箇所からは血肉を炙られているかのような鋭い痛みが生じている。

      それに顔を歪めながらも、どうにか左手で右腕を押さえつけるようにしながら、稲妻の剣の先端を熊人形の怪物の方へと向け、

       

      「サンダージャベリンッ!!」

       

      必殺の意を有する言霊を口にする。

      直後に赤き竜人の右腕に存在する金色の外殻――に備え付けられた銀の刃から青白く輝く稲妻が迸り、それは瞬く間に熊人形の怪物の胴体を貫いていく。

      人体に対して放つものとしては膨大極まる電力の暴威――それに貫かれた以上、感電による神経系へのダメージは避けられないはずだが、雷撃に胴部を貫かれたはずの熊人形の怪物は明らかに平然としている様子だった。

       

      「ハッ、この程度の電気が俺に効くかよ。せめて肉を焼き焦がせる程度の熱は持っとくんだ、なッ!!」

       

      そんな軽口を挟みながら、紫色の炎に続く形で熊人形の怪物は駆け出してくる。

      その挙動自体は少し前に対峙した炎の魔人と比べると鈍重と言えるものなのだが、なまじその巨体の歩幅は大きく、三秒もしない内に間合いを詰められてしまう。

      氷を纏った足で滑る竜人には咄嗟の回避を間に合わせられるだけの猶予など与えられず、止むを得ず赤き竜人は稲妻の剣を携えた右腕を左の腰元に動かす事で居合いの姿勢を取り、熊人形の怪物が振るいに掛かる熊の爪に対して真っ向から打ち合う。

      ガギンッ!! と金属の鳴る音が重く響き、二体の怪物の刃が鍔ぜり合いの構図を成す。

      右肩を半分切断されているにも関わらず、赤き竜人の腕に伝わってくる力はようやく拮抗出来ている、と言えるほどだった。

      疑問を覚えて右肩の方に視線を向けてみれば、切断されて黒い綿のような何かを露出させたはずの縫い目にあたる部分が、見えない何かに修繕されつつあった。

      詳しい理屈は解りようも無いが、この分だと熊人形の怪物の体は単純に切られる程度では根本的な欠損に繋がらない構造をしているのかもしれない。

      やがて、少しずつ圧す力が強まってくる。

      そして、

       

      「――へっ」

      「――っ!?」

       

      鍔迫り合いの、その最中に。

      熊人形の空いた左手が自身に対して差し向けられる。

      その、一見して無意味に思えなくも無い挙措に良からぬ意図を感じ取った赤き竜人は、熊人形の怪物の腕力に押されるようにして左側に向かって跳躍した。

      直後、熊人形の怪物の左手から、先ほどまで赤き竜人が立っていた位置に向かって、何やら黒いひび割れたハートの形をした何かが解き放たれていた。

      着地し、跳躍の慣性と足に纏った氷の特性に危うく転倒させられそうになりながらも、どうにか左手を地に着いてバランスを取った赤き竜人はたった今放たれた攻撃に目を細めていた。

      即座に彼は、思考の形で怪物の事情に詳しそうな――リヴァイアモンと名乗るその存在に対して問いを投げ掛ける。

       

      (一応聞くけど、今のは?)

      『深く考えるまでも無く触れたらまずいものだろうよ』

      (……具体的には?)

      『良くないウィルスの類が仕込まれてる可能性が高いって話だ。触れたら最後、体だけじゃなくて心まで蝕まれるかもな』

      (……心? ちょっと待て、ウィルスでそんな事が……?)

      『人間からすりゃ珍しいのかもしれんが、デジタルワールドじゃ珍しくない話だ。そもそも奴等の目的はお前を仲間入りさせる事だろ。だったらそれを促すための力……例えば、心変わりの力を使える奴を起用して当たり前じゃあないか?』

       

      ロクでもない、それでいて耳を疑う返事が返ってきた。

      だが、デジモンと呼ぶらしい存在に関しては人間の自分よりも多くの知識を有しているであろうリヴァイアモンの回答は、恐らく正しいものだ。

      事実として、熊人形の怪物と協力し合う関係にあると思わしき炎の魔人は、蒼矢が現在の姿に至って抵抗の意思を見せると、恐らくは脅迫して操ってきたのであろう磯月波音を、今度は殺害しようとした。

      その言葉を真に受けるのであれば、蒼矢の心を自らの望む方向に傾けるために。

      絶望と諦観で染め上げて、あるいは屈服させるために。

      だが、そこまでの話を聞いて、事情を理解して。

      ふとして、赤い竜人――蒼矢は地に左手を着いた姿勢のまま、熊人形の怪物に対して問いを口にした。

       

      「……どうしてだ?」

      「あん?」

      「心変わりを促す力なんてものがあるのなら、最初からそれを使って僕の心を弄くれば良かったんじゃないのか。あの子を利用して僕を誘導する、なんて方法は最初から取る必要が無かったんじゃないのか」

      「何だ、そんなことが聞きたいのか? まぁ、こっちにも色々あるわけなんだが……」

       

      何より、と付け加えて。

      熊人形の怪物は、赤い竜人の問いに対してこう締めくくっていた。

       

      「こういうやり方の方が愉しいからに決まってるだろうが?」

      「――――」

       

      その、何を当たり前の事を聞いているんだとでも言わんばかりの、軽い調子の言い分に。

      自然と、赤い竜人の口元から舌打つ音が漏れた。

      人生において始めてと言っても良い振る舞いだった。

       

      (……本当に、ふざけてる……)

       

      納得など、共感など、理解など、出来るわけがない。

      この熊人形の怪物は、確かにこう言ったのだ。

      今回の案件において、磯月波音を利用したのは自らの愉しみのためだと。

      ひょっとしたら言葉にしていないだけで、何らかの都合や効率の話だって絡んでいるかもしれないが。

      もし、仮に理由が愉しみのためだけだとしたら。

      導かれる答えは一つ。

      司弩蒼矢を手に入れるための利用の対象が、磯月波音でなければならない理由なんて、何処にも無かった。

      あの少女はただ、この怪物どもの楽しみのための消費物とされたのだ。

      その理不尽に、怒りを覚えずにいられるはずが無かった。

      が、その時――怒りに煮え滾る頭の奥底から、宿りし怪物の声が響く。

       

      『ちょっと代われ』

      (……リヴァイアモン?)

      『体を少しだけ貸せって言ってんだ。多分出来るだろ? ちょいと、俺の方からも聞きたい事が出来たんだ』

      (……解った……)

       

      自分の体を、自分では無い誰かに預けること。

      それは下手をすれば、自らの自由を失うかもしれない提案だったのだが、司弩蒼矢は特に躊躇などはしなかった。

      今この状況に至るまでの事を想えば、信頼を置くに足る存在である事は疑う余地も無かったから。

      無論、彼はスイッチでも切り替えるような体の主導権を変更する方法などは知らない。

      ただ彼は、心の中で今の姿に至る前に見た海の中を夢想した。

      そこに自分が潜り、代わりにあの巨大極まる赤色の鰐を、その心を浮き上がらせるようなイメージを抱いた。

      結果から言って、体の制御権の移行は完了したようだった。

      自分では無い存在が、実感でも確かめるように右手を握ったり開いたりしているのが、解る。

      声質こそ変わらないが、別人のような喋り方でもって、竜人の口が開く。

       

      「おい、小僧」

      「あん? 何だ、急に偉そうになりやがったな」

      「一つだけ聞かせろ」

       

      そして。

      司弩蒼矢の肉体を借りた怪物は、熊人形の怪物に対してこんな問いを出した。

       

       

       

       

      「お前達の上は『強欲』のバルバモンか」

       

       

       

       

      その、質問というよりは、まるで答え合わせでもするような言葉に。

      熊人形の怪物は、疑問を覚えたように首を傾げ、こう返していた。

       

      「……はぁ? そりゃあ、あながち間違いじゃねぇが……何だ? 急に偉そうになったと思えば、今度は知った風な口を利いて……いや、待て。テメェはまさか、中身の方か?」

       

      が、問いを出した当人の方は熊人形の怪物の問いには答えようとせず、代わりに心の中で言葉を漏らしていた。

       

      『……やっぱりか。クソが、人間の世界でまで幅利かせてやがんのかあのジジイ……』

      (話が掴めないんだが。バルバモンって、それもデジモンの名前なのか?)

      『さっき心変わりの力の事を聞いただろ。俺の知る限りではそれを得意とする筆頭であり、欲しいモンのためなら何でもするってヤツだ』

      (……まさかとは思うけど、知り合いなのか?)

      『嫌な意味でのな』

       

      デジモンの事を詳しく知らない司弩蒼矢からすると、リヴァイアモンの言うバルバモンというデジモンがどういった存在なのか、イマイチ理解は及ばない。

      しかし、つい先ほどまで冷静な言葉を投げ掛けていたリヴァイアモンの声色が、明らかに嫌悪の混じったものになっている事は理解出来た。

      そんな事実には気付くわけも無く、熊人形の怪物は体の主導権が司弩蒼矢から宿る怪物の方に移っている事だけを察したらしい熊人形の怪物は、嬉々とした笑みでも浮かべるような調子で一つの提案を口にした。

       

      「そうだ、お前は魔王なんだろ? だったら正義面してやがるそのガキと違って、俺達の仲間になってくれるか?」

      「馬鹿を言え。七大魔王ってのが組織の名称じゃあなく、ただの称号に過ぎない事も知らねぇのか? 安易に同類扱いしてんじゃねぇよ吐き気がする」

      「何だよ中身の魔王サマも正義面かよ。それとも『嫉妬』の魔王だからか? 自分より偉そうにしてるヤツは誰であろうと気に食わないって所か? だったらまぁ、気を悪くして悪かったな」

      「下らん媚び売るくらいならもう放っておけ。何者であれ、俺の力を利用しようとして俺以外の何かを貶めようとするような輩の要求に従う気はねぇんだからな」

      「従えば、少なくともソイツの身内には手を出さない……と言ってもか?」

      「約束を守ろうなんて善性が残っているようには見えんが?」

      「……なぁるほど、筋金入りってわけか」

       

      心からの譲歩の意思など微塵も無い言葉の応酬があって。

      熊人形の平らにも見える右手が改めて赤い竜人に差し向けられ、先端に黒いハートの形をした力の塊が生じる。

      他ならぬリヴァイアモン自身が蒼矢に警告した、心変わりの力を使うつもりらしい。

      現在体を動かしているのは司弩蒼矢の意思ではなくリヴァイアモンと名乗る怪物の意思によるものだが、仮にあの攻撃を受けてしまった場合、どうなるのか解ったものではない。

      現在体を動かしているリヴァイアモンの精神が弄くられてしまうかもしれないし、逆に体を動かさず内的世界に精神を沈めている司弩蒼矢の精神が抉られてしまうかもしれないし、あるいはどちらに対しても何らかの効果が発揮されてしまうかもしれない。

      回避以外の選択肢は無かった。

      赤い竜人の体の主導権を担うリヴァイアモンは、右脚に力を込めて真横に力強く跳躍する事で放たれてくる黒色のハートを回避し、跳躍の勢いによって空中で回転した体勢のまま稲妻の剣の先端を熊人形の怪物に向ける。

      直後に空気が弾けるような音が炸裂し、稲妻の剣から蒼光りする雷撃が放たれ、それは熊人形の怪物の頭部を瞬きの間に貫いていく。

      が、どう考えても意識を断絶されて然るべき一撃を受けた熊人形の怪物は、返しの一撃にも大したダメージを受けた様子は無く、平然とした様子でその視線を赤い竜人の方へと向けていた。

      肩から地面に激突し、それでも殺しきれなかった運動量の分だけ転がった赤い竜人は、殆ど四つん這いに近い体勢になって熊人形の怪物を睨む。

      見方によってはトカゲのようにもなったその姿を見て、熊人形の怪物の口から嘲弄の声が漏れる。

       

      「なんだぁ? カエルみたいにピョコピョコ跳ねるのが好きなのか? ハハッ、嫉妬の魔王サマの進化前は実はゲコモンだったってかぁ!? トノサマゲコモンもそういや赤かったっけなぁ!!」

      「…………」

       

      あからさまに嘲弄された赤い竜人は、特に表情を変えたりはしなかった。

      熊人形の怪物の嘲弄などよりも、ずっと思考を必要とする話があったからだ。

       

      (……頭を電気で貫かれて、平然としてるなんて……)

      『この分だと「サンダージャベリン」は効かねぇみたいだ。おい人間、あの野朗の弱点とかに心当たりは無いか』

      (僕は君達デジモンの事をそもそもよく知らない。着ぐるみみたいに見えはするけど……)

      『キグルミって、何だ?』

       

      しかし、現在は戦闘の真っ只中。

      合間に挟める思考は、即座に敵対者の行動によって遮られるのが定め。

      熊人形の怪物は嘲弄の声を漏らしながらも、自らの周囲に複数の紫色の炎を出現させ、更には両の手の先端から再び黒いハートの形をしたエネルギーの塊を出現させていく。

      今度は逃がさない、とでも言いたげな布陣だった。

      それに対して嫉妬の魔王の意思で動く赤い竜人は、窮地の中にある状況を理解した上で、鼻で笑った。

      そして言う。

       

      「手抜きなんて、狩る側としては三流もいいとこだな」

      「これだって何も消費しないわけじゃねぇんだ。サービスしてやるから大人しく食らいなッ!!」

       

      宣言とも言える言葉が吐き捨てられ、闇の猛攻が迫る。

      赤き竜人は即座に両目を凝らし、回避のためにどの方向に跳び出すべきかと一瞬思案して、

       

       

       

       

      「だあらっしゃあああああああああああああああああああ!!」

       

       

       

       

       

       

      直後の出来事だった。

      赤い竜人に対して猛攻を放つ所だった熊人形の怪物の後方より。

      聞き覚えのある少女の声が聞こえ、それに熊人形の怪物が気付いた時にはもう遅く。

      拳法着染みた黄色の衣装を身に纏った兎の獣人の右拳が、熊人形の怪物の背中に深く突き刺さっていた。

      これまでの攻防から単純に考えて、痛手になり得るとは思えない一撃。

      されど――少女が叩き込んだ拳は、ただの拳ではなかった。

      何か、黄色く眩い輝きが宿ったものだった。

       

      「――ぐ、あちぃっ!?」

       

      故に、だろうか。

      熊人形の怪物に対して放たれたその一撃は、熊人形の口元から悲鳴を上げさせていた。

      集中力でも切れた影響なのか、周囲に出現していた禍々しい飛び道具は全てその形を崩して空気に溶けていく。

       

      『――なるほどな。代わるぞ』

      (え? わ、解った)

       

      位置の関係で状況を詳しくは読み取れなかったはずだが、熊人形の怪物の様子に赤い竜人は何かを察した様子で瞳を閉じて――体の主動権を、リヴァイアモンから司弩蒼矢へと戻した。

      突然の判断に戸惑いを覚えながらも、体の主導権を戻してもらった司弩蒼矢は四肢を地に着けた四つん這いの体勢から一転、右手に備えた稲妻の剣を支えとして素早く立ち上がる。

      気付けば、熊人形の怪物は赤き竜人の方など見てはいなかった。

      勢いよく背後へと振り返り、その視線を拳法着に兎耳の少女の方へと向けていた。

      彼の標的は間違い無く司弩蒼矢とそれに宿るリヴァイアモンの力であるはずにも関わらず、だ。

       

      「てめぇ、このクソガキ……!!」

      「さっき言ったでしょ。すぐ助けに来るって!!」

       

      返す刀として殺意をもって振るわれる鋭利な爪を避け、兎耳の少女は即座に赤き竜人のすぐ隣にまで足を運んでくる。

      必然的に熊人形の怪物の視界には赤き竜人と兎耳の少女の姿が入り、自らの置かれている状況かあるいは一向に抵抗を続ける彼等の振る舞いに苛立ちを増したらしい彼は、こんな言葉を発してきた。

       

      「無駄な抵抗してんじゃねぇ!! こっちが『組織』だって事実を解ってんのか。仮に俺を倒せたとしても、お前等に気の休まる時なんか来ねぇんだよ!!」

       

      その言葉は、真実だろうと蒼矢は思う。

      今の姿に成る前にも考えた事だが、磯月波音を利用するにあたっての計画的な行動を考えても、彼等の所属する『組織』の戦力は少なくとも両手の指の数を超えている。

      炎の魔人に続き、目の前の熊人形の怪物を撃破出来たところで、また新たな襲撃者がやってくる可能性は決して低くない。

      他ならぬ被害者である磯月波音自身も、言っていたではないか。

      こいつ等は、家族を人質に取る事だって厭わない輩だと。

      今になって思えば、あの囁く形の言葉は彼女自身の状況を表してもいたのだろう。

      自分ではなく、自分にとって大切な誰かが命を狙われる状況。

      それは、決して独りの力では抗いようの無い現実だ。

       

      (それでも、諦めるわけにはいかない)

       

      だが、その事実を理解した上で司弩蒼矢は屈する選択だけはしない。

      自分が屈するだけで全てが無事に済ませられる話では無いと、そう理解しているからだ。

      と、そこまで思考した時だった。

      拳法着に兎耳の少女が、疑問ある声色でこんな事を聞きだしたのだ。

       

      「アンタさ、何か『組織』がどうの言ってるみたいだけどさ。それにしてはまったく増援が来る気配が無いんだけど? アンタ等の狙いだと思うヤツが逃げ出したのに。連絡を取ってないならまだしも、ただの一人も来ないってのは本当にどういう事なの?」

      「解ってねぇな。俺達の狙いはリヴァイアモンだけじゃねぇんだ。別件があんだよ。そしてその別件さえ終われば、すぐにでも増援は――」

      「つまり、アンタ達悪党と戦ってるのは私達だけじゃないって事よね」

       

      その言葉に。

      司弩蒼矢だけではなく、彼に宿る怪物もまた、息を呑んだ。

      戦っているのは、自分達だけではない。

      敵の敵は味方――なんて言葉がどこまで鵜呑みに出来たものかは解らないが、少なくとも熊人形の怪物の言う『組織』の意向に抗う形で戦っている誰かが、何処かにいる。

      顔も声も知らない、きっと自分と同じく怪物――デジモンの力を振るう人間が。

       

      「アンタ達の企てたことの全容なんて知らないけど、アンタ達の行動を良く思わない人はいるんでしょ? そうじゃなかったら、こんな街外れ……目立たない場所に移動する必要なんて無いはず。コソコソやらないといけない事情が、少なからずあったはず。そして、それは多分……アンタ等を強さで超える正義の味方の存在よ」

      「ハッ、嬢ちゃん。仮に正義の味方だったら何だってんだ? そいつが、魔王を宿してる化け物の味方になるとでも? むしろ逆だろ。正義ってやつを果たすために、全力でブチ殺しに掛かるだろうよ。わざわざ仲間にしようとしている優しい俺達とは真逆でなぁ?」

      「アンタの言う通りなのかどうかなんて知らないけどさ」

       

      迷いの無い声で。

      赤き竜人の隣に立つその少女は、熊人形の怪物に対してこう告げる。

       

      「少なくとも私はこの人を『助ける』側に回るわよ。絶対に、独りになんてさせてやらない」

       

      確証なんて無くとも、明確な希望なんて見えなくとも。

      初めて出会ったはずの、名前も顔も知らない相手を『助ける』ために戦うと、少女は宣言した。

      その姿に、司弩蒼矢が脳裏に真っ先に思い浮かべたのは、殆ど暴走状態にあった自分と夜中のプールで戦った、牙絡雑賀と名乗った狼男。

      自然と、胸中を蠢いていた不安が解きほぐされていく。

      独りではないという事は、助けてくれる誰かがいるという事は、こんなにも心強いのだと、理解する。

      であれば、自分の事を『助ける』と言ってくれた少女と、自分の事を想って犠牲の道を選んでしまった少女のために、彼が紡ぐ言葉も決まりきっていた。

       

      「……行こう。僕達が帰るべきだと、きっと誰かが待っている場所に!!」

       

      そうして。

      最後の攻防が、始まった。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      「――――っ?」

       

      意識が覚めたその時には、全てが変わっていた。

      落下の感覚は唐突に途切れ、両脚は地面の感覚を確かに捉え、殆ど横倒しに近い状態にあった姿勢は何事も無かったかのような直立の姿勢に整えられている。

      体の方は変わらず人狼の姿だったが、殆ど発狂寸前にあった思考は知らず知らずに安定を取り戻していて、両の瞳はそれまで見えていたぐちゃぐちゃな景色それ自体が嘘であったかのように明確な風景を視界に映し出していた。

      夜闇と月の光に彩られた森の景色と、そこに存在していたはずのガブモンの姿の代わりにその視界に映し出されたのは、牙絡雑賀という人間にとっては見慣れた光景とも言える街中の裏路地。

      コンクリートのジャングルとも呼べるその場所を照らす光の色は、焼け付くような橙色。

      肌寒さを僅かに帯びる空気から察するに、時は黄昏時――学業を営む者たちにとっては放課後に該当される時間帯らしい。

      先ほどの自然溢れる深緑の光景とは真逆に、乾いた灰色が広がる汚れた景色。

      彼はそれに対して、不思議と懐かしさと覚えていた。

      霧がかかったように浮かび上がらずにいた思い出が、少しずつ浮かび上がってくる。

       

      (……確か、ここって……)

       

      思考に合わせるように、裏路地の中に何人かの人間のシルエットが浮かび上がる。

      顔は黒く塗り潰されているかのように解りづらいが、構図を見ればどういった行いが為されているのかは明白だ。

      一対六の、男同士のケンカ――言ってしまえば、|私刑《リンチ》の現場だ。

      獣人の口から、うんざりするようにため息が漏れた。

       

      解るのだ。

      この構図、この光景が示す意味が。

      これは、とある友人と出会う事になった、切っ掛けの光景だ。

       

      中学生の頃の話だ。

      彼が通っていた中学の生徒の間では、ある一つのグループが構築されていた。

      今となっては記憶がおぼろげだが、それなりに格好を付けた気になってそうな名前が付けられていた覚えがある。

      そのグループは、言ってしまえば暴力を誇示するための枠組みだった。

      ただ無邪気に、自分達がやりたいと思ったこと――気に入らないヤツを相手にした私刑を行ったり、そうして屈服させた相手に金銭を要求したりといった――を暴力に任せて遂行していく。そんな思考を持った学生が集った枠組み。

      それが生まれた最初の発端がどんなものだったのかは知らないし興味は無かったが、ある頃からそれは頭数を増やしていき、嫌が応でも彼という存在を巻き込んでいった。

      幸か不幸か――今となっては後者だと思えるが――彼は賢い人間だった。

      いつか標的にされてしまえば、一人の力ではどうしようも無い――そう危惧したからこそ、彼はそのグループの中に入り込む道を選んだ。

      具体的に言えば、リーダーの男に先んじて媚び諂い、その方針に従うよう動いたのだ。

      グループが標的と定めた、何の恨みも無い少年の顔面を殴ったりなどといった、私刑に対する加担という形で。

      グループのリーダーは、自分の定めたルールに同調する相手に対しては友好的な態度を取る人間だった。

      プライドや良心などを捨て去ってしまえば、取り入る事自体は簡単だったのだ。

      愛想笑いの作り方や、人の殴り方を体得するには、十分過ぎるほどの時間――彼は自分という存在を群れの中の一人として形作っていた。

       

      無論、学校の内外で行われたグループの目に余る行為は時として教師の耳にも入る事があった。

      しかし、当時の被害者からすると本当に不幸なことに、学校は被害者達が望むような形の対応を行ってくれなかった。

      停学や退学などといった「今後」のための対応は無く、申し訳程度の面談による注意という形に留めてしまったのだ。

      そして、そんな学校側の控えめな対応に付け上がる形で、グループの行いは更にエスカレートしていった。

      なまじ人数だけは多かったからこそ、場合によっては教師の力にも抗えるとでも思っていたのかもしれない――集団特有の心理だ。

      生徒達の間で、秩序などもう殆ど在って無いようなものだった。

      それは最早、暴力を司る一個人による独裁でしか無かった。

       

      確かに、結果として彼に対するグループの暴力が振るわれる事は無かった。

      だが、一方でそうした結果に対する安堵や喜びなんて無かった。

      自衛のための選択、そう言い訳したって胸の中には虚しさばかりが募っていた。

       

      自分のやっている事が悪い事だという事ぐらい、最初から理解はしていた。

      だけど、一人が正義に立ち上がったところで物事が解決に繋がるわけでは無いとも思っていた。

      無駄な痛みを背負うぐらいなら多数決の勝利に乗っかった方が、まだマシな話だとも。

      ただでさえ、彼が混じってからもグループという群れの規模はどんどん大きくなっていて、たったの一度でもその方針とは異なる行動に出てしまえば、どんな目に遭わされるかは解ったものではなかったから。

       

      どうせ、卒業さえしてしまえば半数近くは出会わなくなる相手だ。

      自分の人生に関わる可能性など、さして高いわけでも無い赤の他人なのだ。

      そんな相手のために、下手をすると一生モノになってしまうかもしれない傷を負う必要なんて無い。

      個人の意思なんて、プライドなんて、集団の力の前には何の役に立たない。

      自分が立っている世界とは、現実とは、所詮そういうものなのだから。

      不思議と長く感じられる月日の中、彼はそんな風に自分が加害者であるという現実を受け入れて日々を過ごすしかなかった。

       

      そう、ある日の裏路地で、とある少年がグループによる私刑の現場に独りで首を突っ込んで来るまでは。

       

      「――――」

       

      その、現代においてはどこにでもいるような黒髪の少年の目は、怒りに染まっていた。

      自分自身が被害を被ったからではなく、単純に目の前の所業が許せないといった顔だった。

      どうも、その日の私刑の標的が裏路地に連れ込まれる所を目撃してしまったらしい。

      哀れなスケープゴートを救出するため、最初は言葉で暴力を止めるように訴えて、聞く耳を持たないといった様子のグループの顔を見て、腕づくで取り返しに掛かって。

      結果から言って、勝負になんてなっていなかった。

      そもそも根本的に、その少年の動きにはケンカ慣れしている様子さえ無かった。

      正義に燃えた少年は、当たり前のように集団の暴力でもって数々の痣を残される羽目になった。

      ボロボロに踏み躙られ、道端のゴミのような扱いを受けていくその様を、彼は加害者の視点から眺めていた。

       

      結局、これが現実なのだ。

      集団の力の前では、個人の力などこの程度のものでしか無い。

      どうせこいつもすぐに屈服する。

      そんな風に思いながら、冷えた心を胸に仕舞い込んだまま、暴力に加担して。

      そうして、何度も殴って何度も蹴って――それでも弱音を吐かない少年に対し、ふとして疑問を覚えたように彼はこんな問いを出したのだ。

       

      なんで首を突っ込んだのかと。

      勝ち目が無いと解りきっているはずなのに、何故一向に諦めようとしないのかと。

      ただただ、お前が損をするだけなんじゃないのか、と。

      そうして、自分で自分が虚しくなる言葉を吐き出し終えると、殆ど間を置かずにその少年はこう答えていた。

       

      ――許せないから。

       

      ――ただ、こうしたいと思ったから。

       

      ただの感情論だった。

      追い詰められた状況の中で吐き出されたその言葉の中には、勝算や利害、損得の話など微塵も臭わない純粋な思いが感じられた。

      きっと、少年自身にとっては当たり前の選択だったのだろう。

      正義の味方になった気になって、善性に酔っているわけはないとも思えた。

      後で知った事だが、標的とされた生徒自体も、その少年の友達でも知り合いでも何でも無かった。

      彼はただ「独りを多人数で痛めつける」この状況を見て、自分が何をしたいと思うのか――いっそ本能とも呼べるものに従っただけだったのだ。

       

      無論、どんなに綺麗事を口にしても、当然ながら現実は変わらない。

      集団の暴力は、個人の意思など容易く押し潰していくことだろう。

      たとえ心が折れなかったとしても、体の方はいつかロクに力が入らなくなる。

      そこまで理解して、そこまで想像して、そして。

       

      彼は。

      ただ、心からそうしたいといった調子で。

      彼は、少年の顔面を殴ろうとしたグループの一員の顔面を殴り飛ばしていた。

       

      突然の裏切りに戸惑うクソガキ共を一瞥すらせず、彼は仰向けに倒れ伏していた少年の手を掴んで引いた。

      彼の突然の行動に対して、集団だけではなく少年の方もまた驚いたような表情を浮かべていた。

      だが、きっと確認の言葉は必要ないと思ってくれたのだろう――少年は、彼の助けを経て立ち上がると、彼と共に改めて集団に立ち向かっていった。

      お互いに腕っ節が強い部類では無かったが、結果から言って二人の少年は集団をどうにか撃退する事に成功していた。

      撃退に成功した彼と少年からしても無我夢中の行いであったため、詳しい攻防の内容をいちいち覚えたりはしていなかったが、二人の抵抗によって集団が逃げるようにいなくなった頃には、二人揃って裏路地の汚い壁に背中を押し付けるような形で腰を下ろしていた。

      標的とされる所だった生け贄の少年は知らず知らずの内に逃げていたようで、時間経過によって影が濃くなってきた裏路地には二人の姿だけがあった。

       

      疲れきった様子の少年は、彼に対してこんな問いを出した。

       

      ――どうして、こっちの側に立って戦ってくれたんだ?

       

      対して、他ならぬ少年に暴力を振るった集団の内の一人だった彼は、こう返していた。

       

      ――多分、お前と同じ理由だ。

       

      加害者であった彼自身、どの口でほざいているのかとも思いはした。

      そもそも彼の立場を考えれば、今の行動は利口な判断とはとても呼べないものだ。

      まず間違いなく、彼の裏切りは暴力の集団に速やかに伝わっていくことだろう。

      なまじ最初から反抗していたのではなく、裏切りという形で集団の方針に抗ってしまった以上、標的としての優先度は高くなる。

      もう、標的にされる事は避けられない。

      人混みの中に紛れ込んだ人狼が、嘘の毛皮を被れなくなったらどうなるのかなんて明らかだ。

      今まで自分が助かるために他人に押し付けてきた暴力が、あるいはこれまで見てきたもの以上の害意を伴って襲い掛かってくる未来。

      そんな、自業自得とも言える未来を少しだけ想像して。

      それでいて、彼は薄く笑みを浮かべていた。

       

      ――お前、名前は?

       

      ――牙絡雑賀。お前の方は?

       

      ――紅炎勇輝。

       

      それはまるで。

      ずっと、お利口ぶって自分の心を偽ってきたのが馬鹿だったと。

      最初からこうしていれば、もっと話は簡単だったかもしれないのにと言わんばかりに。

      そして、そう思ってしまった時点で、彼は自分の本音を誤魔化す事など出来なくなっていた。

      後悔と、そう呼べる感情が湯水のように湧き出てくる。

      自業自得である事など百も承知だ。

      偽った気持ちのまま情けない行いを続けてきた過去は絶対に消せない。

      これからどうすれば良いのかなんて、すぐには思い浮かべられなかった。

       

      だから代わりに、彼はいっそ開き直るように、一つだけ自分に決意した。

      もう二度と、自分の気持ちを偽る事は止めよう、と。

      下らない後悔に塗れるぐらいなら、せめて自分で自分に誇れる選択をしよう、と。

      例えそれが、後に取り返しのつかない事態を招いてしまうかもしれなくとも。

       

      (……ああ……)

       

      思考が纏まっていく。

      記憶が繋がり、自分がやるべき事を思い出す。

      彼は、自分と言えるものを取り戻す。

      同時、瞬きの間に黄昏時の裏路地の景色はまたも一変し、彼の視界いっぱいに黒が広がる。

      一番最初に見た時には、道標一つも見えなかった世界。

      ふと、その景色に移行するにあたって、落下の感覚が無かった事に疑問を抱いて。

      ふとして足元へ視線をやれば、彼自身が自分が何をやるべきなのか、何を目指したいと思っているのかを思い出したからなのか、淡い緑色の炎で形作られた一本の道が、三歩先の位置から遥か遠くに向けて姿を現していた。

      遠近感も何も無い世界にて発生した、安易に触れてしまえば足先から全身を炎上しかねない道。

      彼には、現実的とは言えないその存在が、自らに対してこう告げているように思えてならなかった。

       

      この先は地獄だぞ、と。

      一度踏み締めれば、取り返しはつかないぞ、と。

      彼自身も、何となくその通りかもしれないと思った。

      きっと、自分が向かう道程は地獄と呼べてしまう類のもので。

      そこに向かうという事は、避けようの無い危機を受け入れる事に他ならないのだと。

      まだ、今なら後戻りが出来るかもしれないそれを、受け入れるのか否か。

      そうした、炎の道からの暗示を受け、彼は誰に対して告げるでも無くこう答えた。

       

      「……行くさ。行くに決まってる」

       

      背後を振り向く事はせず。

      彼は、その人狼は確かに両の手で闇を踏み締める。

       

      「もう心に決めてんだ。司弩蒼矢だけじゃない。苦朗のヤツも勇輝のヤツも……俺が大切だと思える奴等は全員助けるって。助けるために全力を尽くすって」

       

      躊躇無く、駆け出す。

      当然のように、淡い緑色の炎が人狼の全身を燃え上がらせていく。

      三色を宿した美しい毛皮が、人間の頃から履いていたジーンズが、その輪郭を失う。

      人狼の全身が、緑色の火だるまになる。

      毛皮を失った獣人の五体が、炎の中で血のように鮮やかな赤色に染まる。

       

      「たとえ、そのために向かう場所が、本物の地獄だったとしても――」

       

      だが、それでも。

      彼の四つ足は、決して前に――目指すと決めた場所に駆ける事を止めない。

      緑色の炎に包まれた彼の赤い体には、同時にこの世界を彩るそれと同じ黒の色を宿した鎧が纏われ始めていく。

       

      「俺はもう、俺に嘘は吐かないって誓ってるんだッ!!!!!」

       

      地獄にも等しい世界の中。

      彼という人狼は、ただ一心不乱に炎の上を駆け続けて。

      そして、

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      ――ガルルモン、進化――!!

       

      荒れ果て、見捨てられた都会の残骸の上で。

      深い傷を負った縁芽苦朗が、それでも強い願いと共に淡い緑色の炎を灯らせていた、左腕を中心に発生していた鎖の檻の中から。

      かくして、その存在は産声を上げ地に降り立つ。

      自らを縛り付けていた鎖を、それを構成していた物理を越えた何かを全て飲み込み、糧としながら現れたのは。

      堅牢な外殻に身を包み、両手の先に犬の頭のような形の火器を、両足から銀に煌めく鍵爪を携えた赤黒の獣人。

      其は、デジタルワールドにおいて地獄の番犬と称される魔獣。

      存在の根幹、ギリシア神話においてもまた死者の向かう先とされる冥府の入り口を守護しているとされる者。

      その名を、示される変化の形を、受け入れるように彼――牙絡雑賀は自らの名を告げる。

       

      「ケルベロモンッ!!」

       

      「――なっ!?」

       

      戦力外の存在だと思っていた存在が急に姿を変えて現れたその事実に、上空から誰かが驚きの声を漏らしたが、変化を遂げた牙絡雑賀は気にも留めなかった。

      その視線を、地に降り立った自分のすぐ近くにて仰向けに倒れた状態の縁芽苦朗に向けると、牙絡雑賀は目を細めてこう問いだした。

       

      「……おい、大丈夫か? なんかやべぇ事になってるみたいだが……」

      「……誰の所為でこうなったと思っているんだこの馬鹿野朗……?」

       

      その怒り混じりの言葉に、牙絡雑賀は自分の存在が本当に縁芽苦朗の足を引っ張ってしまっていた事実を再認識する。

      完全体クラスのデジモンの力を振るう相手を三人も相手にしていたとはいえ、究極体――それも『七大魔王』というビッグネームを掲げる存在を原型とした力を振るう者が追い詰められてしまっているほどの重荷を、押し付けてしまっていたのだと。

      それを理解した上で、牙絡雑賀は魔王を宿す男に対してこう続けた。

       

      「……何だかんだ言って、俺のこと護ってくれてたんだな」

      「やかましい、そして勘違いをするな。俺が護ると決めているものぐらい、お前は察しているだろうに」

      「そうだな。悪い、今の台詞は忘れてくれ」

      「馬鹿言う暇があったら敵を見ろ」

       

      互いに、つい先ほどまで意見の相違で衝突したとは思えない口ぶりだった。

      元々敵同士というわけでは無いのだから、あるいはこれこそが当然の振る舞いなのかもしれないが。

      そんな彼等の会話の内容など気にも留めないように、敵対者である三人の電脳力者が攻撃を仕掛けてくる。

      嵐の如き真っ黒い蝙蝠の群れが、生き物のように口を有した有機体系ミサイルが、上空から速やかに迫り来る。

      応じるように、牙絡雑賀は即座に両手に存在する犬の頭の形をした火器、その砲口を素早く向けていく。

      そして、必殺の言霊を口にした。

       

       

       

       

      「ヘルファイアーッ!!」

       

       

       

       

      言霊が口に出されると同時、犬の顔の形をした火器の砲口から膨大な量の熱が噴き上がった。

      その色は、縁芽苦朗が必殺技のために用いていたものとよく似た、淡い緑色だった。

      その猛威は暗黒の蝙蝠の群れと有機体系ミサイルの群れを速やかに喰らい尽くし、灰も残さず消し去ってしまう。

      そんな圧倒的な炎を放ってきた牙絡雑賀を排除するため、女悪魔と機竜の攻撃に注目を寄せて別方向の遠方より放たれていた呪いの弾丸を、仰向けの状態から立ち上がった縁芽苦朗は即座に掴み取り握り潰してしまう。

      そうして、粉々に砕けたそれを見やる事なく、縁芽苦朗は牙絡雑賀の隣に歩み寄る。

      互いに、互いを共闘相手と見なした上で、怪物に成った二人は告げた。

       

      「せめて、足を引っ張った分ぐらいは役に立てよ。番犬」

      「俺は俺で好きにやる。そっちも気張ってくれよ。魔王」

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      気を引き締めるような宣言の直後に。

      息を強く吸い込んだ赤き竜人は、即座に熊人形の怪物の足元を目掛けて氷の吹き矢を数多に放出していく。

      雷撃は通用しない、であれば冷気の類は通用するのか――そんな疑問の元に放たれた攻撃。

      それは熊人形の怪物の体に確かに命中すると、熊人形の体を表面から凍結させんと氷の膜を形成し始める。

      が、それは熊人形の怪物が即座に自身の周囲に出現させた紫色の毒々しい炎によって見る見る内に消し去られてしまう。

      出現した紫色の炎は紛れも無く熊人形の怪物自身の体をも焼いているはずなのだが、熊人形の怪物の体は遠目から見ても焼け跡一つ見当たらない。

      返す刀で向かってくる紫色の炎の群れに対し、氷の靴を有する赤き竜人は兎耳の少女と共に動き出す。

      片や氷の力でもって滑りながら稲妻の刃を振るい、片や軽快に駆けながら暖かな輝きを纏った拳で紫色の炎を迎撃していく。

      何事も無いように見えるが、彼らは共に戦いの中で消耗している身。

      少しずつ、だが確実に――息は上がり始めていた。

      対照的に、熊人形の怪物の方はあまり戦闘の中では体を動かしていない所為か、特に息が上がったりなどはしていない様子だ。

      現在に至るまでに受けた攻撃の数を思えば、熊人形の怪物の方こそが消耗していて然るべきはずなのだが……? 明らかに生き物のそれとは異なる体の構造をしている相手に、真っ当な消耗や損傷を期待するほうが間違っているのだろうか、と赤き竜人たる司弩蒼矢は疑問を抱くが、当然ながら力の大元たるデジモンの事など知らない彼の頭では答えなど出ない。

      だから、司弩蒼矢は回避行動を取りながらも頭の中で自らに宿る怪物と言葉を交わしていた。

       

      (訳知りな感じに交代したわけだけど、何か解ったの?)

      『まず、あの子を援護するべきだってのは確かだな。何のデジモンの力か正確には知らんが、闇の種族に対して有効な「聖なる力」ってのを持ってるようだし』

      (援護って、具体的には?)

      『攻めまくれ』

       

      ある意味においては無駄の無い、解りやすい答えが飛んできた。

      故に、赤き竜人たる司弩蒼矢は悩む事を止めた。

      氷の靴を用いた滑りの軌道を鋭角に曲げ、紫色の炎の間を掠めるような軌道でもって、熊人形の怪物の方へと素早く向かっていく。

      稲妻の刃を構える彼目掛けて、熊人形の怪物は即座に獣毛を有する左腕を振り下ろしてくる。

      力で押し勝つ事は出来ない――それを理解した上で、赤き竜人は真っ向から熊のそれを想わせる鋭利な爪を稲妻の剣でもって受け止める。

      二度目となるつばぜり合い。

      ただでさえ消耗が重なっている故か、あるいは思い通りに目論見が進まない事に怒りでも感じている故か、赤き竜人の右腕を起点に圧し掛かってくる熊人形の怪物の腕力は更に強いものになっていた。

      氷を靴の形で纏っている両足は、押し潰されないように踏ん張るのが精一杯――今このタイミングで更に攻撃を重ねられてしまったら、一度目のつばぜり合いとは異なり跳躍で回避する事も出来ない。

      そうなるように、恐らく熊人形の怪物も強く圧力をかけてきているのだろう。

      一見万事休すの状況――されど、赤き竜人の表情に絶望の色は無い。

      今戦っているのは、自分だけではないと知っているからだ。

       

      「ちっ……!!」

       

      熊人形の怪物が、素早く追撃の手を加えようとするその寸前。

      いつの間にか熊人形の怪物の右側面にまで移動していた兎耳に拳法着の少女が、熊人形の怪物の頭部目掛けて力強く跳躍した。

      無論、彼女の存在については熊人形の怪物の方も意識には入れていただろう。

      事実として、跳躍した兎耳の少女を阻むように、熊人形の怪物が発生させたと思わしき紫色の炎が進行方向上に存在しているのだから。

      だが、兎耳の少女は動じることなくその両手に暖かな輝きを纏わせると、跳躍した勢いをそのままに自らに向かってくる紫色の炎を殴り散らし、同じく輝きを纏っていたその右脚を熊人形の怪物の頭に叩き込んでいた。

      少女の脚に、かつて感じていた鉛のような重さが返ってくることは無く。

      棄てられ廃れた街の残骸の上に、肉が潰れる水っぽい音の代わりに、バレーボールかサンドバックでも打ち付けるような音が響いていく。

       

      「ぐ、お……っ!?」

       

      先の流れにおいて通用する事の無かったその一撃は、輝きを伴ったことが影響してか、今度の今度こそ熊人形の怪物の口から呼吸の詰まるような声を漏らさせた。

      放たれた蹴りの威力、あるいはそれに纏わりついていた輝きの力、あるいはその両方の影響からか、熊人形の怪物の頭部が綿を漏らしたぬいぐるみのよう容易く凹み、直後にその巨体が嘘のように二転三転する。

      その姿を見やってから、足が地面に埋まるのではないかと思わんばかりの圧力から開放された赤き竜人は、両足と右手を地に着けて着地をした兎耳の少女と顔を見合わせ、互いに軽く頷いた。

      ひび割れたアスファルトに熊の爪を突き立てる事で体勢を整えた熊人形の怪物は、

       

      「調子に乗るんじゃあねぇッ!!」

      「「――っ!?」」

       

      怒声と共に、腹部に存在していた縫い糸を解けさせていた。

      毒々しい緑色の『目』だけを覗かせていた人形の、そのハラワタとも呼べるものが曝け出される。

      一言で言えば、それは闇だった。

      人形の中身としてかくあるべき白綿などは形も見えず、代わりに不定形に蠢く闇が綿の代わりに人形の内側を満たしていた。

      その中心部――一般的な人間の身長で言えば胸部にあたる高さ――に見える緑色の『目』が、さながら心臓のように蠢いているのを見ると、綿のような形を得ているように見える闇もまた血管や神経のそれを想起させる。

      明らかに、現実の世界に存在する物質の類では無い。

      最初から理解していた事ではあるが、これは想像を遥かに超えた怪物だ。

       

      (……あの目って、もしかして……)

      『ヤツの核……あるいは、本体とでも言うべきものだろうな。胴体とかを雷撃でブチ抜いても何ともなかったのは、そもそもあの体が「操るもの」でしか無かったのと、あんな濃密な「闇」の力に覆われていたからだろう。相殺されたのか受け流されたのかは知らんがな』

      (あんな滅茶苦茶が当たり前って……リヴァイアモン、いったいどんな世界で生きてたの?)

      『デジタルワールドだっつってんだろ』

       

      見れば、中身を曝け出した腹部以外にも、熊人形の体に存在する他の縫い目の部分からも同じ闇色の綿が噴出しつつある。

      それには光を遮る効果でも含んでいるのか、赤き竜人の目には周囲が少しずつ薄暗くなってきているように見えた。

      ともあれ、リヴァイアモンの推理が正しければ、熊人形の怪物は自ら弱点を曝け出した事になる。

      意図は知らないが、この機会を逃す手は無い――即座に司弩蒼矢は稲妻の剣を構え、その先端から雷撃を放っていく。

      狙いは無論、曝け出された闇の中心に蠢き光る緑色の『目』だ。

      しかし放たれた雷撃が『目』に直撃する前に、熊人形を満たす闇がさながら繭のように『目』を外側から覆い隠してしまい、雷撃はその進行を闇に阻まれる形でかき消されてしまう。

      リヴァイアモンの言った通り、物理では説明出来ないあの『闇』の力には雷撃を防ぐほどの何かがあるらしい。

      そして、蒼矢の行動に応じるように、中身を曝け出した熊人形――を操る本体と言える『目』の持ち主――の方にもまた新たな動きがあった。

      飛び道具として周囲に出現させていた紫色の炎をそうしたように、中身を満たし弱点たる『目』を護るために生じさせていた『闇』を何らかの力で操り、縫い目や腹部より曝け出されたそれに先端が棘のように細い触手のような形を与えて、赤き竜人と兎耳の少女を襲わせ始めたのだ。

       

      「ちょっ……何よ、第二形態とかそういうヤツ……!?」

      「――っ!!」

       

      突然放たれる未知にしておぞましき攻撃手段に、二人の人外の背筋に嫌でも悪寒が走る。

      明らかに自由自在といった様子で伸縮し迫り来るそれに対し、赤き竜人は即座に口から氷の吹き矢を放つことで迎撃するが、次から次へと闇色の触手は熊人形のハラワタから新たに突き出てくる。

      いくら迎撃そのものが可能だとしても、このままではジリ貧になるとしか思えない。

      だが、赤き竜人はその場に踏みとどまり、氷の吹き矢と稲妻の剣から放つ雷撃でもって迫り来る闇色の触手を迎え撃つ事を選んだ。

      先んじて決めた方針に習うように。

       

      (何にしても、あの子の力が倒すのに必要なら、無理やりにでも押し切るしかない……!!)

      『ああ、それで正解だ。いちいちビビってんなよ、こっちがやるべき事は変わらねぇんだからな』

      「―――(頼む)!!」

       

      回避のために動いても、どうせいつかは息が切れて追いつかれてしまう。

      逃げるだけでは、根本的に勝ちの目に繋がる道には繋がらない。

      むしろ、回避しきれないと解っているものを下手に回避しようとすればするほど、無駄に疲労は積み重なっていくばかりだ。

      今必要なのは、あくまでもあの『闇』の力に対する有効打を持つ兎耳の少女にとっての突破口。

      片方が迎撃に動く事で、もう片方にとっての突破口になるのであれば、迎撃の役を赤き竜人の方が担うのがこの場における最適解である事は間違い無い。

      赤き竜人の呟くような声を獣毛を帯びたその長い耳で聞き取った兎耳の少女は既にその意図を汲み取り、回避のために動き回りながらも赤き竜人が作ると信じた空隙へ跳び出す機会を伺っている。

      この日に会ったばかりの仲でありながら、 あるいは自分に出来ることを精一杯という一念で、窮地の中にある彼等は確かに信頼し合っていた。

      しかし、ただでさえ肉体的に追い詰められている彼等に対して、熊の人形を操る闇の怪物は更なる一手を打ってくる。

       

      「オラァァァアアアアアア!!」

      「っ!?」

       

      殆ど咆哮染みた声が飛んできたかと思えば、熊人形の――獣毛と鋭爪を携えた――左腕が千切れていたのだ。

      その内側から漏れ出た『闇』によって縫い目が解かれる形で。

      一見したその時点では、膨大な力を制御出来ずに自分で自分の得物を放棄してしまっただけのようにも見えたが。

      縫い目から漏れ出ていた『闇』が千切れた左腕を覆い始めた事で、二人はその意図を知った。

      先に放たれた闇色の触手を見れば解る通り、怪物が操る『闇』は伸縮自在の産物だ。

      わざわざそれを用いて、千切れた左腕を繋ぎ合わせたということは。

      即ち、

       

      『――伸びてくるぞッ!!』

       

      赤き竜人の頭の中で、リヴァイアモンが警告の声を発した直後、彼の言葉通りの出来事があった。

      粘ついた闇に全体を覆われ、関節と言えるものがそもそも不定形になってしまったその左腕が真横になぞるような軌道でもって振るわれる。

      熊人形の挙動に合わせてか鞭のようなしなりが加わったそれは、棄てられた建物の外壁をガガガガッ!! と削り砕きながら赤き竜人と兎耳の少女を薙ぎ払わんと急速に襲い来る。

      伸縮自在なそれに対して、後方にただ跳躍するだけでは避けきれるとも限らない。

      彼等に取れる選択は一つ――精一杯の力で跳び、縄跳びの要領でもって左腕を回避する事だった。

       

      しかし、実際に跳んで回避した直後――まさに、彼等が地から離れたそのタイミングを狙っていたかのように、熊人形の腹部から生じる闇色の触手が伸びてくる。

      着地は間に合わない。

      殆ど反射的に口から氷の吹き矢を放ち迎撃しようとするが、咄嗟の行動故か精度が甘くなり、結果として撃ち漏らしてしまった二本の闇色の触手が赤き竜人の左肩と右脚にそれぞれ突き刺さってしまう。

       

      「ぐっ……?」

       

      鋭利な見た目をしていた割に、焼け付くような痛みは無かった。

      が、ここに来て何の害も無いものを突き立てに来るとは思えない――着地しながらもそう思った赤き竜人は、即座に引き抜こうと稲妻の剣を携えた右手で闇色の触手を掴み取ろうとして、

       

       

       

      「――が、ぁ……っ!?」

       

       

       

      寸前で、その手が止まった。

      赤き竜人の裂けた口から、息が詰まるような声が漏れる。

      その体が、痺れでも感じているように得体の知れない震えを発していた。

      速やかに闇色の触手を引き抜きたい、そんな彼の判断に反した体の動きだった。

       

      (……これ、は……!!)

      『……おいおい、マジかよ……』

       

      赤き竜人自身、体を動かそうと意識はしているのだ。

      しかし、その意思に反して体はただ震えるばかり。

      闇色の触手を突き立てられた直後の、明らかな異常。

      その正体を、宿りし怪物は速やかに看破し言葉とする。

      明らかに、その事実に焦りを覚えた声色で。

       

      『あの獣染みた体が、操るためのモノでしかなかったって解った時点でまさかとは思ったが……アイツ、あの野朗……闇のエネルギーを使って他者の体まで操れるってのか……!?』

       

      最悪な回答がそこにあった。

      自分の体に突き立てられた黒い触手、その真意に赤き竜人の背筋が急激に凍り付く。

      明らかに自分の体の内部へと入り込んでいる触手の先端、その実態がどうなっているのかは全く解らないが、もしかすると現在進行形で植物の根のように張り巡らされているのかもしれない。

      鋼鉄をも容易く溶かす炎よりも、それは遥かに恐怖というものを感じさせるものだった。

      右手が、それに備え付けられている稲妻の剣が、竜人の意思とは関係無しに動き出す。

       

      (まず、い……っ!!)

       

      体の自由が利かないというだけでも致命的。

      まして、相手の意のままに操られてしまうともなれば、嫌な予感は爆発的に膨らんだ。

      熊人形を操る闇の怪物、それが所属しているらしい『組織』の目的は、司弩蒼矢の身柄の確保もそうだが彼の心変わりにこそあるらしい。

      実際、先に戦った炎の魔人は彼が現在も護りたいと思っている少女――磯月波音を殺すことで『後押し』するとまで言っていた。

      その言葉が適当に吐き出されたものではなく、更に目の前の闇の怪物の能力がリヴァイアモンの推測通りであれば、件の『組織』が司弩蒼矢に望んでいる心変わりが絶望や悲しみといった負の方面の意味を含んだものである事は明らかだ。

      確かに現在、件の『組織』が司弩蒼矢の感情を負の方向に『後押し』させるために命を狙う磯月波音の身柄については、兎耳の少女が動いてくれたおかげで戦いに巻き込まれない場所に隠されてはいる。

      しかし、何も磯月波音を殺害する事だけが絶望を抱かせる方法とは限らない。

      例えば、何の事情も知らずにいながら純粋な善意で助けに来てくれた兎耳の少女を殺害されてしまう、とか。

      それだって、心中に強い絶望を落とすには十分な案件だ。

      意図が解りきっていても、そんな悲劇に耐えられる自信など司弩蒼矢は持ち合わせていない。

      そもそも目の前で起きた悲劇を否定したいと思ったからこそ、決起したのだから。

      まして、自分という存在が無ければあるいは『組織』に狙われることも無く平和に過ごせたかもしれない無関係の少女が死ぬという現実が、他ならぬ司弩蒼矢から放たれた攻撃によって引き起こされてしまったら。

       

      「――っ!!」

       

      そう思考した時点で、赤き竜人に取れる選択肢は一つだけだった。

      目立った前触れも無く、赤き竜人の全身から青白い電光が迸り始め、脚を靴の形で覆っていた氷が速やかに弾け飛ぶ。

      自らの体の各部に備え付けられた甲殻の鎧――それに内臓されている発電装置を、一斉に起動させたことで。

      炎の魔人と戦った際には、その強靭な身体能力に対抗するために、全身の筋肉を電気刺激によって強制的に伸縮させ身体能力を飛躍的に向上させるために行った手段。

      それを今度は、自らの体内に現在進行形で潜り込んで来る闇色の触手を駆逐するために用いているのだ。

      実際問題、その対応自体は決して間違いでは無かったのかもしれない。

      一泊を置いて、彼の体内に潜り込んでいた闇色の触手の影響が消えたのか、彼の体が得体の知れない震えを発することは無くなり、自らに突き立てられていた闇色の触手を引き抜くことにも成功したのだから。

      しかし、直後に――その全身を激痛が貫いた。

      闇の怪物が何かをしたわけではない。

      これは、この場に来るより先んじて予見されていた話。

      氷の靴など作って、滑って追いつかなければならなくなったそもそもの事情。

      苦悶の表情を浮かべ、呻き声を漏らし、全身を痛みに奮わせる赤き竜人の脳裏に、焦りの色を含んだ怪物の言葉が走る。

       

      『――っ、馬鹿野朗ッ!! お前、俺がさっき言った事を忘れたのか!? そんな必殺技レベルの電気を体に流したら、体の方が途端に駄目になっちまうぞ!!』

      (それで構わない!! 今ここで、僕があの子を攻撃してしまうようになるよりは……!!)

      『体がいっそ駄目になってしまえば操られないって思ったのか? 馬鹿、あの野朗は元々中身があるかも定かじゃないガワを操ってたんだぞ!? 体が駄目になった所で、ヤツがお前の事を操れなくなるなんて確証が何処にあった!?』

      (だったら、体が動かせなくなる前に決着を付ければいい……!! たとえ、もう二度と手足が動かせなくなるかもしれなくても、今ここで彼女達が殺されてしまうよりはずっとマシだッ!!)

      『……っ……!!』

       

      司弩蒼矢とリヴァイアモン。

      彼等の思考は、あるいはどちらも間違ってはいなかったのかもしれない。

      ただ、安全と言える選択肢が存在しなかっただけで。

      リスク抜きでは打開が出来ないほどに追い詰められてしまった故の、結果でしか無いのだから。

       

      「っ、ぐぅっ……!!」

      「――っ、ちょっとアンタ、大丈夫なの!?」

       

      痛みを背負う事は覚悟していた。

      だが、どれだけ激痛を背負っても体の動きはどこかぎこちなく。

      とても、動き回って戦うなんて事は出来ないような状態になっていた。

      そして、そんな彼に対して――闇の怪物は、容赦をしなかった。

       

      「――ははっ!! わざわざ自滅してくれるとはなぁ!!」

       

      彼が操る熊の人形――その頭部に存在する口が、闇色の綿のようなものを開いた腹の前方に漏らしながら生物的に開く。

      見る見る内に、漏れ出た闇色の綿の外側から少しずつ紫色の炎が生じ、やがてそれは全体的な形を球体の形に整えられながら肥大化していく。

      司弩蒼矢の目には、それが爆弾、あるいは砲弾のように見えた。

      結果的に動きが鈍くなってしまった自分の抵抗するための力を、決定的に叩き折るためのものだとも。

       

      「させ――っ!?」

      「……っ!!」

       

      マトモに動けない蒼矢の姿と、口から何か恐ろしい攻撃を放とうとしている熊人形を交互に見て、即座に兎耳の少女は熊人形の頭部目掛けて跳び出そうとした。

      しかし、その直前に一度振り切られた熊人形の闇の左腕が再度動き出し、目の前の危機に視野を狭めてしまった兎耳の少女の体を一薙ぎしてしまう。

      鈍い音と共に、少女の体が強く打ち飛ばされる。

       

      「いい加減目障りなんだよ、メスガキ風情が」

       

      その様に目を見開いた赤き竜人が手を伸ばそうとしたが、体は思い通りには動いてくれず、結果として兎耳の少女の体は赤き竜人のすぐ傍にまで転がり込む事になってしまった。

      ここに来て、その位置関係が偶然のものであるなどとは考えない。

      恐らく、熊の人形を操る闇色の怪物は、赤き竜人に対して放つ攻撃に兎耳の少女を巻き込むために、わざと赤き竜人のすぐ傍に吹き飛ばしたのだ。

       

      「くっ……」

       

      痛烈な一撃を受けた直後で、痛みに悶える兎耳の少女はすぐには動き出せない。

      可能であれば赤き竜人がすぐさま少女を担いで動けば良いだけの話なのだが、重度の電気刺激によって決定的にダメージを蓄積させている足ではそもそも自分一人で移動する事さえ難しい。

      迎撃以外の選択肢など、無いに等しかった。

      歯を食い縛り、痛みに震える腕を動かし、稲妻の剣を構える赤き竜人の目の前で。

      その体躯の三分の二ほどの大きさはあろう、黒いハートの形を成した砲弾を作成した怪物が、冷徹な声色で告げる。

       

      「さぁて、これで最後だ……心身共に折れやがれ――オーバーフロー・ハートブレイクッ!!」

       

      暗黒の心臓が、殆ど真正面に近い角度から飛来する。

      それに対して赤き竜人は稲妻の剣の剣先を向け、真っ向から必殺の言霊と共に対抗した。

       

      「サンダージャベリンッ!!」

       

      稲妻の剣から放たれた青白い雷撃が、心臓でも模したような暗黒の砲弾の中心――より僅かに下方を捉える。

      が、稲妻は暗黒の砲弾を散らす事も貫く事もなく、少しずつではあるが暗黒の砲弾の方が雷撃を掻き消しながら赤き竜人の立つ方へと近づいて来ている。

       

      「ぐおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

       

      己を奮い立たせるように、赤き竜人が獣のように咆哮する。

      その全身各部に備え付けられた甲殻の鎧から、雷撃と同じ青白い電流が漏れる。

      同時、彼の闘志に応えるかのように、稲妻の剣より放出される電流がより太いものになる。

       

      だが、それでも足りない。

      巨大な暗黒の砲弾に対抗するには、足りていない。

      暗黒の砲弾は、確実に標的への着弾までの距離を縮めつつあった。

       

      全身を、引き裂くような激痛が苛む。

      これ以上は止めろと、他ならぬ彼の体の方が訴えてくる。

      それでも、赤き竜人はその場から一歩も退かず、全身に迸る力を一本の槍とした雷を放ち続ける。

       

      (それでも……それでも、今ここで諦めるわけにはいかないんだ!!)

       

      何故なら、彼のすぐ傍には倒れ伏した少女の姿がある。

      少し前にも、彼は同じような状態に追い込まれた少女の姿を見ていた。

      だから、

       

      (誰も……誰一人も……!!)

       

      絶対に許容するわけにはいかない。

      ここで、屈してしまうわけにはいかない。

      例え、どんなに重い代償を払う事になるとしても。

       

      「傷付けさせて……たまるかァァァあああああああああああああ!!!!!」

       

      しかし、現実は非常だった。

      どんなに強い思いを胸に抱いていても、結果として暗黒の砲弾はジリジリと詰め寄ってくる。

      折れてしまうわけにはいかないと思っていても、勝手に右の膝が折れて地に着いてしまう。

      せめて逃げてくれと、赤き竜人は声も無く至近の少女に祈っていた。

      彼女さえ無事に済めば、あの闇の怪物を打倒出来る可能性はあると考えられて。

      一方で、自分達の力ではもう太刀打ち出来ないと、心のどこかで諦め始めてしまっていたから。

       

      そうして、暗黒の砲弾は迫り続け。

      最早、間合いにして5メートルも無くなって。

      無理か、と自らの無力さに歯を食い縛って。

      そして、直後に。

       

       

       

      「ぐっ、おおおおおおおおおおおおおお!!」

       

       

       

      至近で、叫び声が聞こえた。

      次いで、自らの右腕に何かが触れる感触があった。

      赤き竜人は、決して逸らさぬべきだと決めて暗黒の砲弾へと向けていた視線を逸らし、右腕の感触の正体を確かめた。

      そして、赤き竜人は息を詰まらせた。

      膨大な電気を帯びた赤き竜人の右腕に触れたものの正体――それは、痛みに悶えて倒れ伏していたはずの兎耳の少女の、その両手だった。

      見れば、彼女は赤き竜人と同じく片膝を地に着けた状態で、闘志を宿した目をこちらに向けている。

      赤き竜人には、まず彼女の行動が信じられなかった。

      砲弾の攻撃範囲の外に逃げているのなら理解が出来た。

      だが、砲弾の攻撃範囲から逃げもせず、ましてや人間発電機状態の赤き竜人の体に触れようなどとは、流石に理解を得ることが出来なかった。

      追い詰められた状況も忘れて、赤き竜人は兎耳に拳法着の少女に言葉を放つ。

       

      「ちょっ……駄目だ!! 見て解らなかったのか!? 今の僕の体には電気が通ってて……!! それに、君がこんな近くにいたらアレに巻き込まれるんだぞ!?」

      「わかってる、わよ……そんなこと!!」

       

      応じる声には、苦悶の色が混じっていた。

      明らかに、腕伝いに流れてくる電流に苦痛を感じている様子だ。

      しかし、彼女は自らの痛みにも構わず言葉を紡いだ。

       

      「アンタは言った!! 自分達が帰るべきだと、きっと誰かが待っている場所に行こうって!! だったら自己犠牲なんて絶対に考えるんじゃないわよ!! 吐いた唾を呑んでんじゃないわよ!! そうやって取り残された人は、寂しく泣いて生きていくしか無いんだから!!」

      「っ」

       

      その言葉には、明らかな実感が篭っていた。

      取り残される寂しさを、失う悲しさを、知っている声だと思った。

      自分なんかよりもずっと辛く苦しい目に遭った事があるに違い無いとも、思った。

      そして、

       

      「そしてあたしも言った。絶対、独りになんてさせないって!!」

       

      その言葉の直後に、変化があった。

      赤き竜人の右腕を掴む少女の両手に輝きが灯り、それは瞬く間に赤き竜人の右腕を伝い全身までも包み込み始める。

      恐らくは、リヴァイアモンが『聖なる力』と呼んだものと同じもの――それが、赤き竜人の体に伝播していく。

      心地良さ、と言えるものを感じる。

      少しずつ、全身の痛みが緩和されていくのが解る。

       

      『これは……確かに「聖なる力」なはずだが、治癒の効果も混じってる……のか?』

      「……君は……」

      「だから、この手は離さない。絶対に!! 手を繋ぐって、ただそれだけの事で救えるものがある事を、私は知ってるんだから!!」

       

      実のところ。

      少女は自分が行使している力の事を、詳しくは理解していなかっただろう。

      自身の手足から生じる光が、司弩蒼矢に対してリヴァイアモンが語った『聖なる力』であるという事さえも。

      あくまでも、目の前の敵が用いる『闇』に対して有効だという事ぐらいしか、理解は及んでいない。

      だが、それでも――少女は祈っていた。

      この光輝く力が、悪党を倒すためだけのものじゃなくて、傷付いた誰かを助けられるような優しい力でありますようにと。

      結果として、少女の祈りに力は応えた。

      暖かな光は、自らの力でもって傷付いていた赤き竜人の体を癒し、治していくだけには留まらず、赤き竜人の全身を伝う青白い雷と混ざり合っていく。

      青と白の色彩が、闇を祓うが如き朝焼けの色彩に転じる。

      二人の力が一つに合わさり成果を成す。

       

      「……ごめん、つい弱気になってた」

      「解ったら、力を合わせるのよ。具体的な理屈なんて知らない。だけどきっと、信じればどうにかなるから!!」

      「ああ!!」

       

      暗黒の砲弾に距離を詰め寄られつつある状況の中、司弩蒼矢は思わず笑みを浮かべていた。

      つい少し前に自分が言い放った決意を、いくら追い詰められたからって簡単に曲げそうになってしまっていたなんて、根性無しにも程がある。

      心変わりの力を持つ怪物が作り出した闇色の触手を、一時的にでも体に突き立てられていた影響だろうか――強く奮い立たせていたはずの心が、無意識の内に少し脆くなってしまっていたのかもしれない。

      暗く落ち込みかけた心は、少女の光が照らされ明るさを取り戻す。

      聖なる力を有する兎耳の少女を巻き込んだ雷の力の奔流は、暗黒の砲弾と僅かに拮抗し――やがて、押し返し始めた。

       

      「な――ッ!?」

       

      ここに来て。

      自らの力が押し負け始めたという事実に、闇の怪物は絶句していた。

      彼が用いる『闇』の――厄や呪いとも呼べる――力は、言ってしまえば怒りや悲しみといった負の感情、もしくは悪意を燃料とした力であり、自らの思い通りにいかない現実に対する苛立ちを起点としたその力は戦いの中で自然と増大していくものだった。

      負けるわけが無い。

      つい少し前に力を得たばかりの、成り立ての二人に劣る要素など何処にも無いはずだ。

       

      なのに。

      なのに!!

      なのに!!!!!

       

      「馬鹿な……あんな、ガキ共に……俺が負けるってのか……っ!?」

       

      暗黒の砲弾が、少しずつ歪められていく。

      黒と紫の闇に染め上がった球体に朝焼けの色が混じり、輝きが暗黒を侵略する。

      そして、

       

       

       

      「「いけえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」」

       

       

       

      少年と少女の叫びが響いたと同時。

      暗黒は拓かれ、閃光が闇の怪物の『目』を貫いた。

      絶叫さえも雷鳴に掻き消され、闇の怪物の意識は光に溶けていく。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

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    • #3843

       蒼矢とリヴァイアモンが結果的に最も健全にパートナー関係を構築しているの燃え。やはり対話、対話こそが全てを解決する。リヴァイアモン様は『嫉妬』の割に諫めるしなんて冷静で的確な判断力も見せるしで人間が出来過ぎておりますね。というか、自分の内にいるということで迷いも開き直りも全部見透かされるの、上で健全なパートナー関係とは言いましたがよく考えたら痛すぎる。
       ベルトさん宜しく肉体の運転代わることまでできるとは。ナイスドライブ、おかげでバルバモン様が本人出る前に身バレしてしまった。
       
       好夢チャンは割とデジモン小説で見かけるのが珍しい“撤退戦”を強いられており、戦いもデジモン化も素人であるが故の敵の見た目や体型から能力やら行動パターンやらを推測しようとする努力が面白い。自ら「エロ同人みたいに!」を提唱していくスタイル、まあそこはFateランサーの兄貴の名言「ハ、小娘が──もうちっと歳取って出直してこい」を送ろう。
       ワルもんざえモン氏の方もまあまあ薄い本に出そうなゲスではあったが……迂闊に「テメエの抵抗もここまでだ。コイツを殺されたくなければ大人しく投降することだな。この女を見殺しにしても我々に盾突くつもりか?」とか言うから負けるんやぞ。しかもウィルス種の身でデータ種のメガシードラモンにぃぃぃぃ。
       台詞や態度で裏を全部バラしてしまう噛ませ犬の鑑。しかし長編でそこそこ粘ってくれたので決して雑魚ではなかったという案配。
       
       そして遂に、前回いいとこの無かった主人公が覚醒! 熱い過去回想とエミヤさんばりの「この先は地獄だぞ」のお墨付きで、今度こそ自らの意思で立ち上がり──ああ巻き込まれ意味不明のまま覚醒したガルルモンの時とは違い、自ら選んで己の足で立つからワーガルルモンなんだ──ガルルモン進化、ケルベロモン! 何ィ!?
       魔王と番犬、互いにそう呼び合う二人の姿がかっちょ良かったので許すが……。

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