デジモンに成った人間の物語 第二章の③ ―羨の輝―

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      少し、デジモンの『設定』というものについて考察を入れてみよう。

      数多く存在するデジモンの種族の大半は、現実世界で認知されているものが元となっている。

      獣型のデジモンならば犬や猫などの動物、ドラゴンや悪魔などの架空の生物ならば文献に絵など――その名残は種族の名前や姿に残されているため、知識さえあれば一目見ただけでも元となった情報は理解出来るのだ。

      元となった情報が大袈裟なものであるほど、そのデジモンの能力は強いものになる。

      投げても自動で持ち主の手に戻ってくる槍だとか唾液だけで川が築かれる狼だとか、そんな現実では有り得ないであろう情報ばかりが記述されている『神話』などの文献が元となったデジモンならば、その危険度は核兵器とは比べ物にならないだろう。

       

      七大魔王という名を冠する七種のデジモン達は、まさしくその『文献が元となったデジモン』の類である。

      彼等の力の象徴と言える情報は『七つの大罪』と呼ばれ、『七つの死に至る罪』という意味を含んだ宗教上の用語なのだが、正確には『罪』そのものではなく人間を罪に導く可能性が高いとされる感情や欲望の事を指しているらしい。

      七種の感情と欲望はそれぞれ「憤怒」「強欲」「暴食」「嫉妬」「色欲」「傲慢」「怠惰」と分けられ、後々になってからそれぞれに対応する『悪魔』や、外見から関連付けるためか『動物』の情報もまた設定されている。

      縁芽苦郎に宿る『ベルフェモン』というデジモンの元となった悪魔は『ベルフェゴール』という名を持ち、同時に熊や牛と関連付けされていることから、情報を反映させた結果として殆ど獣に近い姿になったのだろう。

      そして、鳴風羽鷺の口から告げられた『リヴァイアモン』というデジモンは、ベルフェモンと同じく七大魔王の一角を担う存在。

      ベルフェモンが『怠惰』に対応している一方で、リヴァイアモンが対応している罪源は『嫉妬』。

      対応する悪魔の名は『レヴィアタン』と呼ばれ、海中に住む巨大な怪物として旧約聖書にて登場したのが発祥とされている。

      伝統的には巨大な魚かクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれており、デジモンとして創作されたリヴァイアモンの外見もまたワニのそれと殆ど相違が無く、あまりにもその体が巨大である事から旧約聖書の情報が元になったのだと思われる。

      だが、あくまでそれはレヴィアタンの一つの側面に過ぎず、悪魔としてのレヴィアタンは水を司り人に憑依する事が出来る大嘘吐きの怪物として描かれているらしい。

      司弩蒼矢の脳に宿っているその魔王は嘘吐きの悪魔なのか、それとも冷酷無情で凶暴な怪物なのか。

      そもそもリヴァイアモンが対応しているとされる『嫉妬』とは何なのか。

      あまりにも巨大過ぎる体を持ち、泳ぐだけで波を逆巻かせるほどの力を持ちながら、どんな事情でもって暗い感情を抱くのだろうか。

       

      さて。

      ここまで『リヴァイアモン』というデジモンについて語ってきたが、正直なところ私にも詳しい事は分からない。

      何しろ、ホビーミックスの一環で設定された情報自体が本当かどうか定かじゃないから。

      現実世界において聖書の中で設定されたものと、デジタルワールドに実在している『本物』が本当に同じものなのか。

      正しい事かもしれないし、正しくないのかもしれない。

      誰かさんがデータ化させた『図鑑』の情報は、あくまで第三者の視点で見聞きしただけの感想に過ぎない。

      魔物を率いる魔王も、人間から見れば悪者だが魔物から見れば優れた君主と見られるように、一つの視点だけで判断した情報で個の全てが語り尽くせるわけが無い。

      何が正しいのか。

      何が間違っているのか。

      正しいと思っている事が間違っているのか。

      間違っていると思っている事が正しいのか。

      リヴァイアモンという名の怪物は、確かに居るのかもしれない。

      そいつを宿している司弩蒼矢の脳も、その内侵されて文字通りの『怪物』になってしまうかもしれない。

       

      さてと。

      ここがターニングポイントなわけだが、運命は誰に味方するのか。

      可能性の芽にしろ何にしろ、まだ劇の幕は開いたばかりだ。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      リヴァイアモン。

      その名前を、牙絡雑賀は知っていた。

      その能力についても、危険性についても、知っているつもりだった。

      だからでこそ、その名前を告げられた瞬間、嫌でも目の前が真っ暗になってしまった。

       

      (……何でだよ……)

       

      心の何処かで、考えていた事ではあった。

      縁芽苦郎のように『七大魔王』に類されるデジモンを宿す電脳力者の一例が存在する以上、可能性の話として他の七大魔王デジモンを宿している電脳力者だって存在するかもしれない、と。

      敵として対面してしまう可能性だって、十分に考えられてはいた。

      だけど、

       

      (……何で、よりにもよってアイツなんだよ……!? 何で、アイツの中に宿っているデジモンがよりにもよって『七大魔王』の一体なんだよ!? 何で、こんなピンポイントで最悪な答えに辿り着いてしまうんだよ……ッ!!)

       

      疑問に答えは出ない。

      そもそも、未明の事なのだ。

      雑賀自身、自分自身の脳に宿るデジモンの種族は今でこそ解っているが、そもそも何故その種族が宿る事になったのか、その『原因』は全くと言っていいレベルで解っていない。

      もしかしたら、自分の知らない内に第三者から『植え付けられた』のかもしれないし。

      あるいは、ARDS拡散脳力場を放っている電脳力者と似たような理屈で姿が視えない状態のデジモンそのものが、幽霊か何かのように取り憑いてきたのかもしれない。

      椅子取りゲームだと縁芽苦郎は例えていたが、ゲームに使われる椅子は普通の人間。

      ただ一方的に居座られ、座られた椅子の価値も、座る側に依存させられる。

      そしてそれは、他の電脳力者にも言える事。

      司弩蒼矢もまた、自身に宿る『七大魔王』の存在を知らない。

      知っていて、その圧倒的な『力』を実際に行使されれば、そもそも牙絡雑賀は今生きていないのだから。

      憤りの感情が表に出ていたらしく、雑賀の反応を見た鳴風羽鷺は言葉を紡ぎだす。

       

      「その反応を見るに、知っているみたいですね。『リヴァイアモン』というデジモンについて」

      「……だったらどうした」

      「知っているのなら話が早いって事ですよ。あなたの事については苦郎さんからも聞いてますが、まだ成熟期までの力しか使えないらしいじゃないですか。率直に言って、今回の件はあなたには荷が重い。後の事は苦郎さんに任せて、手を引いたほうが良いかと思いますよ~」

      「…………」

       

      言っている事は、間違っていないだろう。

      事に究極体レベルの中でも最強クラスのデジモンの『力』が関わっている以上、それを求めて行動を起こす者の強さも、応じたものである可能性が高い。

      強制的に従わせるという形であれば、最低でも完全体クラスのデジモンの『力』を有した電脳力者か、それすら越える究極体クラスのデジモンの『力』を持った電脳力者が。

      確かに、実際の話として同じ『七大魔王』デジモンを宿す苦郎の力ならば、それ等を相手にしても無事に目的を達成出来るとは思える。

      だが、その成功は決してハッピーエンドには繋がらない。

       

      「……本当に、殺すしか方法が無いのか。本当に、それ以外の方法は無いって苦郎の奴は言ったのか」

      「殺す以外の方法は、無いとも言い切れないですよ」

       

      羽鷺は、特に考える素振りも見せずに即答した。

       

      「でも、後の事を考えてるとそれが最善になるからそうする。無視出来ない可能性があるから、それを摘んでおきたい。要するに、そういうことなんじゃないですか? 苦郎さんぐらいの実力者なら、実際の問題として『グリード』とやらの一員に攫われた司弩蒼矢の身柄を確保する事は出来るかもしれません。ですが、確保したからと言ってそこで危険な可能性が潰えるわけじゃない。だから、とりあえず殺して確実な『安心』を得る。そういう事だと思いますよー」

       

      助ける事が出来るかもしれないのに、とりあえずの判断で見捨てる。

      縁芽苦郎本人が本当にそのような判断で行動しているのかはまだ解らないが、それでも雑賀は少なからず憤りを感じていた。

      反論の材料を探そうとして、そしてそこで気付いた。

      この場で見知らぬ相手に対して言葉を発していても、恐らく意味は無い。

      そもそも、こうしている間にも縁芽苦郎は行動を開始しているかもしれないのだ。

      この男に苦郎を説得してもらう――なんて事を試している時間も無いし、そもそもこの鳴風羽鷺が本当に縁芽苦郎の仲間なのかさえ解っていない以上、信用するには難しいものがある。

       

      「……苦郎の奴は、もう居所を掴んでいるのか?」

      「そこまでは知りません。知っていたとしても、基本的に非戦闘要員の僕に教えるとは思えませんしー」

      「その二本の刀は飾りかよ」

      「基本は護身用ですー」

       

      大した情報は持っていないらしい。

      だとすれば、これ以上の会話は必要無いだろう。

      ここからどう動くかは、自分自身の直感を信じて決める以外に無い。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      司弩蒼矢は、力無く地面に伏していた。

      より正確に言うならば、起き上がろうとする意思自体が潰されていた。

      まるで、頭の上から錘でも乗せられているかのような、胃袋の中に鉛でも詰められているような、その感覚。

      視界は地面の灰色に染まっているが、心という物が目に見えるのであれば自分の心はどんな色に染まっているのか、蒼矢には到底想像も出来ない事だった。

       

      「…………」

       

      状況に対して思う事は色々ある。

      どうして、こんな事になってしまったのか。

      どうして、裏切りという事実にここまで苦痛を感じるのか。

      どうして、自分の中に得体の知れない化け物が根付いてしまったのか、とか。

      つい少し前までなら、この状況も罰の一環なのだと納得出来ていたつもりだった。

      罪の無い人間に怪物として牙を剥いた以上、もう人間と同じ扱いはされないであろう事も。

      結局、救われたいと思う気持ちが残っていたのだろうか。

      そんな資格、自分にはもう無いであろうに。

       

      「さて、と」

       

      視界の外から男の声が聞こえる。

      まるで待ちくたびれていたかのような、この状況をいっそ楽しんでいるかのような調子の声だった。

       

      「そんなわけだ。お前が善意をもって接してくれていたと思ってた女の子は、俺達の協力者だった。これ以上の説明は必要無いよな?」

      「…………」

       

      何か言い返そうと思えば、言い返せるはずだった。

      だが、蒼矢は何も言わなかった。

      善意を必死に信じようとしたところで、ただ苦しみが増すだけだと判断した。

      だが、

       

      「まぁ、好意を持たれて良い気分になる気持ちは解らんでも無い。何せ、こんなに可愛い女の子なんだしな。望んで俺達の組織に入るってんなら、また『同じ』関係を築くことも出来ない事も無いぜ?」

       

      その言葉を聞いて、蒼矢の瞳に明確な意思が宿った。

      それが怒りと呼ばれる感情なのだと、彼は理解していただろうか。

      彼は顔を上げて、男に言葉を返す。

       

      「……さっきから馬鹿にしてるのか。何でお前の言う『組織』に望んで入らないといけないんだ」

      「ん? 別に望まないなら望まないなりに強制的に入らせるわけだが。良いのか? 洗脳よろしく頭の中を弄くられても」

      「…………」

       

      到底馴染みの無い単語が飛んで来た。

      これが『力』を得る前の頃であれば冗談か何かだと聞き流す事も出来たかもしれないが、実際問題として出来ない事では無いと認識してしまっている以上、全く笑えない。

      男が言っている事は、要するにこういうことなのだろう。

      望んで力を貸して楽になるか、望まず力を貸して苦しむか。

      どちらにしてもロクな末路が想像出来ない。

      何とか抵抗出来ないものかと思案するが、

       

      「……抵抗はしないほうがいいですよ。抗った所で、いつか心の方が折れる。あなたは優しいですから、家族を人質に取られるだけで何も出来なくなるのは解りきってます」

       

      女の子の囁くような声が聞こえた。

      裏切り者のクセに、やけに優しげな声だと思った。

      だが、この状況においてその妙な気遣いは、神経を焙る以外の効果を持たない。

      蒼矢もまた、この状況になって我慢する事はやめた。

      だから、

       

      「……ああああああああああああああああああああっ!!」

       

      叫びと共に、蒼矢の体を中心に青白い光の繭が現れる。

      背中を押さえ付けていた別の誰かを吹き飛ばし、守ろうと思っていたはずの少女の目の前で彼の『力』が起動する。

      繭の中で彼の身体が人としての輪郭を残しながらも変じていく。

      身体の色は総じて小麦色から青緑色に、その質感は人肌から鱗のそれに。

      下半身は丸ごと魚と蛇の面影を同時に想起させるような、先端に赤色の葉っぱに似た鰭を伴った細長い尾に。

      左手の指と指の間には水を効率よく掻くための膜が張られ、首の下から尾の先端にかけては蛇腹が生じ。

      顔の部分は人間の骨格のまま、さながら兜か仮面のように黄色の外殻に覆われ。

      極め付けに、義手として確かに存在していたはずの右手は、一日前の時のそれと同じ異質の象徴――鋭利な牙を有し、人の頭ぐらいなら丸呑み出来そうなほどに大きく裂けた口を伴った瞳の無い『蛇』と化す。

       

      (……結局……こうなってしまうのか……)

       

      そうして、司弩蒼矢は怪物と化す。

      この姿になる事を望んでいたわけではないのに、自然とこうなった。

      自分自身が『力』を制御出来ていないからなのか、あるいはこの姿が怪物に相応しい姿だからなのか。

      蒼矢の姿を見た縞模様の服の男は笑みを浮かべ、口笛を吹いた。

       

      「へぇ、まさしく化け物って所か。人間らしい部位なんて殆ど無い。こりゃあ『組織』が欲するわけだ……」

      「……何とでも言え……自分が怪物だという事ぐらい、もう解ってる……!!」

       

      本来は水の中を泳ぐために使われる尾びれで直立し、右腕から変じた『蛇』を男に向ける。

      その気になれば牙や氷の矢でもって赤い色を広げさせる事が出来るであろう凶器を向けられても、縞模様服の男は動じない。

      ただ一方的に、言葉を投げかける。

       

      「大人しく従ってくれるんならそれで済むんだが、抵抗するんなら仕方無い……痛い目見てもらうぜ?」

       

      直後の出来事だった。

      男の身体が、瞬く間に灰色と黒色を混ぜ込んだような色の光の繭に包まれる。

       

      (……これ、は……)

       

      これまで蒼矢は、自分以外の誰かが『力』を使って変化していく様を見た事が無かった。

      プールで戦った牙絡雑賀と名乗っていた男は、自我を取り戻した時点で既に『変化』した後で、覚えている限りではそれ以外の『力』を使った人間の姿を見た事が無い。

      それが『デジモン』と呼ばれる存在の力である事を知らない蒼矢には、目の前で生じている繭が『進化』を遂げるためのエネルギーの塊である事はわからない。

      だが、それでも直感した。

       

      (……僕より、強い『力』なのか……!?)

       

      繭の中から、蒼矢とは異なる『力』を伴った怪物が現れる。

      それは、上半身が裸になっている事を除けば大半が人間の面影を残した姿だった。

      下半身が丸ごと海蛇の尾と化している蒼矢とは違い、男の下半身には元々穿いていた灰色のズボンから靴にかけて多少デザインが変わってこそいれど存在しているし、頭部にはしっかりと青い頭髪が生えている。

      異質の象徴と言える物は、上半身に集中していた。

      アクセサリーの一環としては明らかに付け過ぎだと言わんばかりに巻き付けられた鎖に、顔面を覆う形に取り付けられた鉄の仮面――極め付けに、全身から噴き出る青色の炎。

      繭から解き放たれたその瞬間に、自分が居る空間の気温が上がってきた気がする。

      それも、夏の蒸し暑さなど比類にもならないレベルで。

       

      「……さァて、成熟期クラスの『力』で完全体クラスの力にどれだけ耐えれるやら」

       

      本能的な危険信号が頭の中で反芻する。

      可能性を思考する段階から、既に負ける未来図しか見えてこない。

      逃げた方が利口だと理解しても、足から変化したこの尾びれで逃げ切れる気がしない。

      そして、その考えは間違っていなかった。

       

      ズグギィッッッ!! と。

      右腕の『蛇』から氷の矢を咄嗟に放とうとする間も無く、怪物と化した蒼矢の体が、冗談抜きに香港映画のように吹き飛ばされ壁に激突する。

      ただ、拳を使った振り上げる形の一撃。

      それが蒼矢を襲った攻撃の内容だった。

       

      「が……はっ!?」

       

      重力に引かれて地面に落ちようとした所で、次の動きがあった。

      蒼矢を殴り飛ばした炎の魔人が、自身の身体に巻き付けられた鎖を投げ放つ。

      その鎖がまるで意思を持っているかのような挙動で蒼矢の体に巻き付くと、魔人は投げ放った鎖を改めて握り直す。

      直後に、それは振るわれた。

      最早抵抗するだけの余裕も無いまま、蒼矢の体は鎖に縛られたまま地面に向かって叩き付けられる。

      頭部を丸ごと覆う兜のような甲殻が無ければ、即死してもおかしくない勢いだった。

       

      「……ぐ……が……」

      「おいおい、勢い余って殺しちまったりしないよな? 思いっきり頭蓋に入ったぞ」

      「この程度で死ぬようなら、そもそも『組織』が必要としねェだろ。それに、流れで覚醒してくれるンなら都合が良いし」

       

      揺らぐ意識の中で黄色い声が微かに聞こえる。

      実の所、蒼矢はもうこの時点で戦おうとする意思を失っていた。

       

      「そもそもの問題として水中戦、あるいは水上戦で真価を発揮するデジモンの『力』で、陸地が本場の相手に立ち向かえるわけが無いだろ。足も無いその姿が本当に正しい形なのかは知らねェが、コイツは正しくまな板の上の鯉って奴だ」

       

      勝ち目が無いだけでは無く、そもそもこの魔人が『組織』に属しているのであれば、場合によっては増援がやってくる可能性さえある。

      ただでさえ目の前の一人にすら太刀打ち出来ないのに、これ以上新たな『敵』が増えてはどうしようも無い。

      いずれ、どこかで、折れる。

      そうとしか考えられなくなってしまいそうになる。

       

      「…………っ」

       

      それでも戦おうとしているのは、はたして自分の意思によるものなのか、それとも怪物の意思によるものなのか。

      蒼矢には解らない。

      自分の中に宿っている怪物が何を考えているのかも、どう戦えばいいのかも。

      いっそ、自分を忘れて本能に任せて暴れてしまった方がいいのか。

       

      (……嫌だ。それだけは、それだけは絶対に……!!)

       

      もしここで『折れて』しまえば、自分の力が何か別の目的に使われる。

      それも、恐らくは悪意を伴う内容だろう。

       

      (……この力が、危険なものである事はわかってるんだ。こんな奴等の好きにさせたら、駄目なんだ……!!)

      「ギブアップはしねェのか。出来ればさっさと諦めてほしいんだが、なァ!!」

       

      倒れ伏したままの蒼矢が、サッカーボールでも扱うように腹を蹴られる。

      鈍い痛みが体を奔り、胃の中から何かを吐き出してしまうような声が漏れる。

      可哀想になぁ、と魔人の仲間である男は黄色い声を出しながらそれを傍観していて。

      この現状を生み出した少女は、無の表情のままそれを眺めていた。

      だから、その状況に変化をもたらしたのは、彼等にとってのイレギュラーだった。

       

      「……アンタ達、何をしてんの」

       

      視線が、痛めつけられている司弩蒼矢から別の方へと移される。

      痛めつけられていた蒼矢もまた、倒れ伏したまま声のした方へと目を向ける。

      建物の入り口らしき場所に立っていたその人物の姿は、いっそ場違いとも言えたかもしれない。

      そこに居たのは、どこにでもいそうな制服姿の女の子。

      怪物が二体存在するこの空間に、恐れ知らずにも踏み込んできた、学生。

      その介入に、面倒事が増えたと言わんばかりに魔人もその仲間も目を細めた。

      一方で裏切りの少女は、本当に驚いたように目を丸くしていた。

       

      「……なんでまたこんな場面で一般枠が来ちまうかねェ。これはアレか? 目撃者は野放しで帰すなっていう流れ……」

      「その人から離れなさいよ」

       

      その女の子は、魔人の言葉を遮る形で言葉を発していた。

      状況も経緯も解らないはずなのに、それでもある怪物を庇おうとする言葉を。

      思わず、魔人は呆気に取られたように笑い出した。

       

      「……人? 人って言ったのか、この気持ち悪い化け物を。オイオイ良かったなァ、そんな姿でもまだ人だって認識してくれる奴が居てくれて!! 流石にこの反応はオレも予想してなかったわ!!」

      「別におかしい事じゃないでしょ。つい少し前に鳥みたいな人にも出会ったし」

       

      一歩、また一歩踏み込んでいく。

      怪物の姿を認識出来ている時点で、魔人もその仲間もこの少女が『同類』である事は理解している。

      だが、仮にデジモンの『力』を使って戦えるのであれば、さっさと『肉体の変換』を実行しているはずだ。

      それ故に、彼等はすぐに気が付いた。

      この少女は、また自分の『力』を使える段階には至っていない、と。

      その事実は少女自身も理解しているはずだ。

       

      「あんた達が何者かは知らない。その人が何でそんな目に遭わされてるのかも知らない」

      「なら、どうして関わろうとする? 身の程ってのを理解してないタイプか」

       

      少女の言葉に、魔人の仲間が問いで返す。

      対する少女の答えは単純なものだった。

       

      「身の程知らずだろうが何だろうが、ここで見捨てたら後悔しそうだったから」

      「なら、今から後悔する事になるな」

      「やってみろ」

       

      言葉と同時に、少女――縁芽好夢が駆け出し始める。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      そして、一方で。

      そんな少女の義理の兄である縁芽苦郎は、現在進行形で足取りを追っていた。

      当然、拉致された司弩蒼矢と拉致した連中の居所を、である。

      彼の姿は既に『ベルフェモン』と呼ばれる魔王型デジモンを原型とした姿へと変じており、彼はその六枚の翼でもって飛翔する事で移動を続けていた。

      無論、あまり高すぎる位置から探りを入れようとしても、手がかりも何も無いため見つかるわけが無い。

      が、鳴風羽鷺が視覚、牙絡雑賀が嗅覚を頼りにするように、縁芽苦郎の宿す『ベルフェモン』の力にも、捜索の際に頼りになる感覚が存在する。

      それは、視覚でも嗅覚でも触角でも味覚でも聴覚でもない――第六の感覚。

      第六感と呼ばれる、基本的には五感を超えて物事の本質を掴む心の働きである。

      それを最大源に発揮するためか、彼は飛びながらも瞳を閉じていた。

       

      (……あっちか)

       

      悪魔型や魔王型に分類されるデジモンは、基本的に悪感情と関わりが深い。

      憤怒に憎悪、妬みに欲望――そういった悪意の吹き溜まりとも呼べる世界に住んでいるからだ。

      そして、そんな環境に適合する形で進化を果たしたデジモンは、悪感情を自らの力に変換する力を経ている。

      個体によっては自分自身の悪意だけでなく、他者の悪意までも。

      だからでこそ、悪魔型や魔王型のデジモンは他者の悪意に敏感で、それ自体が常識を凌駕した生体レーダーの役割を為す。

       

      (……考えが正しければ、連中は『リヴァイアモン』の力を我が物にしようとしているはずだ。そして、連中の長と言える者は、それを可能とするだけの力と技術を有している。御せぬ力を手元に置いたところで、それは不発弾と大差無いであろうからな……)

       

      行動に出た組織こと『グリード』の構成員は、まず悪意でもって標的の『リヴァイアモン』の力を有する人間を追い詰めるはずだ。

      その方法にまでは想像が及ばないが、何にせよ結果として心が悪意ある方へ歪んでしまえば魔王の力が目覚める切っ掛けになる可能性が高い。

       

      今回の件で『グリード』が何のために『リヴァイアモン』の力を求めているのかは解らない。

      だが、悪意を伴った人間が持てば、いずれ大きな脅威となる可能性が高い。

      最悪、その『力』が暴走でもした場合、核弾頭以上の暴力が街を襲うハメになってしまう。

      それを阻止するためにも、あくまでも可能性の段階であろうと、不安要素は取り除くのが最優先の事項だ。

      即ち、現時点で『リヴァイアモン』を宿している可能性が高い人物――司弩蒼矢を殺す事。

       

      「…………」

       

      人間が人間が意図して殺すのには、それを知らない者には想像も出来ないほどの覚悟が必要となる。

      殆どの人間は悪を貫こうとするだけで心が疲れ、擦り切れ、やがて動きを止める。

      もしかしたら何の罪も無いかもしれない誰かを殺すなど、罪悪感から出来ずともおかしくはないし、それを恥じる必要も無い。

      人を殺すという行為は、どう言葉を飾ろうとも悪行でしかない。

      だが、その行動が誰かを『守る』という善の結果に繋がると解ってしまえば、悪行だと理解した上でも出来てしまう。

      善は悪よりも強い。

      善に流れる事が簡単だとも言い換えることが出来る。

       

      だから、縁芽苦郎はあくまでも非情に徹する事を決めていた。

      殺す対象が、本当は恐るべき力を宿していなかったとしても、何の罪も犯していなかったとしても、最悪の可能性を叩き潰し、大切なものを『守る』ことが出来るのであれば。

      どんな罪であろうと被って進む。

      そんな意思も持てないのであれば、そもそもこんな生き方はとっくに止めている。

       

      (……間違い無く、雑賀の奴は我を恨むだろう。この一件が切っ掛けで、仲間になる事を拒否するようになる可能性もあるが……仕方あるまい)

       

      思考――というより、覚悟の再確認が終わる。

      瞳を開き、第六感から五感に頼るべき感覚を切り替える。

      翼による飛翔を一度止め、視界に入っていた雑居ビルの一つに着地する。

      そこから真正面に視線を向けると、そこにはどこか廃れた雰囲気のビルが一件存在していた。

       

      (……技術成長の弊害だな。一定以上の大きさを有した建物は、取り壊し自体が大きな危険と予算を伴う。故に放置され、必要とされなくなった建物は『隠れ家』として使われる。定番とさえ言っても良い、か)

       

      既に、目的の場所は目前にある。

      後は、ビルを倒壊させるなり直接殴り込みに向かうなりするだけ――のはずだった。

       

      「…………」

       

      縁芽苦郎は、思わず目を細めていた。

      獣の耳が、その聴覚が、背後から自らを追う何者かの接近を感知する。

      第六感による生体レーダーでは感知出来なかった、悪意が比較的薄い|電脳力者《デューマン》の存在を。

      そして振り返ると、そこで視界に入ったものを見て、溜め息を吐いていた。

       

      「…ブライモンの電脳力者から伝言は聞かなかったのか?」

      「聞いたさ。その上でここに来た」

       

      そこに居たのは、白と青の二種類の色を宿した狼男。

      獣型デジモン『ガルルモン』の力を宿す電脳力者……牙絡雑賀だった。

       

      (……病室でこの姿を見せた際、その『ニオイ』でも記憶されていたか)

      「何をしに来た」

      「お前を止めに来た」

      「止められると思うのか?」

      「出来る出来ないの問題じゃねぇんだよ」

       

      それだけで十分だった。

      縁芽苦郎は牙絡雑賀の選択を理解した。

      どこか狂気の色を秘めた赤い瞳を細め、そして宣告する。

       

      「ならば仕方が無い。今一度、お前には眠ってもらうとしよう」

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      正直に言って。

      縁芽好夢は、状況というものを詳しく把握出来てはいなかった。

      元々、現在の少女の目的は以前見かけたイカ人間や侍の鳥人が持っている『異能』の力に自分自身も覚醒する事であり、そのために危険だと察してながらも普段は通わない道や場所を歩き続けて、その中で『異能』の持ち主との対面を望んでいた。

      この場にやって来た理由も、何か絶叫染みた『声』が聞こえて、どうしても気になったからその方向を基準に走っていたら、偶然見つけた廃ビルの内部から似たようなものに覚えのある違和感を感じたのが、切っ掛けだったからに過ぎない。

      そして今、好夢の目前にはお目当ての『異能』の持ち主が二人――いや、まだ『異能』を行使していないだけで、恐らくは『異能』の持ち主であろうと思われる人物が合計四人居る。

      目的だけで語るのなら、まさしく好ましい展開だと言えたかもしれない。

      しかし、右腕が丸ごと蛇と化している鱗肌の半魚人の惨状を見た時、喜び以上に不快感の方があった。

      明らかにもう一人の『異能』を行使している何者か――鉄仮面に鎖に青く燃えている体が特徴な怪人――の手によって痛め付けられ、弱らせられている。

      そして、そんな惨状を傍観していながら、それを止めさせようともせず完全に他人事の視線を向けている男と、感情と言えるものがひたすらに枯渇しているような表情の女の姿を視界に捉えた時、もう好夢には我慢が出来なかった。

      不意討ちのメリットさえ無視してその場に躍り出たのも、結局のところ感情に従った結果に過ぎない。

       

      (……苦郎にぃが見れば、感情的になってチャンスを逃すなんて馬鹿らしいとか言うだろうけど)

       

      自分が馬鹿な事をしているという事については、好夢自身自覚している事だ。

      行動の後になって、後悔の念が決して無いと言えば嘘にもなる。

       

      「あんた達が何者かは知らない。その人が何でそんな目に遭わされてるのかも知らない」

      「なら、どうして関わろうとする? 身の程ってのを理解してないタイプか」

       

      だけど、行動に対する答えはあった。

      だから、思ったことを口にすることに躊躇は無かった。

       

      「身の程知らずだろうが何だろうが、ここで見捨てたら後悔しそうだったから」

      「なら、今から後悔する事になるな」

      「やってみろ」

       

      とはいえ。

      いくら度胸があろうと、現実的に考えて人間一人の力でこの状況を打破するのは難しい。

      鈍器や拳銃といった武器らしきものを持っていない事についても、人数の差と例の人外の力を考慮すると大して安心出来る要素でもない。

      当然ただ真正面から挑むだけではまず勝てない。

      いやそもそも、勝ち目なんて元から存在しないのだろう。

      彼女が、本当の本当に『普通』の人間であれば。

       

      (……助けるんだ)

       

      その時、縁芽好夢の胸の内には一つの決心があった。

      状況は圧倒的に不利。助けなどが来る可能性には期待出来ない。

      そもそも何も解っていない。自分の行動が間違っている可能性すらある。

       

      (あの半魚人が善い人なのかはわからない。だけど、それでも助けてみせる……絶対に……!!)

       

      だけど、それでも彼女は決めた。

      人間としての顔も名前も知らない――そんな相手だとしても、助けてみせると。

      決意が、少女に宿っていた『力』を目覚めさせる。

      その脳裏に、拳法着を纏った兎の獣人の姿を焼き付ける形で、少女の体が駆け出す動作のまま光と共に変化していく。

       

      ――纏う制服の色が黄の色へと変じ、胸元の布地には『武闘』の二文字が刻まれる。

      ――耳の先端と口元には薄く白の、それ以外の全身各部には紫色の獣毛が生じ、額からは三本の短く尖った角が生える。

      ――極め付けに両耳が頭髪を巻き込みながら伸び、まるで鉢巻の帯のように靡く兎の耳へと変じた。

       

      黄色い制服を着た、紫色の兎の獣人。

      それが、縁芽好夢の変化した姿だった。

      そして変化が終わったと同時、駆け出す速度は一気に増す。

       

      「おおおおおおおおおおおおおっ!!」

      「!! チッ!!」

       

      これには暴漢の一人も思わず驚きの表情を浮かべ舌打ちし、咄嗟に眉間へ力を込めたかと思えば、その身を暗い黒色の光と共に異形へと変化させようとした。

      だがその直前、好夢は躊躇もせずに右の拳を男の顔面目掛けて突き出す。

      鈍い音が炸裂し、男の体が弧を描いて仰向けに転がる。

      その際に頭を強く打ってしまったのか、あるいは拳が脳を強く揺さ振ったからか、男はそのまま起き上がる様子も無いまま沈黙した。

      そこまでやってから、好夢は自分の体に起きた変化を実感する。

      紛れもない化け物の力を、突発的な出来事とはいえ発現出来た事を自覚する。

       

      「……チッ、馬鹿が油断しやがって」

       

      呆気なく気絶させられてしまった男に対し、炎の魔人は容赦の無い悪態を吐く。

      彼等の間に仲間意識と呼べるものがあるのかは知らないが、どうやら助けようと動くつもりは無いらしい。

      事実上の戦闘不能となった男から視線を外し、好夢は炎の魔人へその視線を移す。

      が、炎の魔人はその視線を意に介さず、その視線をこの場に存在するもう一人の女の子へと向けた。

      まるで突き刺すかのように、言葉を発する。

       

      「お前、こいつを見張ってロ。そこの似非バニーガールは俺が始末してやル」

      「…………」

       

      少女は特に返事を返さなかったが、魔人の指示には従う事にしたらしい。

      魔人は蒼鱗の爬虫類染みた容姿の怪人を押さえ付けていた足を退かし、少しずつ好夢の方へと歩み寄る。

      少女はそれと入れ替わる形で、怪人の隣に棒立ちする。

       

      (……こいつは、強い)

       

      好夢は、素直に目の前の魔人の危険度をそう判断した。

      自分自身、明確に『力』を手に入れたからだろうか――あるいは、俗に言う防衛本能からか。

      自らに宿る『力』がどのような物なのかはまだ解らないが、少なくとも炎の魔人に対して優位に立ち回れるような部類の『力』ではない事は何となく理解出来ていた。

       

      (……でも、やるしかない)

       

      自分に宿っている『力』がどのような方向で自分を強くしているのか、正確には解らない。

      だが、少なくとも脚力に腕力といった運動能力が飛躍的に上昇している、という事が解ったのは幸いだった。

      もしも自身に宿っている怪物が防犯オリエンテーションの時に遭遇したイカ人間や鳥人間のように『四肢以外にも動かせる部位がある』部類の怪物であれば、自分の体の動かし方すら理解出来ないまま嬲られてもおかしくはなかったが――人間と体の動かし方が大差無いのであれば、人間の技術がそのまま応用出来るはずだ。

       

      手札は揃っている。

      後は、それが何処まで通用するかどうか。

      好夢は、力で劣る事を察した上で、炎の魔人目掛けて真正面から突撃した。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      率直に言って。

      勝負にならないであろう事は、雑賀自身理解していた。

      そもそもの話として、牙絡雑賀が自身の脳に宿っている『力』として扱っている『ガルルモン』というデジモンは、進化の段階にして最上には程遠い成熟期に該当されるもの。

      対する縁芽苦郎の脳に宿っているのであろう『ベルフェモン』というデジモンは、デジモンの進化の到達点とも言える究極体――そして、その中で尚上位に該当される『七大魔王』と呼ばれる存在。

      魔王にとって、有象無象の獣などは『敵』という区分にさえ入らない。

      それほどまでに、成熟期と究極体の違いから生じる差は大きいのだ。

      獣が襲い掛かろうが尻尾を巻いて逃げようが、魔王はその生死を容易く選択出来る。

      そして、他ならぬ雑賀自身が明確に対峙する意志を示し、苦郎もまた出来る出来ないの問題を無視して雑賀のことを事態の解決を妨げる要因として認識した以上、排除しに掛かって来るのは解り切っていた事だ。

      だが、それにしたって苦郎の初動はあまりにもシンプルなものだった。

       

      ドン!! と。

      凄まじい足音と共に苦郎は一瞬で雑賀との間合いを詰め、躊躇無く雑賀の胸の中央に右手の爪を突き立てて来たのだ。

      初手から、小手調べも様子見も何も無い一撃必殺の勢いだった。

      警戒していたはずなのに、動きに対応しようと身構えていたはずなのに――そんな考え自体を力技で踏み砕くかのような。

      刺された――そう遅れて認識した時には、雑賀の体を猛烈な倦怠感と痺れが蝕み始めていた。

       

      「があ……っ!?」

      (……これ、は……あの、病院で目を、覚まし、た時と同じ痺れ、か……っ!?)

       

      爪で刺されたのであれば、体を駆け巡るのは鋭い痛みであるのが当然なはずなのに、違和感しか感じられないその感覚に『毒』という単語が脳裏に過ぎる。

      すぐさま苦郎の腹を蹴って距離を取ろうとする雑賀だったが、それより先に苦郎は雑賀の上げようとした足を自らの足でもって踏み潰す。

      釘を打ち付けるような一撃が、雑賀の足を強引に縫い止める。

      毒素に麻酔のような効果でも含まれていたのか、僅かながら痛みは緩和されていたが、むしろそれが自分の受けたダメージに対する理解を妨げてしまっていた。

      そして、人間とは危機的な状況において情報が不足していると、思わず情報を求めてしまう生き物である。

      よって、雑賀が思わず自分の足の方へ視線を移そうとしたのは、ある種自然な行いと言えたかもしれない。

      だが、それは至近距離の相手に対し、致命的な死角と隙を生む行為。

      雑賀が自身の足元――即ち真下に視線を落とした瞬間、死角となる真上から苦郎が頭突きを振り下ろす。

      ガゴッッッ!! と。

      頭蓋を通して伝わる衝撃と激突音に、雑賀の意識が一気に途切れそうになる。

       

      「……っ……ぁ……」

       

      足から力が抜け、立っている事すら難しくなり、崩れ落ちる。

      苦悶の声を漏らす雑賀に対し、苦郎は威圧的な声で語りかけた。

       

      「お前は我を止めると言ったな。我が、司弩蒼矢を……『リヴァイアモン』の力を宿している可能性を内包した電脳力者を殺そうとしている事を知った上で」

      「……ったり前だ……そんな仮説のために、とりあえずの感覚で……人が殺されるのを見過ごせるか……っ!!」

      「可否の問題は別として、それがどのような意味を持つのか考えた事はあるのか」

       

      声色は冷たく、言葉に含まれた感情は重い。

      住んでいる場所が違うというのは、正しくこのような人物を指す言葉なのだろうか。

      胃袋の底に掛かる重圧に耐えながらも、雑賀は苦郎に怒りを剥き出しにして吠える。

       

      「……考えても、納得なんて出来るわけが無いだろ……!! アイツ自身に罪なんて無いはずなんだ。アイツの家族だって帰りを待っているはずなんだ!! それなのに、魔王を宿しているなんて話もあくまで『かもしれない』の話でしか無いのに、何で殺されなくちゃいけないんだ!!」

      「ああ、この行動は決して『正しい』行動では無いのだろう。どんなに理由を掲げようが、やる事はただの人殺し。人としては明確に正道を外れる行為だ」

       

      意外にも、苦郎は自身の行動の非を認めた。

      自身の行動は最も確実に危険な可能性を取り除けるが、一方で人間としては間違った解決手段であると。

      だが、それを肯定した上で苦郎は言葉を紡いでくる。

       

      「だが、それでも我は殺す。司弩蒼矢を、その脳に宿る魔王を」

      「なんで……」

      「解らんとは言わせぬぞ。お前は既にフレースヴェルグと対面し、究極体クラスのデジモンの力を扱う電脳力者を目撃している。電脳力者の戦闘能力が、宿している種族の能力を強く反映させたものになる事ぐらいは理解しているだろう」

      「…………」

      「リヴァイアモンは『七大魔王』という枠組みの中で最も解りやすい危険を秘めた存在だ。始末する以外に『確実に』危険な可能性を排除出来る方法は無い。まして、今回の案件に悪意を持つ者が絡んでいるのであれば尚更だ」

       

      言葉の一つ一つが、病室で会話をした時以上に雑賀の心に動揺を与えていた。

      日常の中に居たはずの怠け癖が目立つ知り合いの姿が、口を開く度に崩れていくのがわかる。

      あるいは、これが本来の顔なのか。

      友達が事件に巻き込まれ、結果としてデジモンの力を手に入れるまで――ずっと偽りの顔で回りの人間と接してきたのか。

      知り合いならまだしも、自身の家族にすらも。

       

      「……どれだけ非情に見えようとも、そうする事で問題を解決に導けるのであれば。確実に、絶対に、安定して、安全というものを確保出来るのであれば。とりあえずの判断で殺しておくべきだ。友人でも無ければ知り合いでも無い赤の他人のために危険を許容出来るほど我は博愛主義では無い。まして、その危険の矛先が我以外にも向けられる可能性があるのであれば尚更だろうが」

       

      その言葉を受けて。

      雑賀は、苦郎の真意を少しだけ理解した。

      結局のところ、苦郎はただ失いたく無いだけなのだ。

      つい一日前まで、非日常とは縁の無い普通の人間として当たり前の日々を過ごして来た雑賀には曖昧な形でしか想像すら出来ないが、少なくともこの男はこうして表と裏の世界を行き来しながら、雑賀の知らない所で今日まで戦ってきたのだろう。

      自分にとって大切なものを、当たり前でなくては困るものを、守り抜くために。

      ……病院の中でも、苦郎は雑賀に対してこう言っていたではないか。

      義理の妹である縁芽好夢に、自分の裏側の顔である魔王としての情報を伝えないでくれ、と。

       

      (……あぁ)

       

      その選択に対する憤りは覚えるが、それでも狼男は目の前の魔王を恨めない。

      単に家族を含めた親しい誰かの安全を理由にされているからでも、自分よりも物事に対する危険性を認識しているから……といった理由だけではない。

      苦郎の語る危険性の問題は、雑賀からしても他人事で扱う事は出来ないものだ。

      仮に、万が一にでも、司弩蒼矢に宿る魔王の力が悪い方向に流された場合、その矛先が|雑賀《ガルルモン》の家族に向けられる可能性だってゼロとは言い切れない。

      ゲームやアニメ等の架空の情報でしか『魔王』を知らない雑賀と比べると、自らの力として現実に『魔王』が秘める危険性を認識している苦朗の方が理解は深いのだろう。

      何より、この行動をただの人殺しだと自ら認めている辺り、ただ納得が出来ないという理由だけで首を突っ込んだ雑賀に比べ、ずっと責任感があると言えるかもしれない。

       

      「それでも助けるつもりか? 司弩蒼矢を。たかだか一日前に対面した程度の縁だろう。それも敵としてだ。危険を承知の上で助けに向かう理由になるとはとても思えん。ここまで聞いてまだ瞳に意思を宿し抵抗を続けるつもりなら、我が抱えているものを台無しにするだけの理由があるのだろうな?」

      「……確かに……」

       

      まず、最初に雑賀は認めた。

      目の前の魔王の行動が、正道ではなくとも間違いと言えない事を。

       

      「……確かに、理由としては弱く見えるんだろうさ。一度だけ会って、殺されかけて、少し言葉をぶつけ合った程度のヤツを助けようなんて。思わず小便ちびってしまいそうなぐらい恐ろしい『魔王』が宿っているかもしれなくて、助けたとしても何かの切っ掛けで暴走して、結果として色んな人間を殺してしまうかもしれないって可能性だって『無い』とは決め付けられない。助けず殺してしまった方が合理的で、とりあえずは安全ってやつを守れるかもしれない。でも、だけど!!」

       

      認めた上で。

      毒に体と意識の両方を蝕まれながら、|雑賀《ガルルモン》は自らの『理由』を真正面から言い放つ。

       

      「もし本当に魔王を宿しているのだとしても、殺して安直に終わらせるより、友達になって輪の中に入れてしまった方が絶対に面白くなる!! とりあえずの感覚で輪から弾き飛ばしてしまうよりは毎日が楽しくなるに決まってる!! 合理的でなくても、危険な選択かもしれなくても、その方がみんな嫌な気分にはならないに決まってる!! それが俺の『理由』だ!!」

       

      その言葉に、魔王は思わずといった様子で目を丸くしていた。

      そして直後に、困惑の色を滲ませてこう言った。

       

      「……『それ』で止めろと言うのは、流石に良心というものを信じすぎていないか?」

      「信じてるから、言ったんだ」

      「言葉の意味を理解しているのか。お前が言っている事は、あまりにも楽観視が過ぎる。友達になる? なれると思っているのか? 確かに宿主である人間の方にはそれだけの良心が存在するかもしれん。だが、宿っているデジモンは違うだろう。大罪となるほどの嫉妬を宿し、明確な悪意を持つ魔王だ。電脳力者の心は宿すデジモンの影響を強く受ける。今でこそ良心で御する事が出来ているとしても、いつか本当に『人が変わる』かもしれぬのだぞ」

      「だったら」

       

      実際、雑賀自身も自分の心がデジモンの影響を受けているのか、そうでないのかなど判ってはいない。

      今でこそ『影響』が表に出ていないだけで、宿っているデジモンが本当は『悪い』デジモンであるという可能性だって否定は出来ない。

      だけど、

       

      「お前は、どうなんだ。口調こそ確かに魔王っぽいし、態度だって目的の遂行を何より優先する機械みたいなものに見えるけど、本当に目的を遂行する事を優先するのならこうして俺と会話なんてする必要は無いはずだ……!!」

      「…………」

      「……本当はお前だって、殺したくなんてないんじゃないのか。接点なんて無くても、人殺しって行為には俺なんかには想像も出来ないぐらいに辛いものが絡んで来るはずだ。それを心から愉しむ悪党でもない限り、気乗りなんてするわけがない」

      「……黙れ」

      「だから、本当なら脅威になんて成り得ないと理解していながらも『寄り道』した。魔王の危険性を理解しながら俺に矛先を向けているのは、つまりそういうこ」

      「黙れと言っている」

       

      気付けば、苦郎はその左手で雑賀の首を鷲掴みにし、躊躇を感じさせない手早さで宙に吊り上げていた。

      呼吸が滞り、更には時間の経過も重なり毒の効果が更に意識を蝕んでくる。

      両手を拳の形に変えようとしても、その感覚だって曖昧なものになりつつある。

       

      「たかが気紛れの行動一つでつけ上がるな。我が殺す事を拒んでいるだと? そうしなければ身内の安全が損なわれると理解していながら? どこまでお目出度いやつなのだお前は」

       

      その手に加えられる力が一定のラインを超せば、首の骨は一息に圧し折られるだろう。

      だが、そんな確実に命を奪われかねない状況でありながら、雑賀は真っ直ぐに魔王の目を見据えて言い返す。

       

      「……あいつもそんな感じだったよ。随分重たい事情を抱えていたけど、それを理由に人殺しを許容する事は出来ていなかった。そっくりなんだよ。今のお前は……あの馬鹿野郎と大して変わらない……!! 強がってんじゃねぇよ。正直に言いやがれ。お前は本当はどうしたいんだ!!」

      「…………」

       

      その言葉には、多少なりとも魔王を沈黙させるだけの力があったらしい。

      例えその表情が氷のように固められていて、発する声に一切の震えが混じっていなくとも、その沈黙には大きな意味がある。

      事実として、雑賀の言葉を黙らせようと思えば、その首を掴む左手に力を更に加えて骨肉を潰してしまえば済むはずなのだ。

      そうすれば、邪魔者はいなくなり目的を確実に達成し、身内の安全を獲得する事がとりあえずは出来る。

      なのに、やらない。

      出来ないのではなく、やらない。

      あるいは、それが『怠惰』の大罪を司る魔王の性格による影響なのか。

      束の間の沈黙は、溜め息と共に破られた。

       

      「……予想を遥かに越える馬鹿野郎だなお前」

       

      苦郎は呆れた様子で雑賀の首から手を離していた。

      突然のことだった上に毒の影響で四肢がマトモに機能しなくなっていたため、吊り上げられた状態から着地した雑賀は仰向けに転倒してしまう。

      起き上がろうとしてみるが失敗し、意識を保つだけでも精一杯の状態だった。

      気にも留めずに苦郎は言葉を紡ぐ。

       

      「……確かにお前の言う通りだ。随分と無駄な時間を過ごしてしまったな」

      「苦……郎……ッ!!」

       

      結局、言葉を尽くしてみても心は揺らがなかったのか。

      そう思い表情を険しくさせる雑賀だったが、直後に苦郎はこう言った。

       

      「確かに、会話などするべきではなかった……このような状況になってしまうのであればな」

       

      言葉の意味を、雑賀はすぐには理解出来なかった。

      ドドドドドドドドドドドッ!! と、至近距離で多数の轟音が響くまでは。

      音の発生源かと思わしき『何か』を、苦郎が咄嗟に何らかの手段を用いて迎撃した――そう認識する事で、ようやく異常を認識出来た。

       

      「なっ……」

       

      眠気を飛ばされ、首だけを何とか持ち上げて状況を確認する雑賀。

      気付けば、苦郎は倒れた雑賀のことなど見てはいなかった。

      視線を追ってみると、遠方に何か異質な輪郭が見えてはいた。

      だが、その一方でニオイは感じ取れない。

      辛うじて姿を視認出来る程度の距離にいるにも関わらず、この瞬間になるまでその存在に気付くことすら出来なかった……っ!?

      この状況で『攻撃』してくる以上、司弩蒼矢に宿る(と思われている)魔王の力を狙った企みに加担している何者か――と考えるのが自然だといえる。

      明確な危機感を抱く雑賀だが、焦る心に反して動く事は出来ない。

       

      「……な、何だよ今の……」

      「見ての通りミサイルだが?」

       

      苦郎の口からあっさりと告げられた単語に、雑賀は背筋を凍らせた。

      ミサイル――現代においてはとても聞き慣れた、狙いを定めた『目標』に向かって自らの推進装置によって飛翔していく軍事兵器の事だ。

      そう、兵器。

      少なくとも国家の許諾抜きでは放たれる事の無い、武器というカテゴリからも逸脱した、主に人を殺すために造られた代物。

       

      (……現実のものじゃない……)

       

      普通の人間には認識されなくなる電脳力者としての力を行使している二人に向けて放って来た以上、相手は同じ電脳力者という事になる。

      そして、その電脳力者はミサイルを自らの武器として『使える』デジモンの力を宿しているのだろう。

      現実のミサイルを持ち出して来ている可能性もあったが、現実のミサイルであれば爆発の規模がこの程度で済むはずが無いし、そうそう簡単に携行出来るとも思えない。

      遠方から確認出来る輪郭の特徴から見るに、その電脳力者が自身の肉体の変化の基準としているデジモンは、

       

      「あの体……『メガドラモン』をベースにしてやがるのか……!?」

      「……まったく面倒な」

       

      本当に面倒臭そうな声を漏らす苦郎だが、その瞳は明確に細まり、隠しようの無い敵意と警戒心を宿していた。

      メガドラモン――進化の段階としては『ガルルモン』が類される『成熟期』を越え、一方で『ベルフェモン』が類される『究極体』より下位に位置する『完全体』に該当される種族で、竜と機械を掛け合わせたサイボーグ型のデジモン。

      背に存在する翼による飛翔も可能で、主な攻撃手段は、機械の両腕の中心に空いた発射口から放たれる有機体系ミサイル。

      飛翔能力を持たず攻撃の射程も決して長くはなくミサイルの威力に耐えられるほど体が頑丈ではない雑賀からすれば、勝てないと断言出来るほどの脅威を意味する名前だった。

       

      「大方『見張り』か『足止め』の役を担っているのだろう。司弩蒼矢を捕らえた後、こうして目的の達成を邪魔しようとする者を処理するための」

       

      事実を改めて説明され危機感を覚える一方で、雑賀は疑問を覚えた。

      苦郎は視線の先のメガドラモンの電脳力者の役割を見張りか足止めと判断していたが、見張りはともかく足止めという役割は相手の進行を止めさせるための役割で、倒せない相手との交戦を前提とした後手の役だ。

      倒さずに平和的に解決――などと考える連中ならば、そもそも拉致の計画など企てない。

      仮に、本当にその推理が正しかった場合、苦郎が危険視している組織は完全体クラスのデジモンの力を用いても進行を阻止出来ないかもしれない相手を想定して今回の件を企てたはずだ。

       

      「……おい待て。足止め、だと……?」

      「ああ」

       

      そして、つい先日まで現実の日常しか知らなかった狼男より遥かに非現実の日常を知る魔王は、嫌な予感を的中させるようにこう付け加えた。

       

       

       

      「『ベルフェモン』という格上の相手を想定しているのならば、たった一人で済むとは思えない」

       

       

       

      ふと周囲を見渡してみれば、視線を向けているのはメガドラモンの電脳力者だけではなかった。

      右手に三つ又の赤い槍を携え、高貴な黒い礼装に身を包んだ赤い顔の悪魔。

      そして、その背から鴉にも似た黒い羽を生やし、露出度が高く水着のように薄い黒の衣装を纏う女が、それぞれ別の角度から敵意ある視線を向けている。

      攻撃をして来ないのは、苦郎の動きに対して警戒しているからか。

      だが、苦郎か雑賀のどちらかが動き始めれば、確実に攻撃を仕掛けてくるだろう。

       

      「…………」

       

      麻酔で体の自由が利かず、そもそも能力の優劣の時点で勝ち目など無いに等しい雑賀とは違い、同じく飛翔能力を持ちスペックの点から見ても劣る所の無い魔王を宿す苦郎からすれば脅威とは成り得ない。

      それでも、苦郎はすぐには動こうとしなかった――いや、厳密には動けなかった。

      自分一人にのみ戦力を向けられる状況であれば、苦郎はその全てを無視して進行しただろう。

      だが、そう出来ない理由は……。

       

      (……く……そ……)

       

      思わず歯噛みする雑賀。

      ここに来て、事の重大性を認識しながら、苦郎が動けない理由は一つしか思い当たるものが無い。

      敵対する三人の電脳力者に囲まれている構図の中に、雑賀も加わっているからだ。

       

      (……俺、ただの足枷にしかなってねぇ……っ)

       

      この状況で敵対者を無視して進行した場合、彼自身が動けなくさせた相手を見捨てるという構図になる。

      守りたい人間の優先順位で言えば雑賀は間違い無く家族より下に該当されるはずだが、それでも苦郎はこの場で見捨てるという選択を躊躇っている。

      そこに、どのような心境の動きがあったのか。

      ただ後味の悪い選択をしたくないだけなのか、あるいはもっと別の理由からか――何にしても、自分が足を引っ張ってしまっているという状況である事は、嫌でも理解出来てしまった。

      その無力が悔しいのに、体の自由は利かない。

      食い縛っていた歯からも感覚が途切れ、辛うじて繋ぎ止めていた思考の糸が限界を迎えて、

       

      (――――)

       

      そうして、雑賀の意識は深い闇の中に沈んでいった。

      脳に宿るデジモンの力なんて、青年の抱く願いなんて。

      何の役にも、立たなかった。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      相性が悪すぎる――それが体の各部が当然のように燃焼している炎の魔人と、ウサギのように長い耳を生やした少女の戦いを倒れたまま眺めている司弩蒼矢の感想だった。

      炎の魔人が豪腕を横薙ぎに振るうと、巻きついていた鎖が連動して鈍器と化しながらウサギ耳の少女を襲う。

      ウサギ耳の少女は姿勢を低くしてそれを避けると、攻撃によって生じた隙を突くように懐に飛び込み拳を放つ。

      だが、腹部目掛けて放たれたその一撃が炎の魔人には大したダメージにはなっていないらしく、返す刀の裏拳が少女の側頭部に向かって振るわれる。

      咄嗟に打撃に使っていなかった左腕で防御する事は出来ていたが、明らかにその表情は苦痛の色を表していた。

      そして、即座に炎の魔人は腕に巻き付いている鎖を先の流れと同じように鈍器として振るい、少女はそれを避ける。

       

      距離を取って様子を見ていると鎖を用いた攻撃が振るわれる。

      近付いて打撃を加えたとしてもダメージは通らず、返す刀で与えた以上のダメージを確実に負う。

      いや、仮に返す刀が無かったとしても、その拳で殴り付けた際に浮かべた苦痛の表情を見るに、単純に『触れる』だけでも火傷という形で部分的なダメージは蓄積されていく。

      攻撃しても防御しても回避しても、少女の力が削られる状況なのだ。

      仮に、この状況での打開策があるとすれば……。

       

      (……『触れず』に攻撃出来て、尚且つその体温を少しでも減らす事が出来る攻撃……)

       

      内心で言いながら、既に蒼矢の中で答えは見つかっていた。

      怪物として変化した自身の右腕――そこから放つ事が出来る水や冷気を用いた飛び道具。

      それを命中させる事が出来れば、あるいは魔人の体温を低下させた上でダメージを与える事が出来るかもしれない。

      だが、現在蒼矢の近くには見張りとして磯月波音が立っている。

       

      「……くっ……」

       

      現在の状況やここまでの経緯から考えても、磯月波音が炎の魔人の仲間である事は間違いないのだろう。

      その時点で、彼女もまた蒼矢と同じく怪物の力を使う事が出来るのだと考えられる。

      ここで抵抗すれば、ほぼ確実に彼女とも戦う事になる。

       

      (……どう、すれば……)

       

      分かっては、いるのだ。

      自分がこのような目に遭っている原因が、誰にあるかなんて。

      だけど、どうしてもその選択は選べない。

      向けられた言葉も、そこに込められた情も偽りで、全ては茶番に過ぎなかったとしても。

      実際に、少なくとも失意に暮れていたあの時に、ほんの少しとはいえ心に癒しを与えてくれた少女を、怪物の力で傷付けるなんて行為は許容出来ない。

      自分勝手だというのは百も承知だ。

      既に誰かを自分の都合で傷つけておきながら、今更そんな偽善が通るとも思わない。

       

      だがその一方で、眼前で戦っている少女は自分を助けるために戦ってくれている。

      自分勝手な偽善を通してその思いを無碍にしてしまうのか、あるいは善意を理由に癒しを与えてくれた少女を傷つけてしまうのか。

      どちらを選んだとしても、明確に傷跡を残す選択肢。

       

      「……どうして」

       

      どちらも選べない、と言わんばかりに蒼矢は言葉を放つ。

      目の前で誰かが痛めつけられているのにも関わらず、その表情を一向に変えない薄情な少女に向けて。

       

      「どうして、無関係の少女が傷つけられているのを見てそんな顔を出来るんだ。どうして、この状況に対して何も言おうとしないんだ。何とか言ってくれよ……」

      「……話すことなんて、なにもありませんよ」

      「……オレの事はもうどうなってもいい……オレが屈服する事で『解決』出来る問題だったら、そうする事で家族やあの少女の『安全』を確保出来るのなら……ここで、諦めるから……」

      「……そういう事は、わたしじゃなくてあの人に言ってください」

      「君には説得出来ないのか。君は、アイツの仲間じゃないのか?」

      「…………」

       

      やはりと言うべきか、話は通じない。

      それどころか、会話という行為そのものをする気が無いと言わんばかりの態度だった。

       

      「……頼むよ。君を傷つけたくないんだ……」

       

       

       

      遂には思わず俯いて弱音を漏らす蒼矢だったが、波音は返事を返さなかった。

      もう、諦めるしかないのか。

      諦めて、自分の都合で誰かを傷付ける選択をするしか無いのか。

      そう思い、歯を食い縛って顔を上げた時だった。

       

      「…………?」

       

      見逃せない変化が生じていた。

      何に? 無表情を貫いている少女の表情に、だ。

       

      (……なんだ、この感じ……)

       

      その変化に気付くまで、少女の表情に目立った表情は浮かんでいないように見えていた。

      苛立っているようにも悲しんでいるようにも喜んでいるようにも見えない、印象で言えば冷たいという例えが正しいと言ってしまえるほどに。

      だが、今の少女の表情はそう見せようとして明らかに違和感を覚えるものに変化していた。

      自分で自分の顔の筋肉をどう動かせばいいのか分からなくなっているように。

      感情を消そうとする事に、勝手に失敗しているように。

       

      「……ぁ、ふ……笑わせないでください。わたしはあなたを騙していたのに。傷つけたくないなんておかしい話ですよ。嘘を吐くにしても少しはマシな……」

      「嘘じゃない」

      「……な……」

       

      殆ど反射的に言葉が出た。

      疑問の声が返ってきた。

      その声は震えていた。

       

      「嘘じゃないって言っているだろ!!」

      「…………」

      「確かにオレは君に酷い事をされた。でも、その一方でオレは君に少しだけ救われていた。許す許さないの問題じゃないんだ。例え全てが嘘だったとしても、あの時救ってくれた君を傷付ける事なんて出来ない!!」

       

      いっそ怒号のような声が蒼矢の口から放たれる。

      少女は肩を震わせながらも無の表情を作ったが、今となっては無理をしているようにしか見えなかった。

      蒼矢の胸の中に、ズキリと痛みが走る。

      ここまでの反応まで含めて全てが演技だった――などとは考えない。

      明らかに、少女は何かを隠そうとしている。

      自分の心を押し殺してでも、必死になって守ろうとした何かがある。

       

      (……いったい、何なんだ……)

      「あァーあァー」

       

      疑問を抱いた直後の事だった。

      ウサギ耳の少女と戦闘中の炎の魔人が黄色い声を漏らした。

      次の言葉を紡ぐ間にも鎖が振るわれ、ウサギ耳の少女は回避のための動作を強要される。

       

      「……結局は折れるのかヨ。もうちょっと頑張っテくれると思ってたンだがな」

      「…………」

      「まァ茶番としては楽しめる方だったんダが、困るんだヨなァ。お前、自分の立場解っテンのか? この状況を作り出しテくれた時点で殆ど用済みではあルんだガ、ここまであっさりと折れちまったラ演出にならねェだろうがヨ?」

      「……わたしは、別に、折れてなんか」

      「ご苦労サン。モう黙ッててもイいぞ?」

       

      一方的過ぎる言葉だった。

      何かに、落胆したような声色だった。

      明確に、重要な意味を含む台詞だった。

      少女の表情が、決定的に歪む。

      炎の魔人は気にする様子も無く、蒼矢に向けて飄々とした態度で言葉を放つ。

       

      「お前もお前で折れねェのナ。この状況なラ、お利口に仲間にナってくれると期待しテたんだガ」

      「……彼女に何をした……」

      「俺達の仲間になれば、欲しいモンは大抵手に入るんだゼ? なァーんでそンなに拒むのやら」

      「彼女に何をしたと言っているんだ!!」

       

      その態度にも、その言葉の内容にも――怒りを覚えずにはいられなかった。

      ここまで来て、事情を少しも理解出来ないほど鈍い思考はしていない。

      彼女は、磯月波音は、利用されていたのだ。

      目の前の炎の魔人――あるいは、その属する『組織』の思惑に。

       

      「何をシたって、勘違いさレちゃ困るナ。その女の行動はソの女が自分で決めタ事だぞ? この状況ダって、その女が選ばなければ回避出来た事だ」

      「……病院にいたオレに対する言葉は、確かに拉致を成功させるための演技だったのかもしれない。実際はオレとは初対面で、これまで一度も会ったことなんて無かったのかもしれない。だけど、少なくとも今の行動は彼女自身が望んでやっている事だとは思えない!!」

      「まァ、ドう考えヨうがお前の勝手なンだがな。正解が聞きたいンなら、その女に聞けばいいだろ」

       

      ただし、と炎の魔人は付け加えて。

       

      「喋ろウが喋るまイが、どっチにしてモ俺達の『組織』に従ッた方が良い事に違イは無いけドな。お前にしてモ、そこの似非バニーガールにしても、素直に仲間になった方が自分のためになるぞ?」

      「ふざけるな。誰がお前達の仲間になんか……」

      「お前にソの気が無かろウと、何の問題も無いんダよ。その気ガ無いなら、ソの気にサせるだケだ」

       

      その声色には、余裕しか無かった。

      最初から、抵抗の意思など問題にもならないとでも言っているような。

      自分の心を文字通り鷲掴みにされているような不気味な感覚に、蒼矢は素直に恐怖を覚えていた。

      構わずに炎の魔人は言葉を紡ぐ。

       

      「さァて、あンまり時間も掛けたクはねェし、さっサと決断しテもらおウか。従うなラどんナ形がイイ? 素直に『仲間』としテの勧誘を受け入れルか。大切ナ誰かを人質に据えラれて嫌々従うか……頭ン中を直接イジられて人格を変えらレる形で従うか」

       

      一つ目の選択肢は到底選ぼうと思えず。

      二つ目の選択肢は、元々蒼矢自身が危惧していた可能性で。

      三つ目の選択肢に至っては、方法もそれを許容出来る心理もまるで理解出来ない。

      つい少し前の問答と同じ、悪意しか感じられない問い掛けだった。

       

      「…………」

       

      仮に仲間になれば、最低でも家族の安全は保障されるのか。

      自分が怪物として『使われる』事を許容すれば、これ以上状況が悪化する事はないのか。

      自身に宿っている怪物の『力』を我が物にするため、周りの人間が望まない形で傷付けられるような事が。

      少しだけ、蒼矢は考えた。

      そして、素直な感情のままに答えた。

       

      「いい加減にしろ」

      「……へぇ……」

      「最初からオレを本当に仲間として扱うつもりなら、彼女を巻き込む必要は無かったじゃないか。ただ誘いたかっただけなら、普通に病院に来て話をすれば良かったじゃないか。どんなに嘘に塗れた胡散臭い話だったとしても、家族を人質に取ったと脅し掛けて来たとしても……それで大人しく付いて来れたかもしれないのに。自分しか傷を負わずに済むのなら、それで良かったのに。どうして彼女までオレの『力』のために傷付けられないといけないんだ!! 人質に取る取らないの前に、最初から既に誰かを傷付ける事しか頭に無いじゃないか!! そんな事をする『組織』なんかのためにオレの『力』は使わせない!!」

      「あくまデも従うツもりは無いンだな。コれでも親切心で教えテやッたつもりだったンだが、そコまで強情になるンなら仕方がねェ。お望み通り、傀儡にでも成り果てルがいいさ」

       

      炎の魔人が歩み寄ってくる。

      背を向けられたウサギ耳の少女は後頭部を狙おうとしたのか飛び掛かったが、それを予測した炎の魔人が振り向くと同時に放った裏拳で建物の壁際まで殴り跳ばされてしまう。

      蒼矢は右腕が変化した『蛇口』から炎の魔人に向けて高圧の水流を放ったが、水流は炎の魔人の体に触れると同時に殆どが蒸発し、ダメージを負わせる事などまるで出来ていなかった。

      それでも諦めるわけにはいかなかった。

      こんな悪党に自分の『力』を悪用されたら、きっと被害は自分が考えられる範囲を超えてしまう。

      家族が人質に取られて害を為される事も到底許せる事では無いが、最初から平気で誰かを傷付けようとする相手に真っ当な取引が成立するとは思えない。

      何としてでも、ここで阻止しなければならない。

      だが、今の蒼矢の力では鉄の仮面で顔を覆った炎の魔人の力には到底敵わない。

      高圧水流にしろ氷の矢にしろ、放つためには『溜め』が必要となる。

      既に炎の魔人は、それが許されない距離まで近づいて来ている。

      そもそも、放つ事が出来たとしてもそれだけで決定打に成り得るとは思えない。

       

      (……駄目、なのか? 結局オレには……誰かを守ることなんて……)

       

      大層な決意があろうと、状況を打開出来るだけの力が無ければ何も為せない。

      地に這う事しか出来ない非力な怪物は、更に大きな力を持つ怪物に平伏させられるだけ。

      司弩蒼矢には、何も出来なかった。

      ウサギ耳の少女――縁芽好夢にも、何も出来なかった。

      だから。

       

       

       

       

      「……なンの真似だ」

       

       

       

       

      この場において初めて、明確に苛立った声を炎の魔人は漏らした。

      司弩蒼矢もまた、信じられないものでも見るように目を見開いていた。

      炎の魔人の進行を遮るように、磯月波音が両手を広げて立ち塞がっていた。

      まるで、司弩蒼矢を守ろうとしているように。

       

      「……もう、やめてください」

       

      その声は震えていた。

      表情こそ見えないが、辛い気持ちになっている事ぐらいは容易に想像出来た。

       

      「お願いだから、もうこれ以上あの子や蒼矢さんを傷付けないで……っ」

       

      炎の魔人は、少女の言葉になど気にも留めなかった。

      それ以前に、自分の進行を遮ろうと阻みに来た時点で笑みすら消しているようだった。

       

      「なンの真似だッて聞いてンだヨ。自分の立場を忘れたノか? 逆らったラどうナるか解ってンのか?」

      「…………」

      「役立たズもここまで来ると笑えねェ。そもソも、今の状況を作り出すために協力してきたのは他ならぬお前自身だろうが。自分で裏切って傷付けた相手を、今度は守ろうって? ハッ、自作自演で都合良くハートを掴もうとは大したビッチだなオイ」

       

      駄目だ、と蒼矢は思った。

      少女の事は宿す力も含めて全く知らないが、それでも炎の魔人の進行を食い止める事など到底出来るとは思えない。

      懇願の言葉だって通用する相手では無いし、そもそもこの状況で『組織』に逆らう形で蒼矢の事を守ろうとしてしまったら……ッ!!

       

      (……やめろ……)

       

      蒼矢には、まるで理解出来ない。

      こんな自分がどうして守られているのか、その理由の何もかもが。

      少女だって、きっと理解しているはずだ。

      守ろうとする行為が、自分自身の命を危険に晒す行為でしか無い事ぐらい。

       

      「やめて、くれ……」

       

      全てを理解しているはずの少女の背中は、地に這う化け物に対して何も語らない。

      それを見過ごせば何が起きるのかを知っているのに、蒼矢には何も出来ない。

      そして、炎の魔人には少女の意思を尊重する理由など特に無かった。

      だから、

       

      「やめ

       

      直後に、間近で鈍い音が炸裂した。

      炎の魔人がサッカーボールでも蹴るかのように放った鋭い蹴りが、少女の体を薙ぎ払った音だった。

       

      (……あ)

       

      その瞬間から、司弩蒼矢の意識下で体感時間は狂っていたかもしれない。

      認識の速度から引き延ばされた時間の中で、何か水っぽい音が耳に残った。

      人外の蹴りを受けた腹部を中心にくの字に姿勢を曲げられた磯月波音の口から、何かが溢れていた。

      赤とも黒とも違う、独特の色彩を有したナニカが。

      その答えは解り切っているのに、どうしても空回りを続ける蒼矢はその単語を導き出せない。

      流れていく風景のように一瞬の中で視界から外れていく少女の顔は、笑っていた。

      決して喜びによって生まれた表情では無かった。

       

      司弩蒼矢はそこまで認識して、ようやっと手を伸ばそうとした。

      しかし、届かない。

      まだ人間らしい輪郭を残した左手も、怪物そのものと言える右手だったものも。

      どうしても、届かなかった。

       

      少女の体がゴロゴロと建物の床の上を転がって。

      その光景を、蒼矢は呆然と見送って。

      全ての時間もそこで戻って。

       

      「『……あ、ああ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?』」

       

      思考が破裂した。

      人のような、獣のような、二つの咆哮があった。

      その絶望の叫びには、何故か蒼矢以外の『誰か』の声も混じっているようだった。

       

      炎の魔人の蹴りは、殺すためというよりは本当に邪魔なものを横に除ける程度の力しか込められていなかったのだろう。

      だが、それでも生身の人間にとっては致命傷と成り得る一撃である事を、怪物の姿で一撃を貰った蒼矢自身が体感していた。

      死んでいないはずだ。

      殺すつもりで放たれた蹴りではないはずだ。

      だから死んでいないはずだ。

      ……そう信じたいのに、少女の体は横転を止めてから動かない。

      その口元から漏れているであろう血の色が、嫌でも最悪のイメージを浮かばせてしまう。

       

      彼女は、磯月波音は、死ぬ。

      今の時点で死んでいるかもしれないし、死んでいないとしても間違い無くこのままでは死ぬ。

       

      「もウ全体的に面倒臭ェし、さっサと終わらセるか……」

       

      炎の魔人の言葉など、頭に入っていなかった。

      頭の中を反芻するのは、ただただ目の前の現実に対する拒否の言葉ばかり。

      どうしてこうなった。

      何故あの少女が死ぬような目に遭わなければならないのだ。

      自分が下手に抵抗しようとした所為なのか。

      こんな事になる前に、自分で自分の命を絶っていれば良かったのか。

      全部、自分が。

      自分の『力』が招いた結果なのか。

      どうして自分には化け物の力が宿ってしまったのか。

      自分の弟に対する『嫉妬』に塗れた醜い心が招いてしまったのか。

       

      どんなに自問自答を繰り返しても、答えなんて出なかった。

      自分で自分の感情を制御する事が出来なくなっていた。

      頭の中を、血のように真っ赤な色彩が埋め尽くし。

      司弩蒼矢の意識は、深い場所へと落ちた。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      怠惰の魔王・ベルフェモンの力を宿す電脳力者――縁芽苦郎は焦っていた。

      繁栄の二文字から棄てられた建物の並ぶ景色の中に、敵と断言出来る電脳力者は三体。

      それぞれ苦朗からすれば格下と断言出来る相手ではあるが、彼の近くには気を失い倒れて人間の姿に戻ってしまっている牙絡雑賀がいる。

       

      (……まずいな)

       

      敵の『組織』の目的は、司弩蒼矢に宿る『魔王』の力を引き出し手に入れる事。

      縁芽苦郎の目的は、司弩蒼矢を殺害してでもその目論見を阻止する事。

      目的の達成を最優先とするのであれば、苦朗は雑賀を見捨てて早急に司弩蒼矢の拉致された現場へと向かうべきなのだが、縁芽苦郎はその選択を許容する事が出来ずにいる。

      そして、仮にこの状況に至る直前の状況を敵に見られていたとすれば、敵がこの状況において牙絡雑賀の事を縁芽苦郎にとって殺害を許容出来ない程度には『価値のある』相手だと認識してもおかしくはない。

      故に、最初の行動は嫌でも予測出来た。

      機械と竜を混ぜたような姿をしたメガドラモンの電脳力者が、その機械化した両手の中心に空いた穴から悪意の塊のようなミサイルを合計六発連続して解き放つ。

      無論、ターゲットはメガドラモンより格上の魔王ではなく、デジモンの力が作用されていない生身で無防備な牙絡雑賀。

       

      (やはり……そう来るか!!)

       

      一発でも直撃を許せば、変化の原型となっているデジモンの身体能力の関係で縁芽苦郎には大した痛手にならずとも、生身の人間の骨肉を灰燼に帰す事ぐらいは容易いだろう。

      苦朗が即座に右手を突き出すと、右腕に巻き付いていた鎖が『生える』ような形で複数の方向に伸び出し、黒色の炎を帯びながら誘導兵器目掛けて直進する。

      鎖の指先は六発のミサイルを正確に貫き、あるいは掠め、損傷が一定のラインを超したのかミサイルは即座に起爆し、辺りに炎と風を撒き散らした。

      苦朗はいちいちその結果を確認したりはしなかった。

      突き出した右手を引き、飛び出させた鎖を一旦腕の中へと『収納』しながら、その視線を別の方向へと向ける。

      即ち、ミサイルの迎撃に意識を向けた隙を狙わんと別の電脳力者から放たれた真っ黒い蝙蝠の群れに。

       

      (……奴等にとっては、時間さえ稼げれば十分なのだ。邪魔者である我を殺す事が出来ずとも、何の問題も無い……『本命』であるリヴァイアモンの電脳力を組織の中に取り込む事が出来れば、それだけで形勢は変わる……)

       

      先に放たれたミサイルと比べると速度こそ見劣りするが、その蝙蝠の正体は有害極まる暗黒物質。

      迎撃自体は簡単に出来るが、その間に別の角度から新たな攻撃が放たれ、それに対して迎撃を行ってもまた別の角度から更なる攻撃が加えられる――受けに回る事しか出来ないそんな状況が続いても、状況は一向に好転しない。

      苦朗は即座に意識を切り替えた。

      足元で倒れ付している牙絡雑賀を左腕で肩に担ぎ上げ、暗黒物質の群れから逃れるように雑居ビルの上から身を投げ出す。

      その背に有る六枚の翼で、宙を翔ける。

       

      (……せめて、雑賀が自分の足で奴等から逃げ切る事が出来るのであれば庇護する必要も無いのだが……そのためには体の中を蝕む毒を解毒し、意識を取り戻させ、その上で体力まで回復させなければならん。くそ、重要な場面で『怠惰』の性質に心を引っ張られてしまうとは……)

       

      根本的に牙絡雑賀が今人間の姿に戻されている原因はベルフェモンの力を行使した縁芽苦朗がその体に神経毒を爪を介して直接注入した事にあり、経緯を考えれば自業自得と言う他に無い話ではあった。

      そして生憎、縁芽苦朗は自身が付与した神経毒を解毒するための手段を持ち合わせていない。

      元々、主に敵と呼べる相手に対してしか使う事が無い能力であるからという事情もあるが、何より『治療』と該当されるような力は魔王のようなウィルス種のデジモンの領分ではなく、全く真逆の立場にあるワクチン種のデジモンの領分なのだ。

       

      (無理を通せば出来なくもないことではあるが……難しいな。仮に出来たとして、その後の状況が確実に良くなるとも限らん。下手をすると共倒れになる)

       

      敵は全員が飛翔能力を有しており、辺りは開けた路地だらけで身を隠せそうな場所は建物の中以外には見当たらない。

      だが、仮に近場の建物の中に身を隠せたとしても、メガドラモンの電脳力者がミサイルによって建物を崩落させてしまえばその行動は無意味になる。

      離れる事も隠れる事も難しい状況。

      実のところ、敵を倒す事が最も確実に安全を確保出来る方法である事は間違いないのだが、ここで懸念されるのはベルフェモンというデジモンの有する圧倒的な攻撃力だ。

      現実世界のホビーミックスの一環においてデジモンの種族ごとの設定が記された『図鑑』ですら、単純な咆哮だけでも進化の段階が完全体以下のデジモンの体をデータ分解し即死させ、同列の究極体クラスのデジモンですらダメージを受けるほどの馬鹿力と説明されているほどに、ベルフェモンというデジモンは行動の一つ一つに対して生じる暴力の規模が尋常では無い。

      敵を倒す事以上に、被害を限定させる事の方が難しいのだ。

      拳や鎖を用いた『点』を突くような攻撃ではなく、広く『面』を制圧するような攻撃を放てば敵は一掃出来るかもしれないが、余程意識をして規模を限定させなければ真っ先に被害を被るのは庇うために左腕で担いでいる牙絡雑賀の体になってしまう。

       

      (……一掃は難しい。であれば、やはり各個撃破が望ましいか……)

       

      敵の追撃に注意を払いながら左腕に巻き付いている鎖を再度伸ばし、左手ごと雑賀の体を覆う形で巻き付ける。

      瞬く間に鈍色の鎖が繭のような形を成して雑賀の体を縛り包み、その身を外部からの攻撃から遮る。

      防護――と言うより、いっそ拘束か束縛と称した方が正しいのかもしれない。

      ベルフェモンというデジモンの体に巻き付いている鎖は、本来自身や他者の防護のために存在するのではないのだから。

      苦朗自身、鎖で作られた即席の檻で三人の電脳力者の攻撃を完璧に防ぎきる事は出来ないと思っている。

      種族の特徴として鎖に帯びさせているはずの『黒い炎』による防壁も、言うまでも無く束縛という形で雑賀の体を鎖に触れさせている状態では、構築した途端に一瞬で炎上させてしまうのがオチだろう。

      だから、所詮は応急措置。

      その防護性を頼りにし続ける事は出来ない。

      ならば。

       

      (どの道時間は掛けていられん。逃げと守りに専念しているだけでは奴等の思う壺だ……!!)

       

      六枚の翼を羽ばたかせ、体に捻りを加える形で振り返る。

      飛翔の速度を意図して落とすと、苦朗の行動の意図に感付いた三体の電脳力者もまた飛翔の速度を落とし、追撃のために詰め過ぎた距離を一旦離そうとしていた。

      そのついでと言わんばかりにミサイルや暗黒物質の弾幕が放たれると、苦朗は即座に右手を振りかぶり、その五指の爪から黒ではなく薄く淡い緑色の炎を噴出させながら、

       

      「ギフトオブダークネス」

       

      横薙ぎの一閃。

      建物と建物の間の空間そのものを引き裂くかのように右手を振るったかと思えば、なぞった軌跡がそのまま炎の刃と化して路地の空間を横断した。

      進行を遮る有象無象の弾幕を纏めて塵芥に変え、そのままの速度を維持しながら敵対者の電脳力者へと一直線に襲い掛かるが、右手を振りかぶった時点で三体共に飛翔の軌道を変えたらしく、それぞれ斬撃の餌食になる事は回避していた。

      だが、回避される程度は予測の範囲内。

      故に、苦朗は右手を振るったと同時に六枚の翼に力を込め、三体の敵の中で最も厄介と言える者に向けて風を切って突撃していた。

      即ち、宿す種族の個性としてミサイルを無尽蔵に放つ事が出来るメガドラモンの電脳力者に向けて。

       

      「……ッ!!」

       

      接近に感付いたメガドラモンの電脳力者は機械仕掛けの翼でもって後ろの方へと下がりながら両手からミサイルを放ち、接近してくる苦朗を迎撃しようとした。

      だが、苦朗はその前に右手を再度振るい、腕の鎖を鞭のように敵対者に向けて叩き付ける。

      右腕と左腕でそれぞれ力の伝導具合は調節してこそいるが、不意の事態を招かないために黒い炎を鎖に帯びさせてはいない。

      それでも究極体、それも上位の位に位置するデジモンの腕力を用いた一撃は、地に足を付けずとも十分な威力を有していた。

      ドッ!! と、鈍く短くも確かな暴力の音が路地に響き、防御の姿勢を取る間も無く鎖の一撃を身に受けたメガドラモンの電脳力者の体が砲弾のような速度で建物の壁面に激突する。

      だが、

       

      (……くっ、仕留め損なったか……!!)

       

      口から赤い液体が吐き出される程度のダメージは与えたようだが、まだメガドラモンの電脳力者の意識は途絶えていない――それを察した苦朗は追撃を仕掛けようとしたが、その寸前で視界の外から横槍が飛んで来た。

      貴族が着るような礼服に身を包んだ赤肌の悪魔――フェレスモンと呼ばれるデジモンを宿した電脳力者が、その手に持った長身の銃で苦朗の頭部目掛けて狙撃してきたのだ。

      瞬間的に反応して首を振り銃弾を回避するが、更にそこで露出度の高い黒の衣装に身を包んだ堕天使――レディーデビモンと呼ばれるデジモンを宿した電脳力者が肉薄してくる。

      苦朗から見て、左側の方向から。

       

      「チッ……!?」

      「ダークネススピアー!!」

       

      レディーデビモンの電脳力者の左肘から手の部分にかけてを覆う黒衣が鋭利な形――棘のような形へと変化する。

      いくら位が上と言えど、流石に脇の下や眼球などの急所を狙われてしまえば、魔王の身体性能でも致命傷を負わずに済むとは言い切れない。

      左手は腕の鎖で雑賀の身を防護するために鎖の檻で包んでいるため、肉弾戦には到底使えない。

      かと言って右手で対処しようとすれば、続く攻撃に対しての対処が間に合わなくなるかもしれない。

      そこまで可能性を視野に入れた苦朗は、

       

      (それでも間に合わせる!!)

       

      体を強引に捻り堕天使の姿を視界に捉え、右手で棘の先端を掴んで瞬時に砕く。

      物理的な肉体ではなく衣装が変化した武器であるため、砕かれたとしても痛みはまったく感じていないらしい――続けて鋭利な爪を生やした右手による二撃目が迫る。

      振るい切り裂くのではなく、突き出し刺し貫く形の「点」の攻撃。

      それに対し、苦朗は咄嗟に口から強く息を吹きかけた。

      すると、堕天使の振るわんとしていた右手どころか体全体が、見えない何かに圧されたかのように弾かれる。

       

      「なっ……!?」

       

      ただの吐息に吹き飛ばされるとは思っていなかったのだろう――堕天使の表情に驚愕の色が宿る。

      苦朗は構わず右手を一旦引き、その五指で堕天使の胸部――より厳密に言えば心臓に狙いを定めるが、そこで再び赤膚の悪魔の手にある銃から発砲音が響き、銃弾が苦朗目掛けて飛んで来た。

      今まさに堕天使の心臓を貫こうとしていた右手を使い、辛うじて銃弾を手の甲で弾く。

      だが、その僅かな間に堕天使は苦朗の腹を蹴って距離を離してしまう。

       

      (……今の銃弾……)

       

      変化させた肉体の性能を考えれば、ただの銃弾で苦朗が致命傷を負う事は考えられない。

      堕天使を撃破出来る機会を先送りにしてでも銃弾の対処を優先したのには、ある理由があった。

       

      (……『呪い』が付与されているな……)

       

      レディーデビモンやフェレスモン等の闇の種族のデジモンを宿す電脳力者は、必殺技に用いるような呪(のろ)いの源となるウイルスを様々な形で『付与』する事が出来る。

      無論、呪いの手段や内容――その他にも付与した道具の相性によって呪いの効き目も変わってくるのだが――実を言うと、その中でも銃弾や刃物のような『凶器』の類の代物は相性が良い。

      何故なら、有名な例として挙げられる藁人形に釘を打つ行為がそうであるように、根本的に『呪い』とは対象を害しようという意志が起源となっているのだから。

      他人を害しようと考え振るう得物に、そういった悪意が宿らない方がおかしい。

      であれば、赤膚の悪魔の手にある銃――そしてそこから放たれる弾丸にもまた、害意と言う名のウイルスが付与されていると見るのが自然なのだ。

      幸いにも右手で銃弾を弾いた際には甲の部分を覆うように装備されていた武具が擬似的な盾となり、呪いの影響を受けずに済んでいるのだが、生身の部分で受けていた場合は少なからずその毒素に体を蝕まれていたかもしれない。

       

      (フェレスモンというデジモンが得意とする技は……確か『ブラックスタチュー』という名前だったか。対象にした相手を黒い石像に変えるという効果だけが明らかになっている一方で、具体的な方法までは『図鑑』にも記載されていない……つまり電脳力者の解釈次第でいくらでも方法を変える事が出来る『未知』の技……)

       

      思考している間にも攻防は続く。

      正面からは黒衣を纏う堕天使が暗黒物質の群れを放ち、仕損じたメガドラモンの電脳力者が背後から無数のミサイルで弾幕を張る。

      二種類の攻撃による前後の方向からの弾幕を上空へと飛翔することで回避する苦朗だったが、その動く先を読むように赤肌の悪魔が魔の弾丸を放ってくる。

       

      「……チィッ!!」

       

      今度の弾丸は、六枚ある翼の中で右下の翼に命中したらしい。

      危惧していた通り、呪いの毒牙が被弾した部位である翼を蝕んできた。

      それも、徐々に翼の一枚どころか全体――いや、体全体を石化させようとする形で。

      当然、飛行能力にも重大な支障が出始める。

       

      (……まずい、翼が思うように動かせん!! このままでは回避もままならん!!)

       

      銃弾に込められた石化のウイルスを、内部から自家生産のウイルスで『染めて』しまえば、すぐにでも赤肌の悪魔の呪いを打ち消す事は出来るだろう。

      だが、そのためには一旦意識を呪いの影響下にある部位へと向ける必要がある。

      当然の如く、堕天使と機竜の電脳力者が苦朗の動きを追うように上方へと飛び、追撃を仕掛けに来る状況でだ。

       

      (間に合えッ!!)

       

      視界に、迫り来る誘導兵器と暗黒物質が映る中。

      強く念じ、体を黒く硬く重く染め上げようとする毒素を自家生産の毒素で塗り潰す。

      だが、翼の感覚が元の状態に戻った時点で、まず回避が間に合わない至近の距離に敵の攻撃が迫り来ている。

      咄嗟に左腕を動かし、雑賀を護る鎖の檻ごと背中の方へと回すのが精一杯だった。

      直後に、誘導兵器と暗黒物質――二種類の攻撃が魔王の体に着弾する。

      視界が、主にミサイルの起爆によって生じた黒い煙によって遮られる。

       

      「くっ……」

       

      宿すデジモンのスペックの上では、まず致命傷に至ることは無い攻撃。

      それでも決してダメージが『無い』わけではなく、爆炎と闇の炎に焼かれる体の各部が痛みの感覚を発してくるが、そんな事はどうでも良かった。

      追撃を受けているこの状況で、煙に視界を遮られたという事実の方が重要だった。

      体勢を戻して六枚の翼を動かし、局所的な強風を生み出す事で煙を吹き飛ばすと、メガドラモンの電脳力者が真正面――位置関係から見れば下方から迫り来る所だった。

       

      「アルティメットスライサー!!」

       

      ミサイルを放っていた機械の両手が、今度はあらゆる物質を切断出来る五指の爪でもって直接襲い掛かって来る。

      機械の両手を振るう動きは生身のそれと比較すると重く、速度自体も肉眼で十分に見切る事が出来る程度のもの。

      故に、それ自体は右手で素早く弾く事で対処する事が出来たのだが、

       

      (もう片方は何処から……っ!?)

       

      視界に入っていたのはメガドラモンの電脳力者だけだった。

      であれば、追撃を仕掛けてくるはずのもう片方――堕天使の電脳力者は今この瞬間視界の外にいるという事になる。

      だが、位置を特定しようにも、至近距離からの敵の攻撃を右手一本で対処しなければならない状況で別の方向に対して視線を投げるだけの余裕は無く。

       

      「ダークネススピアー!!」

       

      ザシュッッ!! と。

      直後に、死角となった側面より必殺の一撃が右の脇腹に向けて突き立てられた。

       

      「がっ……は!?」

       

      苦痛の声が、赤い血が、口から漏れる。

      暗黒物質やミサイルを受けた時とは比べ物にならない、焼け付くような激痛が意識を揺らす。

      眼球だけを動かして、攻撃してきた者の姿を見た。

      考えるまでも無く、苦朗の脇腹を刺してきたのは、堕天使の電脳力者だった。

       

      「――流石に効いたみたいね。あたしの一撃のお味はいかが?」

      「……貴様等……」

       

      痛みに堪えながら、苦朗は言う。

       

      「……そんなにリヴァイアモンの力が魅力的か? 動作だけでも確実に多くを破壊してしまう怪物だぞ……」

      「同じく『七大魔王』を宿している男とは思えない台詞だな。いや、むしろだからこそなのか?」

      「ベルフェモンってデジモンの力が情報通りなら、咆哮を放たれるだけであたし達は皆殺しにされててもおかしくなかった。なのにそうなってないのは、周りを巻き込みたくないって考えが少なからずあるからでしょうしね。その鎖で護っている誰かさんとか」

      「…………」

      「正直、あたし達からすれば不安要素の除去って意味合いが強いわね。『七大魔王』……厳密にはそれに進化した経歴を持つ個体を宿した電脳力者は、あなた自身が解っている通り凄まじい力と素養を持っている。他の勢力に引けを取らないためには、どんな手段を使ってでも引き入れたりした方が得策ってこと。リヴァイアモンの電脳力者を引き入れられれば、うちの組織には魔王が二人いるって事になって、勢力図も傾くわけだし」

      「……やはり、貴様等の司令塔はあの野朗か……」

      「聞くに知り合いという話だったな。俺達は全くの初対面なんだが」

       

      縁芽苦朗は知っていた。

      目の前の敵対する電脳力者を率いている可能性が最も高く、尚且つ自分とは異なる大罪を司る『七大魔王』を宿す男の事を。

      知っていたからでこそ、二人の電脳力者の言葉を聞いて思った事は一つだった。

      ああ、相変わらずなのか、と。

       

      「……ヤツの企む事だ。今回の一件……目的はリヴァイアモンの電脳力者だけではなく……」

      「そう。確実に邪魔しに向かって来るであろうあなたを、出来れば捕らえるか殺す。そんな指示も送られているわね。何せ……」

       

      そして、堕天使は言った。

      義理の妹にはもちろん、鎖の檻で護っている少年にも伝えていなかった、ある事実を。

       

       

       

       

      「あなた、少し前に『シナリオライター』の構成員と戦って致命傷を負っていたらしいじゃない。どういう理由で戦ったのかまでは情報が行き届いてないけどね」

       

       

       

       

      縁芽苦朗の目が細くなった。

      自分の触れられたくない部分に土足で踏み込まれた時のような、敵意ある変化だった。

       

      「……何故、貴様等がその情報を持っている? あの時の出来事を、隠れて記録でもしていたのか」

      「ある『情報屋』の筋とだけしか聞いてないわよ。……そして、今重要なのは情報の出所なんかじゃない。想定外の要因があったとはいえ、こうしてあたし達があなたを殺しかける所まで追い詰める事が出来たという事実だけよ」

      「…………」

      「選びなさい。あたし達『グリード』の仲間になるか、この場に死ぬか」

       

      いっそ模範染みた、理不尽を極めた問い。

      苦朗は一秒も迷わずにこう答えた。

       

      「死んでも断る」

      「じゃあ死ね」

       

      簡潔な、いっそ軽ささえ感じる言葉の直後だった。

      堕天使は、苦朗の脇腹を刺していた棘を引き抜いた。

      赤い血が漏れ出し、痛みに嫌でも動きを鈍らせてしまう苦朗に対し、堕天使は脇腹に開いた刺し傷に向けて口から何か赤黒いものを吹きかけてきた。

      傷口に塩を塗る――などというレベルの話ではなかった。

      堕天使が吹きかけて来た赤黒いものは、傷口を通って苦朗の体内に潜り込むと共に、瞬時に効果を発揮し始めた。

       

      レディーデビモンというデジモンには、二種類の必殺技がある。

      一つは暗黒物質を無数に放ち、触れた相手を焼き尽くす『ダークネスウェーブ』というもの。

      そして、もう一つの必殺技――たった今苦朗が受けてしまった赤黒い毒霧のような攻撃の名は『プワゾン』と呼び。

      その効果は、相手の持つ『力』を自らの闇の力と相転移させる事で相手を内側から滅殺するというもの。

      つまる所、相手が強ければ強いほどに効力を増す魔性の劇毒。

      それは、対象が格上で堕天使と同じく『闇』の属性を宿す魔王であろうと例外ではない――ッ!!

       

      「――ぐっ、あああああ!!?」

       

      体中の血液が一斉に沸騰させられたかのような、圧倒的な激痛の波が苦朗を襲った。

      単なる力の総量であれば、彼の力は堕天使の力を遥かに上回っているのだが、その内包している『力』の性質そのものを『自らの力』に相転移――変質させる『プワゾン』の効果によって、拒絶反応にも似た破壊の連鎖が体の内側で巻き起こっているのだ。

      痛みに反応している場合ではないと理解していて尚、悶えて動きを止めてしまうほどの痛み。

      そして当然、殺す事を選択した敵がそんな隙を見逃すわけが無く。

       

      「ジェノサイドアタック!!」

       

      メガドラモンの電脳力者の両手から放たれる、至近距離でのミサイルの連射。

      痛みに悶え無防備な姿を晒してしまった苦朗には、回避どころか防御すら出来るわけも無かった。

      着弾し炸裂した爆発の音を、果たして正しく認識出来たか否か。

      外側と内側――その両面から多大なダメージを受けた苦朗は、六枚の翼で姿勢を維持する事さえ出来ず、重力に引かれ――頭から落ちる。

      それと同時に、牙絡雑賀の体を敵の攻撃から護っていた鎖の檻が解けだした。

       

      「……ぐぅぅぅっ……」

      (……雑、賀は……)

       

      意識を保とうとするだけで、体中を駆け巡る煮え滾るような痛みが襲い掛かってくる。

      それでも、彼は左腕の鎖に意識を集中させ、辛うじて鎖の檻が解けないようにしていた。

       

      (……死なせて、たまるものか……)

       

      目的を重視するのであれば、率直に言って牙絡雑賀という男を見捨てるべきであった事ぐらい、彼自身理解はしていた。

      目的を果たせず最悪の事態に至った場合の、後に出る可能性がある被害の規模を考えれば、尚の事。

      それでも見捨てる事が出来なかった理由は、たった一つ。

       

      (……こいつは、好夢の友達だ)

       

      彼は覚えている。

      ある少年が日常の中から『いなくなった』時。

      より正確に言えば、その情報がニュースという形で伝わった時。

      義理の妹が浮かべた、辛そうな表情を。

       

      (……こいつが死んだり、会えなくなったりしたら……またあんな顔をさせてしまうんだろう)

       

      そんな顔をさせたくなかった。

      ずっと前から、義理の妹の幸せな日々を守ると心に決めていた。

      あの少女の周りの世界を、どれだけ不恰好であっても守り抜こうと決めていた。

       

      (それだけは、絶対に認められん)

       

      ここで体勢を元に戻せたとしても、状況が絶望的なのは理解している。

      得意とする必殺の技も技術も用いる事は許されず、生身の人間を護るためにも被弾は極力最小限に留め、更にはそんな制約の上で早急に三人の電脳力者を撃破しなければならず。

      目論見の阻止に間に合わなかった場合、嫉妬の魔王の力に覚醒してしまった司弩蒼矢の無力化に深手を負ったまま挑まなければならない可能性さえ存在する。

      率直に言って、牙絡雑賀がただ目を覚まして自力で逃げてもらうだけではこの状況を打破する事は難しい。

      だから、彼は。

      怠惰の魔王『ベルフェモン』を宿す電脳力者、縁芽苦朗は。

      無理難題を無理で通す決心をした。

       

      (……経験がある。失敗は無い!!)

      「ぐっ、おおおおおおおおおおおっ!!」

       

      彼の取った行動はシンプルだった。

      牙絡雑賀の体を覆う左腕の鎖の檻――それに右手で触れ、念じただけ。

      その瞬間、左腕の鎖の檻に淡い緑色の炎が灯り、燃え広がる。

      一見、内部にいる人間を焼き殺しかねない行為にしか見えないが――無論、そんな考えは毛頭ない。

      実のところ、ベルフェモンというデジモンが内包している二色の炎は、赤肌の悪魔が銃弾に込めているのと同じ『呪い』というカテゴリに該当される力であり、その源は害意や悪意などの負の感情とされている。

      だが、仮の話として。

      実際に『呪い』という超常現象を現実に引き起こせる者の、誰かを害しようと思う感情が起源となり炎という形で様々なものを焼き焦がすのであれば。

      そんな超常現象を現実に引き起こせる可能性を持つ者が、害意とは異なる感情を起源として力を発揮した場合、同じ形であってもその効果は変わるのではないだろうか?

       

      例えば必殺技に用いている淡い緑色をした『地獄の炎』を、触れたもの全てを焼き焦がす呪(のろ)いとしてではなく、自らの力を分け与える呪(まじな)いとして機能させる事だって。

      その行為を、あるいはデジモンに関する架空の物語を知る者なら、こう言ったかもしれない。

      デジソウルチャージ、と。

       

      何かをしようとしている――そう判断したのであろう敵の電脳力者達が攻撃を仕掛けてくるが、その全てを無視して彼は自らの力をひたすらに牙絡雑賀へと注ぎ込んでいく。

      全ては、義理の妹の幸せな日々のため。

      そのためなら、彼は自らの命を削るような行為にだって躊躇はしない。

      彼は意識を焼くような痛みに苦しみながら、それでも尚意識を保ち続けて。

      歯を食い縛って。

      耐え続けて。

      そして。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      磯月波音の家族は、自分を含めて父親と母親と弟の四人で構成された家族だった。

      母は幼い頃から優しく笑顔で接してくれて、おいしい料理を毎日作って食べさせてくれて。

      父は毎日働いて、家に帰ってくる時にはいつも疲れた様子だったけど、それが当然といった顔で頑張ってくれて。

      弟は気弱な自分とは対照的と言ってもいいぐらいに元気一杯で、大きくなったらサッカー選手になるんだと真っ直ぐな目で言っていて。

      ありふれたそんな日々が、ある日突然に奪われるだなんて、考えた事も無かった。

      結果から言えば、たった一日前――家族を奪われた。

      とある『怪物の能力』を有した悪党に、家族全員の意識を乗っ取られた所為で。

      異能によって齎された日常の変化は、少女にとって到底受け入れられないものでしかなかった。

      いくら声を掛けても返事は無く、まるで映画に出るゾンビのような挙動で顔を向けてくる母に父に弟。

      目の前にいるのは間違い無く自分の家族であるはずなのに、その眼差しも動作も――到底冗談には思えなくて。

      何も言わず狂気染みた赤い光を宿した瞳のまま、じりじりと近寄って来る家族から逃げ出すように波音は家を飛び出した。

      その後、波音は逃げるように彷徨っていた街の中で、物知り顔で近寄って来る怪しげな男と遭遇した。

      『お前が磯月波音だな?』

      『……なんで、わたしの名前を……いや、まさか……』

      男は、波音の名前を知っているようだった。

      その事実で、波音も事情を察した。

      偶然ではない――この男は、恐らく波音が抱えている事情を知った上で接触してきている。

      家族の事についても、自分自身に宿っている『力』についても。

      そして、その予想は間違っていなくて。

      『単刀直入に言おうか、俺達に協力してもらうぞ。家族の身の安全を保障してほしければな』

      殆ど脅迫と言っても過言ではない言葉だった。

      男が言うには、波音の家族は彼女自身が予想していた通り意識を乗っ取られている状態にあるらしい。

      乗っ取りの能力を有した組織の一員がその気になれば、家族全員の体を操り自殺させる事も、実の家族である波音さえ襲わせる事が出来るという。

      否定材料は無かった。

      事実として、彼女自身家族が『操られている』光景を目の当たりにしていたのだから、そんな事が出来るわけが無いと突っぱねる事も出来ない。

      『いったい、何を協力しろって言うんですか』

      『お前と同じように、あるデジモンの力を宿した人間がいてな。そいつを仲間にするのを協力してほしいわけだ』

      『……誰の事ですか』

      『その沈黙の時点で察しはついてるんじゃないのか? お前が今日の事件で遭遇した、成りそこないの人外の事だ。名前まではまだ知らんのだが、まぁ人外の特徴から考えるに片腕か片足……あるいはその両方を欠損してる患者辺りだろうな。すぐに調べはつく』

      『…………』

      その情報は、少女にとって答えを言っているも当然のものだった。

      男が言う片腕や片足を欠損している患者とは、少女自身が心配になって毎日のようにお見舞いに向かっている相手の事で間違いない。

      事実として、後に男から伝えられた名前は、自分の知る人物と完全に一致していて。

      ただ従うしかなかった。

      嫌でも認めるしかなかった。

      他に取れる方法なんて無かった。

      家族を助ける事はおろか、悪者に抗えるだけの力なんて無かったから。

      超常の力によって引き起こされた出来事を前に、頼れそうな相手なんて心当たりも無かったから。

      そんな言い訳を重ねた所で、意味なんて無い。

      どんな事情を含んだところで、自分の都合で一人の少年を騙して弄んだ時点で、被害者面をして責任転換する事なんて許されない。

      他ならぬ少女自身が、そんな逃げを許したくないのだ。

      だから、少女はいっそ嫌われてしまおうと思った。

      死んでくれて清々したと思われるぐらいの悪党になりきる事で、後に自分がどうなろうと少年の心には傷が入らないようにしようと思った。

      だって、波音は知っているのだ。

      司弩蒼矢という人物が、とても優しい性格をしている事を。

      少女は今でも覚えている。

      まだ自分が小学生の頃、少女が同じクラスの子供からの無邪気な嫌がらせで傷ついていた時、ただ傍観するのではなく自分から助けに動いてくれた事を。

      成績が良かったわけでもなく、未来の自分自身上手に歌えているとは到底思えなかった詩も何も無い歌を、何だか青い色が浮かんできそうな気持ちがいい歌だね、と褒めてくれた事を。

      それっきり、あまり言葉を交わした事は無かったけれど、きっと見向きだってされなかったけれど。

      それでも少女だけは、その少年に救われた事を覚えている。

      傍から見れば大した事の無い出来事だとしても、少女にとっては大切な思い出だったから。

      だから、病院で自分の事を覚えていないと言われた時、連れ出す切っ掛けを作るために知り合いである事を必死に主張していた一方で、むしろ安心を覚えていた。

      裏切り者と関わっていた記憶なんて、少しでも残っていない方がいい。

      その方が、与える傷はきっと深くならない。

      ただでさえ、病室で見た時――傍から見るだけで胸が苦しくなるほどに、彼は傷ついていたのだから。

      これ以上の負担は与えてしまいたくない。

      あなたのためにわたしの家族が危ない目に遭っている――なんて絶対に言いたくない。

      だから。  電話越しに悪党の指示を受け、スタンガンで少年を気絶させて、その体を悪党が車両に乗せる所を見ても。

      あるいは、物好きでもない限り目の届かない場所まで連れ去って、そこで裏切っていたという事実を突き付けて――本当に、心の底から痛みを感じたかのような少年の声を聞いても。

      どんなに苦しくても、どんなに間違っているとしても、絶対に被害者面して助けを請うような真似はしなかった。

      そんな事をしたとしても余計に少年を傷つけてしまうし、悪党に家族の命運を握られている時点でそんな真似は出来ないし、そもそもこうして自分の都合で裏切った時点でそんな資格は無い。

      救われようと思ってはいけないのだ。

      なのに。

      『……頼むよ。君を傷つけたくないんだ……』

      どうして、あの少年はこの期に及んであんな言葉を漏らしたのだろう。

      どうして、あの少年は心から苦しみながら少女の事を糾弾しようとしないのだろう。

      どうして、救われない覚悟を決めていたはずなのに、その言葉で心がブレてしまったんだろう。

      『確かにオレは君に酷い事をされた。でも、その一方でオレは君に少しだけ救われていた。許す許さないの問題じゃないんだ。例え全てが嘘だったとしても、あの時救ってくれた君を傷付ける事なんて出来ない!!』

      ……悪党達に洗脳の技術がある事について、この場で男の話を耳にするまで波音は知らなかった。

      だが、その話を耳にして、意志に関係無く大切な人の心が塗り潰されてしまう可能性を知っても、事実として少女はその行為を止めさせようと動く事さえしなかった。

      悪党の意志に逆らった結果として生じるリスクを恐れたからか、それともそんな事を出来るわけが無いと思わず都合の良い話に歪曲してしまっていたからなのか。

      家族を乗っ取られていた時点で、それが実現出来る可能性は示唆されていたのに。

      結局、この期に及んで少女には選ぶことが出来なかったのだ。

      自分の家族の安全のために大切な人を見捨てるか、あるいはその逆の選択をするか。

      どちらも認められなかったから、無駄だと解っていても炎の魔人の前に立ち塞がろうとしただけの事。

      だから、直後に生じた結果もまた、当然の報いだったのかもしれない。

      人外の蹴りを受けて少女は吹き飛ばされ、地面を転がった。

      「……ぐっ、はぁっ……」

      口から鉄の臭いがする液体が漏れ、体の底から力が抜けるような感覚があった。

      呼吸の調子がおかしくなって、喉の奥から更なる血の塊が吐き出される。

      体に加わったダメージの所為か、血を口から吐き出した所為か、意識が明滅する。

      死という一文字が、思考を過ぎる。

      こうなる事は、解っていた。

      こうなってほしくないと思いながらも、解りきっていた。

      こうなって当たり前だと思っていたのなら、仕方無いと納得して然るべきだった。

      だけど、

      (……わたしのしていた事って、何だったんだろう……)

      悪党に家族を奪われて、失う事が怖かったから仕方なく言いなりになって。

      その中で、被害者面をするのが申し訳なくて、嫌われようとする事でせめて最終的な傷を減らそうと思って。

      けれど、結果はどうだった? いったい何の意味があった?

      状況を打開するための行動は何一つ思い浮かべる事すら出来ず、ただでさえ傷付いていたのであろう思い人の心を余計に傷付け、家族と思い人のどちらを見捨てるかどうか選択する事さえ出来ず、今はこうして地面に転がっているだけ。

      出来た事なんて、それが一番良いと勝手に決め付けた傷付き方を相手に一方的に押し付けていただけの、下らない偽悪主義の茶番劇ぐらい。

      それも、一人の無関係な女の子を巻き込む形で。

      朦朧とする意識の中で、思い人の叫び声が聞こえた。

      怒りや悲しみといった負の側面が練り混ざったかのような声だと思った。

      まるで、司弩蒼矢という思い人だけではなく、別の『誰か』までもが叫んでいるような。

      (……蒼矢、さん……)

      彼は今、どんな顔をしているのだろう。

      今の彼の姿は、悪党に抵抗しようとする過程で人間の体の面影は殆ど失われている。

      体は全体的に青緑色の鱗に覆われ、下半身は魚や蛇の面影を想起させる尾鰭に変じ、首の下から尾の先端にかけては蛇腹が生じていて――骨格という形で人間の面影を感じられる顔の部分も、目の周りまでも覆う兜のような形の黄色い外殻に覆われている。

      その姿は、きっと彼に宿る怪物の姿を模したものなのだろう。

      炎の魔人と比較しても人とはかけ離れた姿をしていて、初めて見た時は理性の有無さえ疑ったほどに人らしさを感じられなかったけれど。

      叫び声に込められた感情は、人間のそれと変わらない気がした。

      内に宿る怪物と意志の疎通をする事が出来るのが、司弩蒼矢だけだとすれば。

      今の彼に力を貸してあげられるのは、逆に言えばその怪物だけなのだろう。

      (……ごめん、なさい……ただでさえ、苦しませているのに……こんな事になって……)

      立ち上がろうとしても、手足にうまく力が入らない。

      肺の調子が悪いのか、思い人に届くような声は出せない。

      その瞼から、ボロボロと涙がこぼれていた。

      殴られた痛みではなく、死に対する恐怖でもなく、自分自身の無力がただただ悔しくて。

      (……助けて……)

      少女はただ願う。

      力なく、倒れたまま。

      瞳に涙を浮かべて。

      (……どうか、お願いします。わたしはどうなってもいいから……蒼矢さんと、あの女の子を、助けてください……)

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      闇の中だった。

      司弩蒼矢は、何も視えない暗闇の中に放り出されていた。

      それが現実的、物理的なものではなく、目の前で起きた出来事によって内より生じた感情の濁流によって、意識が現実の広がる外界から心象の風景のみで構築された内界へと流され溺れてしまっているのだと、彼自身に気付いている様子は無い。

      自分が真っ黒な闇の中に少しずつ『沈んでいる』事に気づくのに、数秒掛かった。

      (……ここは)

      見覚えがあるような、無いような――奇妙な疑視感があった。

      睡眠中に見た光景がその後の未来で見た光景と被る、唐突に見る正夢にも似た何か。

      それでいて、まるで『そこ』に自分が存在していたかのような、他人事では済ませられない景色。

      (……どこだ? 波音さんは、あの女の子は何処に……?)

      五感から伝わる冷たさは、水の中を想起させる。

      だが、記憶が正しければ自分は寂びれた雰囲気を閉じ込めた建物の中に居たはずだ。

      そして、そこには自分を連れ去った悪党を含め、自分以外の人間が何人か居たはずなのに。

      記憶に連続性が無い。

      どうしてこんな『海』の中に沈んでいるのか。

      そもそも、こうしている今自分の体は今どうなっているのか……?  そういった当たり前の疑問が浮かんだ時だった。

       

        「……よう。初めましてとでも言うべきか?」  

       

      誰かの声が聞こえた。

      暗く何も見えないはずの『海』の中、遠鳴りのような音が響く。

      蒼矢がその声を認識した途端、暗がりの中に何か巨大な生き物のものかと想われる黄色い瞳が浮かび上がってきた。

      むしろ、何故この瞬間までその存在を認識出来なかったのか――そんな疑問が当たり前と言えるほどに、浮かび上がってきた『誰か』の存在感は圧倒的すぎた。

      あまりにも巨大過ぎるが故に全身を一度に視界に入れる事は出来ず、蒼矢に『視る』事が出来たのは瞳とその周囲に僅かに見えた赤いの鱗肌と黒光りする甲殻のようなものぐらいだった。

      瞳とその周囲のみが視界いっぱいに映るほどにその生き物が巨大なのか、あるいは自分自身がそう視えてしまうほど小さくなっているのか、真偽は定かではない。

      だが少なくとも、たった今自分に向けて言葉を発してきたのがこの巨大な生き物である事ぐらいは、何となく想像がついた。

      故に、咄嗟に思い浮かんだ言葉で返してみる。

      「……お前は、誰だ」

      「リヴァイアモン。生きていた頃は『悪魔獣』とか呼ばれていたが、あくまでも名前で答えるんならそれが俺の名前だな。察してるかもしれんが、俺がお前の中に宿っているデジモンだ」

      聞き覚えの無い名前なはずなのにも関わらず、聞き覚えがある名前だと感じた。

      この暗闇に覆われた風景に対して抱いた奇妙な疑視感と同じ、曖昧なその感覚に蒼矢は困惑する事しか出来ない。

      何となく、この怪物が自分に宿っているモノの正体が目の前の瞳の持ち主である事は予想していた。

      だが、それがデジモンという名称で呼ばれる存在である事については何も知らなかったのだから、ただでさえ理解の追いつかない状況が更にややこしくなったとしか蒼矢には思えなかった。

      リヴァイアモンと名乗るその怪物は瞳をこちらに向けたまま言葉を発してくる。

      「で、今度は俺から聞きたいんだが……お前は、今自分の体がどんな状態にあるのか解っているのか?」

      「僕が……?」

      言われて初めて視界を動かし、蒼矢はまず自分の手のひらを確認する。

      たったそれだけの事で、誰でも異様さを理解出来るような変化が生じている事に気付かされた。

      視界に入った手のひらには見慣れた人間らしい肌色の皮膚も、人外の力を引き出した結果として変化していた青緑色の鱗肌さえも無く――何か、青色の線のようなものだけで構築された、生き物の体とさえ表現し難い何もかもが『剥き出し』の状態になっている奇怪な体表だけが見えていた。

      皮膚も爪も見えない手から続けて腕に肩、腹に足――となぞるように続けて確認してみても、見えたものは同じ。

      この分だと、顔も含めた全身が同じような状態になっているのだろう。

      自らの体を怪物の姿へと変化させた時、思えば自分の体の変化の過程を蒼矢自身目で見て確認した事は無かったのだが――変化の最中、体の構造を書き換える仮定でこのような姿になっていたのだろうか?

      驚きを隠せない蒼矢に対し、リヴァイアモンはいっそ呆れた様子で、

      「……お前、マジで気付いてなかったのか。まぁ俺もその体がどういう意味を示すのか詳しくは知らないんだが、少なくとも言える事は今お前が『進化』の真っ最中だって事ぐらいだな。多分、その姿はまだ『成りかけ』のものなんだろう」

      「進化……成りかけ……?」

      「要はまた『変わる』って事だ。流石に意味が伝わらないほど鈍くはないよな?」

      「…………」

      その言葉に蒼矢は最初、異形と化した自らの姿を思い浮かべた。

      人間に蛇や魚の部位を混ぜ込んだかのようなあの異形から、また変わる。

      ただでさえ怪物としか言い様の無かった姿から、どんな姿に変わってしまうのか。

      想像するだけで、恐怖を覚えた。

      一日前の自分が、理由があったとはいえ何故こんな『力』を求めてしまったのか解らなくなるほどに――今では自らに宿っている異形の『力』が、怖い。

      「……僕は、これからどうなるんだ」

      「…………」

      「変わった後の僕は、本当に僕のままでいられるのか。自我を失って、また誰かを傷付けてしまうんじゃないのか。もう、誰かを傷付けてまで得たいものなんて、僕には無いのに」

      こんな事を言っても、仕方の無い事だという事はわかっている。

      だけど、一度自分の思いを口にし始めたら、もう止まらなかった。

      「ああそうだよ、自分の都合で自分の手足を取り戻そうと『力』を使って関係の無い人を傷付けた時点で、僕には被害者面をする権利なんて無いさ。だから罰を与えられたって文句は言えないし、糾弾されたってそれが当然の事だって言えるよ」

      「…………」

      「だけど、何で僕に対して向けられるはずの矛先が、あの子に向けられないといけないんだ!! あんな、まるで使い捨ての道具のような扱いを受けないといけないんだ!! あんな目に遭ったのが僕の所為だとしたら、あの子は僕を糾弾して見捨ててしまっても良かったのに、どうして身を挺してまでして守ろうとしたんだ!? 途中で乱入してきた女の子だって、身の危険を感じたのならすぐにでも逃げればいいのに、どうして見捨てようとしない!? あのプールで戦った牙絡雑賀って人もそうだった。一方的に傷付けようとしていたのは僕なのに、糾弾するどころか僕が『人間』だからって。誰かを助けようとするだけの善意を持った奴が自分から墜ちて行く光景なんて黙って見ていられないって。そんな事を言って、本当に命を賭けて僕の凶行を止めてくれた……」

      「…………」

      「けれど、僕の心にそんな善性があるなんて考えられない!! 腕と足を失うことになったあの事故の時だって、別に助けたかったから助けたわけじゃないんだ。ただ、あの幼い女の子が危ない目に遭う所を見たくなかったから。自分のためだったんだ。もしもあの時の行動の結果が先に解っていたとしたら、もしかしたら見捨てていたかもしれない。助けようと動く事にさえ躊躇したかもしれない!! 僕はそんな自分勝手な奴なんだよ。テレビや漫画の中にいるような憧れの対象とは違う!! 得意の水泳とは違って好きでも無い勉強を頑張っていた事だって、別に将来をより良くしたかったからとか、そんな立派な理由じゃない。ただ、褒められたかっただけ。自分はよくやっているんだって、頑張っているんだって……自分の事を認めてもらいたかったんだ。そうしないと、何か満たされない感覚があったから。僕なんかよりも才能がある弟の方ばかりを見ていた事が、どうしても気に掛かって……いつの間にか嫉妬していたんだ」

      「…………」

      「あの子が死ぬような目に遭うぐらいなら、自分勝手で醜い心を持った僕の方こそが死ぬべきだったんだ。咎を受けるべきだったんだ……なのに、なんで。どうしてあの子は笑っていたんだ。ああなる事が解っていて、自分がこうなるのも当然だって顔をして……あの子は何も悪くないのに。あの子は悪党に何かをされたから、仕方なく従うしか無かっただけで……そうとも知らず、僕はあの子を知らず知らずの内に追い詰めていた。本当はやりたくなかった事を強制されながらも耐えて、何かを守ろうとしたあの子の心を傷付けた!! 結局、僕は傷付けていただけじゃないか。自分で作った疑心暗鬼の檻に閉じ篭って、勝手に妬んで勝手に追い詰められて……多分、そんなどうしようもない心が引き金になって、僕は化け物になったんだ。そして、自我の有無に関わらず他人を傷付けた。自分勝手な理由で、暴力を使って!! ……もう、誰かを傷付けるだけの『力』なんて持ちたくない。傷付けるだけで、あの子の死を止められない『力』なんていらない。僕に出来る事なんて、もう答えは出てしまっているんだから。ここから僕の何かが変わったとして!! 傷付ける事しか出来なかった僕に!! いったい何が出来るって言うんだッ!!!!!」

      胸の中に溜め込んでいたものを噴き出すような言葉があった。

      リヴァイアモンと名乗るその存在は、それを黙って聞いていた。

      きっと、良い気持ちになる言葉ではなかっただろう。

      きっと、とても不快な気持ちになる言葉だっただろう。

      言葉の中には彼の事を遠回しに糾弾するような内容だって含まれていたのだ。

      彼もまた望んで司弩蒼矢という人間に宿っていたわけではないかもしれないのに。

      化け物だと、誰かを傷付ける事しか出来ない『力』だと、そう言って。

      なのに。

      「……そうだな」

      肯定の言葉があった。

      他ならぬ、司弩蒼矢に宿る異形の『力』の源たる存在の声だった。

       「お前の言う通り、俺の力は誰かを傷付ける事にしか使えない……いや、使えなかった。生きていた頃だってそうだった。誰かを助けようと動いても、むしろ助けた相手を怯えさせてしまった。誰かの役に立ちたいと思っても、むしろ何もしないでくれと頼まれるぐらいだった」

      「……それって……」

      「諦めたくないという気持ち自体はあった。誰かの役に立つ事が出来たら、自分の居場所はそこにあるんだと信じたかったから。地上で生きるデジモン達が羨ましかった。空を自由に飛べるデジモン達が羨ましかった。願いが叶うのなら、太陽の光に当たりながら生きているそんなデジモン達と同じ場所にいられる姿に進化したかった。『悪魔獣』や『七大魔王』なんて肩書きなんて、知らない誰かにまで恐れられるような名前なんて、欲しくも無かった」

      その言葉の裏に、蒼矢は自分では想像もつかないほどに暗いものを感じた。

      日の光も届かない、ただただ暗闇が広がる深海の世界。

      そこに独りで存在し、誰からも恐れられ、必要とされない日々。

       「俺も、お前と同じだよ。誰かに必要とされたかった。自分の居場所が欲しかった。その想いがいつの間にか光を浴びて生きているデジモン達に対する妬みに変わっていたからか、いつしか俺はこの姿に成った。どうしようも無かった。何もしない事が最善だと自分でも理解出来てしまうぐらいに、俺の体は暴力に特化してしまった。誰かの所為じゃなくて、自分自身の心の所為で……」

      似ている、と蒼矢は素直に思った。

      怪物の口から語られる言葉の内容が、他人事だとは思えなかった。

      スケールにこそ大きすぎる差を感じるが、この怪物の願望そのものは蒼矢が抱いているものと大差の無いものだ。

      そして終いに、リヴァイアモンはこう言ってきた。

      「……悪かった。お前がそんな嫌な気持ちになっているのも、あの人間が酷い目に遭わされたのも、全部俺がお前の中に宿っていた所為だ」

      その言葉を聞いて、蒼矢は咄嗟に首を振った。

      確かに、不幸の一因ではあったのかもしれないけれど。

      他人の不幸を望むような心を持っていたら、そんな言葉は出てこないはずだから。

      「……望んでこうなったわけじゃないんだろ」

      「…………」

      「声を聞くだけでもそのぐらいは察するよ。悪気があって僕の中に宿ったんじゃない。ただ、偶然こうなってしまっただけ。そもそもお前の力を『使っていた』のは僕で、お前自身はただ『使われていた』だけなんだから、僕が嫌な気持ちになっている事についてお前に非があるわけが無い。……責められないよ。例えお前の力が僕に宿ってさえいなければ、今の状況に繋がる事も無くもっとマシな日々を過ごせていたかもしれないと思っても……それでも、僕には責められない。むしろ、謝るべきなのは僕の方だ。……ごめん。お前の事を何も知らずに、酷いことを言って。お前の力を、お前が望まない形で使ってしまって……」

      「……そうか」

      リヴァイアモンはそれだけ言った。

      少なくとも、気休めぐらいにはなったのだろうか。

      しばし置いて。  彼は、蒼矢に向けて言葉を発する。

      「……俺にも、友達と呼べるデジモンが居た。歌を歌う事が上手くて、こんな俺とも繋がりを持ち続けてくれた変わり者なデジモンが」

      「デジモンも、歌を歌うのか?」

      「ああ、今でもあの歌声は覚えているさ。むしろ、そいつのお陰かもな。深海で引き篭もる事しか出来なかった俺が、それでも孤独をそこまで感じなかったのも。光を浴びて生きているデジモン達に対する嫉妬が、裏返せば俺が憧れているものはとてもすばらしいものなんだと信じる事が出来たのも。そんなキラキラ輝いている世界を、俺の手で壊したくなんて無いと思って我慢出来たのも」

      「…………」

      「だから、思うんだ。俺に、この憧れを捨てさせないでくれって。あの輝きに対する思いが間違いなんかじゃなかったと信じさせてくれって。……俺だって、認めたくない。あの人間がこれから死ぬなんて未来は、絶対に。だから、頼む。もし許してくれるのなら、俺の力であの人間を救ってくれないか。傷付ける事にしか役立てなかったこの力を、誰かを救うために使ってくれないか……」

      それは、紛れも無くリヴァイアモンというデジモンの願いなのだろう。

      望まざる境遇に置かれながら、望みを封じ込めねばならなかった怪物の善性を支える、一本の柱なのだろう。

      蒼矢は、その言葉を聞いた。

      その上で、こう返した。

      「……いいや、駄目だ」

      「…………」

      「さっきも言ったはずだ。僕には、傷付ける事しか出来なかった。その上、あの子を助けようと動いても、あの悪党には到底敵わなかった。ただでさえ対抗する事が出来ない状態で、救う事なんて出来るわけが無い。傷付けるだけの力だけでも、足りないんだよ。あの子を救うには足りないものがあるんだ」

      だから、と一泊置いて。

      蒼矢は、一つの言葉をリヴァイアモンに向けて力強く言い放った。

       

      「使うのでもない。使われるのでもない。僕と一緒に戦ってくれ。あの子達を救うために!! 僕一人では不可能だった事を、可能な事に変えるために!!」

       

      リヴァイアモンはしばし、その言葉を静かに噛み締めていた。

      自分に向けて浴びせ掛けられた言葉の意味を、考えているようだった。

      そして。

      やがて。

      彼は、いっそ『らしい』とさえ称する事が出来る獰猛な笑みを浮かべて、こう返してきた。

       

      「お安い御用だ。そんな眩し過ぎる願い、断るわけが無いだろう……!!」  

       

      今度こそ。  分かれていた二つの心と力は、同じ望みを得て重なる。  暗闇に閉ざされた深海の景色に蒼く輝く光が迸り、彼等は今一度変わっていく。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      (く、そ……)

      縁芽好夢は現状に対して歯噛みしていた。

      彼女にはこの状況に至るまでの仮定や事情はおろか、自分や目の前の悪党の体を変化させているモノの正体さえも見えてはいないが、それでも一つだけ確信出来る事があった。

      悪党の企みを阻止出来ていない――そう思わざるも得ない何かが目の前で起きている事だ。

      (あの……繭みたいな物は何なの……クソ野郎が一切動揺していないって事は、アレは悪党の目論見の範疇にある変化って事だろうけど……それにしたって、アレはいったい……)

      彼女の視線の先には、三つの無視出来ない要素が存在している。

      一つ目は言うまでも無く、行いからも態度からも悪党と確信出来る炎の魔人の姿。

      二つ目は、炎の魔人の前に立ち塞がった結果、魔人の脚力でもって蹴り飛ばされ致命傷を負ったと思わしき女の姿。

      そして三つ目は、そんな女の姿を見て絶叫した青緑色の半魚人が絶叫した直後、その体を覆う形で発生した赤黒い繭のような物体。

      どれもこれも、好夢の理解の外にある情報だ。

      変化の恩恵として得たウサギの耳で会話を聞く事が出来たとはいえ、事情の全てを理解する事は出来ない。

      それでも、解った事があるとすれば。

      (……あの女の人には事情があって、悪党の企みに加担せざるも得なかった。だけどあの半魚人が傷付けられる姿を見て、耐えられなくなった結果行動した。そして、ああなった。それを見た半漁人に『何か』が起きた。そしてそれは、きっと悪党の企みの中の『想定内』にある変化……)

      総評して、思う。

      (……くそっ、こんな話が現実にあるっていうの!? どう考えたって、あの女の人は半魚人の事が好きなんじゃない。それなのに、悪党の企みに加担するしか無くなるような事情を背負わされて……この分だと家族辺りが人質に取られているんでしょ。こんなの、救われなさすぎる!!)

      それほどまでの状況に追いやられながら、誰にも助けてはもらえなかった。

      悪党の思惑の外から助けに来てくれる、都合の良いヒーローは現れなかった。

      そして、あるいは悪党の『想定外』から来た自分自身こそがこの状況を打破出来る可能性を有していたのかもしれないが、明らかに自分の力は悪党を打倒するに足りていない。

      むしろ、助けるつもりが足を引っ張ってしまっている可能性すら頭に過ぎる。

      (……どうすればいいの……あの野朗の体に、あたしの攻撃は通用しない。単に殴ったり蹴ったりするだけじゃ足りない。関節技を狙おうにも、あんな体に少しでも触れ続けたらそれだけで手や足を失いかねない。そうなったら嬲り殺しはほぼ確定。せめて、体の頑丈さに関係無くダメージを与える方法があれば……)

      縋るような思いで左右に視線を投げる好夢。

      この建物が廃棄された建物である事ぐらいは、彼女も予想出来ていた。

      構造だけ見てもどんな目的で造られた建物だったのか確信を持つ事は出来ないが、空間そのものは広く作られているらしい。

      やはりと言うべきか、廃棄されているだけあって何か武器として使えそうなものは落ちていない。

      せめて、脳天にぶつけて気絶を狙えるような何かでも落ちていないか――そう考えていたのだが、

      (……あれは……)

      見過ごせないものがあった。

      それは、蹴り飛ばされて死んだように倒れこんでいる女の体の近くに落ちていた。

      遠くからではよく見えないが、黒くて硬そうな――リモコンに似た平たく長い四角の物体が。

      廃棄されているためテレビはもちろん机や椅子も無い部屋に、エアコンやテレビを操作するために使うリモコンが置き去りにされているとは少し考えにくい。

      もし、可能性があるとすれば……。

      (……スタンガン?)

      位置の関係からか電極部分が見えていないが、だとすればこれは打開に繋がる重要なピースだ。

      拳と大差無いリーチの武器ではあるが、スタンガンであれば体の頑丈さに関係無く相手の意識を刈り取る事が出来る。

      誰が、何の目的でこの場に持ち込んだのかは知らないが、あるいは倒れている女が持ち込んでいた武器だったのかもしれない。

      (……だとしたら、さっきの場面で不意討ちしなかった事が疑問ではあるけれど……家族を人質に取られている状況で、明確に『攻撃』する事は出来なかったと考えれば納得出来る。何にしても、アレは使える!!)

      炎の魔人の視線は今、赤黒い繭の方へと向けられている。

      今ならば、スタンガンを回収出来るはずだけのチャンスが残されている。

      そう考えた好夢は、建物の壁に背を寄せている体勢のまま足の調子を確かめる。

      ダメージの影響からか、想っていた以上に動作は重くなっている気がするが、それでもまだ動く事は出来るはずだ――そう信じる。

      (……頼むから、見間違いなんてオチだけは勘弁してよね……)

      駆け出す前に気付かれては阻止されかねないため、靴底が床を擦る音を立てないように意識しながら、静かに立ち上がる。

      右脚に力を込めて、念のため一度だけ視線を炎の魔人に向けて、

      (……なっ!?)

      駆け出すその直前、好夢は見た。

      炎の魔人の視線が、唐突に赤黒い繭から倒れている女の方へと向けられたのを。

      そして、魔人は歩き始めた。

      もう何も出来ないはずの女に向けて、まるでトドメでも刺しに向かおうとしているように。

      (冗談じゃない……っ!?)

      自分で立ち上がる事すら難しくなるほどのダメージを受けた生身の人間に、また人外の力によって底上げされた身体能力てもって暴力を振るわれたら、間違い無く倒れている女は死ぬ。

      いやそもそも、既に死ぬ寸前なのかもしれない。

      最早スタンガンの事も、内部でどのような『変化』が生じているのかどうかも定かでは無い赤黒い繭の事も、考えられる余裕は無かった。

      ……だとしても、直後の行動に突撃を選択したのは失敗だったかもしれない。

      「あン?」

      好夢の動きに気付いた炎の魔人が視線を向けて来る。

      風が唸るような音と共に炎の魔人が左腕を振るわれ、その動きに応じた鎖が鞭の役を担って好夢の即頭部を打った。

      鈍い音が炸裂し、衝撃に体勢を崩された好夢の体が汚い床に倒れ込む。

      「……い……っあ……」

      意識が朦朧とする。

      打たれた部分に左手で振れてみると、やけに粘ついた触覚があった。

      出血してしまったらしい。

      「……ッたく、面倒事を増やすンじゃねェよ。お前の事は後回しダ」

      鬱陶しそうな声と共に、炎の魔人が再び倒れた女の方へと歩み出す。

      あくまでも、戦闘能力を失っていない好夢よりも悪党の意向に逆らったあの女の方を優先するつもりらしい。

      「やめ、ろ……っ」

      制止を呼び掛けても、聞く耳を持つような相手ではない。

      炎の魔人は、蹴ろうと思えばその場から移動せずとも可能となる距離にまで足を運ぶ。

      いったい、何をするつもりなのか。

      何をするとしても、あれほどの悪意の持ち主が救いのある選択をするとは思えない。

      そして、その悪意の進行を止められる者がこの場には存在しない。

      (……お願い……)

      それでも、好夢は思う。

      (起きてよ、奇跡……)

      頭から血を流し、汚い床に転がりながら、無様だと自覚しながらも。

      縋るように、願って。

      (……誰か、誰でもいいから、あの女の人と半魚人を……)

      願いが届くはずはなかった。

      炎の魔人の右足が、女の体を蹴り飛ばさんと振りかぶられ、

      そして。

       

      乾いた音が炸裂する。

      だが、それは炎の魔人が自らに逆らった女を蹴り飛ばした音ではなく。

      むしろ、炎の魔人の方こそが何らかの攻撃を受け、真横の方向へと吹っ飛ばされる音だった。

      「うお……ッ!?」

      初めて、炎の魔人から驚きの混じった声が漏れた。

      その光景を眺めていた好夢でも、疑問符を浮かべざるも得ない出来事だった。

      気付けば、裏切り者の女のすぐ傍に、まったく見覚えのない誰かがいた。

      (……あれは……!?)

      その瞳に宿す色は水の色。

      体を主に占める鱗の色は、怒りの情や炎を想起させる鮮やかな赤。

      背からは幾つかの鰭と思わしき部位が生え、腰元からは先端が葉っぱのような形になっているとても長い尻尾が生えていて。

      間接部を含んだ体の各部を黄色い鎧のような外殻が覆っていて、その頭から顔は人間のような平たいものではなく前方に突き出した爬虫類を想起させるものになっていて、全身各部を覆っているものと同じ黄色い外殻が後頭部から鼻先までを覆い兜のような形を成している。

      極めつけに、右腕を覆う籠手のような形の外殻からは一本の雷のような形の刃が伸びていた。

      その、人と同じ五指の両手と獣のような逆間接に三本指の両脚が、顎の部分から胸・腹・股間・尻尾の裏側までをなぞるように生じている白い蛇腹が、竜人という単語を好夢の脳裏に過ぎさせる。

      二本足で立つその姿は、現代の価値観においても幻想的だと言えた。

      だが、そもそもこいつは何処から現れた?

      タイミングから見ても攻撃した相手からしても、好夢としては助けられたのだと信じたい一方で疑問を浮かべずにはいられなかった。

      故に、彼女は状況を確認しようと視界を左右に振ってみた。

      それだけで、全てを察する事が出来た。

      気付けば、炎の魔人が『想定内』と判断していた赤黒い色の繭が消失していたのだ。

      あの中には、悪党が身柄を狙っていると思わしき青緑色の鱗に覆われた半魚人が居たはずだ。

      その二つがこの場に見えなくなった代わりに、未知の介入者としてあの赤い竜人が現れた。

      だとすれば、どのような手段を用いたのかどうかはさておいて、炎の魔人を倒れている女から遠ざけるように吹っ飛ばした竜人の正体は――。

      (あの半魚人の体が変化……いや、進化した姿……!!)

      我ながらトンでもない回答を出してるな、と好夢は思う。

      だが、きっとそれが正解なのだ。

      赤い竜人は自らが吹っ飛ばした(と思わしき)炎の魔人の事など気にも留めず、倒れている女に向けて口を開く。

      そこから発せられる言葉を、好夢は兎の両耳で確かに聞いた。

      「……ごめん。気付く事が出来なくて……」

      謝罪の言葉があった。

      何に対しての謝罪かは、解りきっていた。

      好夢が倒れている位置からでは、女の表情も竜人の表情も見えない。

      けれど、思う。

      きっと、その一言だけで十分だったのだろう。

      竜人は次に、同じく倒れている好夢の方へと視線を投げてきた。

      「……ありがとう。そんなになるまで、戦ってくれて……」

      想いもしなかった言葉だった。

      特に感謝を求めて介入したわけではないため、こうして礼を貰うと反応に困った。

      とりあえずの判断で立ち上がろうとした所で、竜人は改めて炎の魔人の方へと向き返り、

      「後は任せてくれ。ここからは『俺達』が戦う」

      「……随分と、自信あリげな台詞ヲ吐きやガる」

      直後に、応じるように苛立ちの篭った声が聞こえた。

      一度は体勢を崩して横転していた炎の魔人は、体勢を戻して赤い竜人の姿を見据えている。

      「レベルが上がったようだが、そこで『魔王』に至らなかったンじゃ話にならねェ。同じ完全体のデジモンの力を使ッていヨうが、地の利はこちラにアる。状況が不利だッて自覚はあルか?」

      「…………」

      「つくづく思い通リにならねェ野朗だ。飽きモせずその女を守ろウと動くとはな。……やッぱ、その女の死体で手ッ取り早く『後押し』してヤるべきか。どウやら想像してイた以上に効果ガあるようダからなァ」

      ここまで、炎の魔人が自らの力を殆ど発揮していなかった事ぐらいは好夢も察していた。

      ただでさえ近付くだけでも火傷してしまいそうな程に高まっていた体温が、更に高まっていくのが空気越しにも伝わってくる。

      下手をすると、こうしている間に床さえも熱したフライパンのように加熱され続け、マトモに足踏みする事さえ出来なくなっていくのかもしれない。

      だが、赤い竜人は怯みもしなかった。

      悪意の全てを断ち切るように、その竜人は告げる。

      「さぞ」

      宣戦布告でもするように、真っ向から。

      右の手のひらを強く握り締め、拳の形を作り。

      その瞳に、抗う意思を込めて。

      「こ、もい」

      ここから先は、彼の出番。

      一人の救われない少女を救うために。

      閉じた心の扉を開き、赤き竜の戦士が立ち上がる。

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      冷静に考えて、戦闘能力を奪うだけなら簡単だろう。

      裸の上半身から青色の炎を迸らせている魔人――デスメラモンと呼ばれるデジモンの能力を行使している男は、そう考えながら、赤色の鱗に覆われた竜人――宿す力を一段階『進化』させた司弩蒼矢へと視線を向けている。

      誰がどう見ても化け物の類であろうに、倒れている女を背後に立つその姿はまるで正義の味方でも気取っているように見えた。

      (……メガシードラモンか。まァ、シードラモンから一段階上がルとするト大体そうなるだろうが……くソッ、さっサと意識ヲ落とシてしまウべきだッたか。あの女余計な真似をしヤがって……)

      その滑稽な構図に冷めた表情を鉄の仮面の裏側で浮かべつつ、魔人は眼前の標的の能力を分析する。

      今、司弩蒼矢が行使しているのが魔人の同じ『完全体』クラスのデジモンの力なのは、右腕の外郭の籠手から『生えて』いる稲妻の形をした刃の存在から考えても間違いはない。

      メガシードラモン――シードラモンという水棲型のデジモンが進化を果たす種族の一つだ。

      表の情報として知る『図鑑』の通りであれば、本来その稲妻の形をした刃は頭頂部の外郭から生えていたはずだが、これもまた人間の体をベースとした結果生じた変化の一つなのかもしれない。

      (重要ナノは、メガシードラモンに進化シた事によッて電撃ヲ使えルようにナっていルって所だ。水や氷の攻撃だけナら問題は無いが、流石にそレばっカりは受けらレねェ。いクら体が硬かロうが感電しちャァ意味ねェからナ)

      軽く予想するに、赤い竜人が自らの力として攻撃に『使う』事が出来るものは冷気と水と電撃の三種類。

      魔人の知る情報が正しければ、メガシードラモンという種族はシードラモンだった頃から使う事が出来た冷気や水を放つ能力に加え、新たに備え付けられた稲妻の形をした刃から電撃を放つ能力を獲得しているはずだ。

      氷や水の攻撃はともかく、電撃の攻撃については注意が必要だろう。

      だが、逆に言えば電撃の攻撃以外に対しては然程警戒心を抱く必要が無い。

      確かに、進化の段階の話として赤い竜人は魔人と『同じ』領域に立ったが、そもそもの問題として発揮されるスペックには明確な差が生じているはずだ。

      その理由として挙げられるのが、環境に対する適正。

      元々、シードラモンのような水棲型デジモンは文字通り水中で生きる事が基本とされる類の種族だ。

      人間の体をベースとする事で二足歩行が可能になっていようと、肉体を変化させる過程で種族の性質を宿している以上、その運動性能は水場でなければ発揮されない。

      対して、デスメラモンというデジモンは火炎型と分類されながらも人型の特徴を元々併せ持つ種族。

      陸上での戦闘、まして夏の暖気が篭る空間ともなれば好条件だ。

      今も尚、体から溢れ出る熱気が建物の中を暖め続けており、赤い竜人にとっての苦しい状況は加速の傾向にある。

      つまるところ、

      (サンダージャベリン。そレ以外の技を警戒スる必要はネぇ。そシて、ここガ水場じゃねェ以上、本領を発揮する事ガ出来ナい。オレに通用すルだけの水や氷の攻撃ガ使えン以上、刃の状態にさえ注意しとケば単ナる力のゴリ押シでも勝ツ事は容易イ)

      そう結論付け、魔人は右脚を前に出し、地面を踏みしめる。

      直後に、魔人は人外の膂力でもって赤い竜人に向けて走り出した。

      単なる一騎打ちであれば、赤い竜人にも回避という選択が出来たかもしれないが、その後ろには庇護の対象である少女が倒れている。

      一気に接近しようと一直線に走る魔人の進行を遮れなければ、どうなるかは明白。

      放つ攻撃を真っ向から受け止められたとしても、その護りごと吹き飛ばせるという確信がある。

      (充電すル暇なンて与えねェ。一撃デ吹き飛びヤがレ)

      恐れる理由は無かった。

      故に、電撃の攻撃を放てるだけの余裕も与えずに接近した魔人は、走りの勢いのままに青色の炎を帯びた右の拳を振るう。

      直後に。  ガァン!! と、まるで金属と金属がぶつかり合ったかのような音が響いた。

      魔人の放った炎を帯びた右拳が、赤い竜人の右腕を覆う形で存在していた外殻の鎧に防がれた音だった。

      鉄の仮面の奥で、魔人の目が疑問に細まる。

      防がれた――それだけならば然程驚くほどの出来事ではなかった。

      問題なのは、攻撃を真正面から受けた赤い竜人の足が僅かにしか下がっていない事だ。

      少女の体に触れる寸前で、耐え切られている。

      (……コいツ、勢いヲ付ケたオレの一撃を『受け』たッてのニ、耐エられタ、だト……?)

      根性論で説明出来る事だとは思えなかった。

      これがまだ、完全体の更に上――究極体の段階に至っているデジモンか、あるいは同じ完全体かつ重量級のデジモンの力を行使する相手であれば納得は出来る。

      だが、司弩蒼矢が現在行使しているのは『魔王』とは違う同じ完全体クラスのデジモン――それも、本来であれば手足を持たず水の中を『泳いで』活動する種族の力だ。

      陸地に『二本の足で立って』活動する事など、骨格の時点で想定出来る話ではない。

      重心の支えとなるものが尾鰭から二本足に変わったとしても、獣型デジモンほどの膂力は得られないはずだが……。

      疑問を覚える魔人に対し、拳を受け止めた赤い竜人が口を開く。

      「……さ、言ぞ……!!」

      「カッコ付け野朗ガ……ッ!!」

      言葉と同時に聞こえた火花が散るような音に、魔人は悪態をつきながら後退する。

      赤い竜人が、警戒していた必殺技『サンダージャベリン』を使うための『充電』を行おうとしていると考えたからだ。

      予想通り、鎧から生える刃に膨大な青白い電気のエネルギーが溜まる所を肉眼で確認出来た。

      充電は終わった――であれば、次に意識すべきは刃の切っ先。

      恐らく、電撃を用いた技は切っ先を向けた方向に向けて放たれるはずだ。

      知っている情報とは異なり、実際は特に狙いも定めず電気を広範囲に放射するような攻撃だという可能性も否定は出来ないが、どちらにせよ距離を取っておくに越した事はなかった。

      (電撃が届く速度なンて目で追エるモンじゃねェ。発射の予兆ガ見えタら横に動く……)

      跳躍しながら対応の方針を決め、即座に魔人は警戒の視線を向ける。

      判断そのものは、決して間違ったことではなかっただろう――しかし、赤い竜人の行動は再びそんな魔人の予想を裏切りに掛かって来た。

      赤い竜人は刃に電気のエネルギーを『充電』した状態のまま、咄嗟に後退した魔人に向かって自ら走り出したのだ。

      飛び道具では外してしまうと判断したのかもしれない――接近戦を試みようとする動きである事は明白だった。

      確かに、至近距離に近寄って直接刃を当てさえすれば、確実に感電させる事は出来るだろう。

      (――つクヅく思い通リにイかねェ野朗ダ!!)

      魔人は着地し、両の手から腕までを青色の炎で覆い、真っ向から振るって来る赤い竜人に対して対応しようとする。

      赤い竜人はまるで忍者のように姿勢を低くしたまま走り、青白い稲妻を迸らせた刃をさながら侍の居合い切りのように振り抜く。

      「グっ、おオおおオアッ!!」

      「が!!」

      再び、金属と金属が衝突したかのような甲高い音が響く。

      赤い竜人の繰り出した稲妻の刃を、魔人は青い炎を纏った右の裏拳で受け止めていた。

      強い痺れの感覚が触れた拳を通じて全身を駆け巡るが、体を覆う青色の炎が電気の通りを阻害したのか、どうにか耐える事が出来た。

      「調子に……乗ルなァ!!」

      「――ッ!!」

      感電の影響で動きが鈍りそうになるが、右の拳で受け止めた刃を強引に弾き返し、体勢を崩した所へそのまま左の拳を抉るように振るう。

      狙いは、赤い竜人の腹部にあたる外殻の鎧に覆われていない蛇腹。

      鈍い音と共に赤い竜人の口から苦悶の声が漏れ、打撃の衝撃に押された体が後退する。

      (チッ、痺れテたかラ上手ク力が入ラなかッたカ。ダが……)

      「……十分効いテるみタイだなァ?」

      「…………」

      拳に打たれた赤い竜人の腹部から、黒い煙が立っていた。

      振るう拳そのものの威力は抑えられてしまったが、その表面を覆う青い炎が竜人の蛇腹を拳の直撃と同時に焼いたのだ。

      その痕はしっかりと残っており、赤い竜人が火傷をしてしまった事は間違い無かった。

      痛みを感じているのか、その表情もまた苦いものに変わっている。

      (……意外と電撃モ耐えラレるもンだな。こンな程度なラ、わザワざ下がル必要も無かッたか)

      「あンま抵抗すッと、そノ女の命だケじゃ済まサねェゾ。こチトらそノ気になリャお前ともッと『近い』ヤツを狙ッてモいインだ」

      「…………」

      言葉に、竜人は身構える。

      そんな事をさせるつもりは無いと、言外に告げるように。

      しかしその一方で、身構えるだけで具体的なアクションに入ろうとはしていない。

      単に魔人の動きを警戒しているのか、あるいはどうすれば魔人に有効打を加える事が出来るのかを思案しているのか、どちらなのかは当人にしか解らない話だが、どちらにせよ魔人がやる事は変わらない。

      赤い竜人――司弩蒼矢の脳に恐らくは宿っていると推測されている『魔王』の力を引き出させ、その力ごと自らが属する『組織』に取り込む。

      その目的を果たす過程で何らかの形で司弩蒼矢の精神に負荷を与え、その脳に宿る『魔王』への覚醒を促さなければならず、そのためには倒れている女こと磯月波音を殺す事が現状最も有用な方法となったのだが――当の司弩蒼矢が盾になるような形でそれを妨害してくるのは、率直に言って好ましく無い流れだった。

      何故なら、

      (……洗脳すルには、悪意ヲ溜メ込ませル必要ガあル)

      そう。

      そもそもの問題として、彼の言う『組織』が用いる事が出来る洗脳という手段自体が、無条件で相手を従わせられる都合の良い方法では無いのだ。

      明確な条件が存在し、それを満たせなければまず成功しないもの。

      そして、その満たさなければならない条件の核こそが、人間なら誰しもが持ってて当たり前の感情――悪意だった。

      それは怒りや悲しみ、絶望や嫉妬のような負の念を抱くような出来事、あるいは要因と共に湧き上がるものだ。

      初対面の目で傍から見ても判るレベルで、間違い無く赤い竜人に成る前の司弩蒼矢はその条件を満たすに足りる程の悪意を溜め込んでいるはずだった。

      だが、今は違う。

      磯月波音という庇護の対象を得た事で、善悪の天秤が定位置――あるいは善性の方へと傾いてしまっている。

      こうなると、まず洗脳は成功しない。

      とはいえ、磯月波音を殺し司弩蒼矢に強い悪意を抱かせるためだけに時間を掛け過ぎると、突然乱入して来た兎耳の女のように予定外の障害が湧き出る可能性もある。

      手間を後回しにしてでも、この場を手短に済ませるべきだ。

      速やかに司弩蒼矢を一旦戦闘不能な状態にし、身柄を回収して『組織』の拠点へと向かう。

      車を用いて人気の無い建物にわざわざ寄ったのは、この一件を察知して動くかもしれないもう一つの獲物を誘き寄せ、事前に待機している『組織』の戦闘要員達の手で対応させるために過ぎないのだから。

      司弩蒼矢の身柄さえ確保出来れば、このような寂れた場所に用事は無い。

      (手負イとはいエ、縁芽苦朗ガ発揮しテいるノは魔王『ベルフェモン』の力。奴等が失敗すル可能性も否定ハ出来ねェ。サっさトこッチの用事ヲ済ませルべきだ)

      魔人は、無言で両腕の鎖を伸ばす。

      先の攻防で、竜人が取り扱う電気の力が、デスメラモンの能力で抵抗可能なものである事は理解出来た。

      現実世界においても炎と電気の関係性は未だ謎が含まれている所もあるが、デジモンが放っている攻撃が個々の属性に基づいたデータの塊だとすれば、炎と電撃という二種類のデータが互いに互いの侵入を拒み合った結果だと解釈する事も出来る。

      だとすれば、魔人はただ自らの火力を高く維持しておけば良い。

      電撃を皮膚で直接受けてしまうと痺れてしまうのであれば、燃える鎖を拳に巻き付けたりする事で間に挟んでしまえば良い。

      それだけで、赤い竜人が用いる攻撃のほぼ全てを確実に耐える事が出来る。

      ――そう結論付け、いざ駆け出そうとした時だった。

      「――――」

      赤い竜人の口元が、小声でも漏らすように動いていた。

      その視線は確かに自分の方に向けられているにも関わらず、魔人には何か別の意図を感じずにはいられなかった。

      そして、その考えは間違っていなかった。

      直後に、動きがあったのだ。

      赤い竜人ではなく、その戦闘能力から脅威を感じていなかった兎耳の女の方に。

      その端役はダメージを感じさせない機敏な動きで赤い竜人の近くに寄ったかと思えば、その後ろで倒れている磯月波音の体を速やかに両腕に抱き抱える。

      ――この場から逃がすつもりだ。

      (――チィッ!!)

      意図を読み取った魔人がようやくそこで駆け出したが、それよりも早く赤い竜人もまた魔人に向けて再び駆け出していた。

      走りの勢いのままに稲妻の刃と鎖で覆った拳が衝突し、その衝撃が音となって響く。

      その間に兎女は磯月波音を抱えたまま、建物の出口へ向かって行く。

      視線を魔人に向けたまま、赤い竜人は言葉を放った。

      !! 何れ!!」

      「頼まれたけど!! この人を悲しませたくないのなら、あなたも無事に帰って来るように!!」

      そう言葉を返し、兎女は磯月波音を抱えたまま建物の外へと出て行ってしまった。

      司弩蒼矢に悪意を抱かせるために使う予定だったモノを見す見す逃がされ、魔人は苛立ちに火力を増していく。

      「テメェ……何か口走っテルと思えバ……!!」

      「も、間だ。、例『聞て』

      至近距離で炎の熱に炙られているにも関わらず、赤い竜人の表情には微かに笑みさえ浮かんでいた。

      その表情は自分の狙い通りに事が進んだ事に対する喜びからか、あるいは苛立つ魔人に対する一種の強がりのようなものなのか。

      どちらにせよ、状況が赤い竜人の望む形に近付いている事に対し、本来悪意を抱かせようとしていた魔人の方こそが負の情を燃やしていく。

      その有り余る熱に、思わずと言った調子で悲鳴を漏らす者がいた。

      兎女の不意討ち染みた一撃によって気絶し倒れていた、魔人と同じ『組織』の一員である男だ。

      「――暑っ!! 熱ゥッ!! ちょっ、何がどうなって」

      「よウやく起キヤがったか馬鹿野朗!! さッサと逃げタ女どモヲ追いやガれ!!」

      「はぁ!? おまっ、逃げたってどういう」

      「イいカラ行け!!」

      熱に叩き起こされて早々に怒りの声で鞭打たれ、男は半ば状況も把握出来ぬまま建物の出口へと向かって走り出す。

      それを見た赤い竜人は稲妻の刃を振るう腕の力を意図して弱め、腕力に押される形で魔一から一旦離れると、口からその体積には収まらないはずの量の水を高圧で素早く吹き出す。

      しかし、魔人がその体でもって竜人の放った水のブレスに素早く割り込み、兎女の追撃に向かう『組織』の男に届かせぬようそれを防いだ。

      魔人の体に直撃した水流は瞬時に水蒸気へと変じ、その間に男は建物の外へと走り去ってしまう。

      赤い竜人は目を細め、疑念交じりの声を漏らした。

      「……二

      「笑わセンな。今ノお前如き俺一人デ十分だ」

       

      ◆ ◆ ◆ ◆

       

      棄てられた建物の中にて怪物が睨み合う。

      炎の魔人の熱気に景色が歪み、竜人の額からは汗が滴る。

      どちらの力が上かなど、目に見えて明らかだった。

       

      「いイ加減に諦メやがレ。オ前の性能じゃ俺にハ勝てねェ。あノ逃げた女共モ、追ッた仲間ガ確実に捕まえル……いヤ、そウなる前にあノ裏切り者ハ死んじマうかもなァ?」

       

      それが現実のはずだ。

      それは簡単に覆せる事実では無いはずだ。

      にも関わらず、赤い竜人は焦りの色を一向に見せない。

       

      「……何ダ、その自信。何処かラ湧いテ来ヤガる……?」

       

      思わず疑問の声を漏らす魔人には、確かな違和感があった。

      追い詰めているはずなのに、逆に追い詰められているかのような、予感が。

      それは、あるいは単純に自分よりも性能の高いデジモンの力を行使している者を相手にしたとしても感じる事が無いであろう未知の感覚だったのかもしれない。

      赤い竜人は真っ向から言葉を返す。

       

      「そし、い。だ、。不い。

      「だッタらお前ガさッサと諦めレば良かッたダろうに。無駄ニ足掻こウとした結果、アの女ハ二回モ裏切るハメにナったンだかラな」

      、事。けど、!!」

      「あノ女ニ、そンナ風に身を削ル価値があるもンか? ソもそモそレだケの力を振るエルのなラ、もット楽に幸福っテやツを手に入レる事が出来タだロウにヨ。自分かラ苦しイ目に遭ウ道を選びヤガって」

       

      事前に、司弩蒼矢が病院送りになった原因は魔人も調べて知っていた。

      トラックに轢かれる所だった少女を助けるために身を乗り出し、結果として助ける事は出来たものの片腕と片足を潰されてしまった事を。

      正直に言って、馬鹿な事をしたという感想しか思い浮かばなかった。

      仮に助けた相手が知り合いか何かであったとしても、下手をすれば死んでいたかもしれないのに。

      デジモンの力に覚醒していたならまだしも、ただの人間の体のまま行うにはあまりに無謀で愚かな行動。

      理解も共感も称賛も出来ない。

      まして今、似たような理由で身を削ろうとしているのであれば尚更だ。

      思わず、嘲る言葉が漏れた。

       

      「そンナに楽しイか?」

      「……、だ……?」

      「ヒーロー気取りガ、偽善が。他人のたメに犠牲になッて、苦しサや痛みヲ引き受けテ何になル? 世の中にハもッと楽しサを、幸福ヲ感じラレる事があルってノニ」

      「…………」

      「本当に馬鹿馬鹿しイな、お前。そンナだかラ腕と足ヲ潰されンだヨ。助けらレた奴かラ礼でモ言わレたか? そンな言葉だケで、失ッたもンと釣り合イガ取れタとでモ思ってンのか?」

      「……思

       

      意外にも、竜人は問いに対して肯定の意を口にした。

      素性も知れない相手のために失ったものは、得たものと釣り合っていなかったと。

      だが、直後にこんな言葉を発してきた。

       

      、僕た。ず、。そ、僕だ」

       

      それは、自らに対する懺悔であり。

       

      「だど、うもた。

       

      それは、誰かに対する感謝であり。

       

      「……、今だ」

       

      それが、戦う事を選んだ竜人の決意だった。

      言葉が紡がれる度に、魔人の耳が電気の弾ける音を聞き取る。

      最初、それは必殺の技を放つ予兆かと思っていた。

      しかし、よく見ると稲妻の刃にのみ溜まっていくはずの青白い電光が、刃どころか竜人の体表からも生じ始めている。

       

      (パワーヲ高めスぎテ、電力ノ制御に失敗しテイる……? いヤ、これハ……)

      「何、そら」

       

      それは、まるで電気を纏っているかのようだった。

      このような技能を有しているなど、事前に知る事が出来た情報の中にも存在しない。

      いいや、そもそもの問題として可能であると思えない。

      下手を踏めば、それは紛れも無い捨て身の手段だというのに……っ!?

       

      「テメェ、ソの電気ノ使い方ハまさカ……ッ!?」

      「助けてみせる。どんなに自分勝手でも達の力でだ!!」

       

      言葉の直後だった。

      竜人が一歩を踏み出したと思った時には、既にその体が視界いっぱいに広がっていた。

      接近して来る、と認識する間もなく肉薄されたのだ。

       

      「――ッ!!?」

       

      振るわれる稲妻の刃を鎖の巻き付いた腕で咄嗟に遮ろうとするが、構えが間に合わない。

      刃が、魔人の左肩から右腰までをなぞるように切り裂く。

      受けた傷そのものは浅いが、確かな痛みと共に強い痺れを感じさせた。

      しかし、魔人からすれば受けた痛みよりも、竜人の動きに対応出来なかった事実に対する驚愕の方が強かった。

       

      (速イ……っ!?)

       

      負けじと右の拳を竜人の顔面目掛けて放とうとするが、竜人は刃を振るった勢いを殺さず回転するように動く。

      遠心力に従い、その長い尻尾が稲妻の刃に続いて回し蹴りかのように腹部へ振るわれる。

      バチィン!! と、軽快ながらも強く鋭い音が響き、威力に押される形で魔人の体が強制的に後退させられる。

      その力強さと、動作の速さ。

      思い当たる節は一つしか無かった。

       

      (コイツ……!! 刃だケじゃネぇ、鎧にモ発電装置ガ含まレてンのか!?)

       

      世の中にはEMSという、筋トレに使われる器具がある。

      電気刺激によって筋肉を強制的に伸縮させ鍛える――基本的には肌に付ける事で効果を発揮する代物だ。

      恐らく、メガシードラモンの力を行使している司弩蒼矢の動作が急に速く、そして力強くなったのはそれと同じ原理だろう。

      元々、メガシードラモンという種族には『サンダージャベリン』という必殺技を実現させるため、頭部の外殻の内に発電装置が組み込まれているらしい。

      確かに、構造が同じであれば体の各部に存在する鎧にも同じように発電装置が組み込まれていてもおかしくはない。

      だが、もしも本当に同じ発電装置を用いている場合、今の司弩蒼矢は必殺技として用いられるレベルの電力を体に流し込んでいる事になる。

      そんなものに、筋肉は愚か内臓は耐えられるのか。

      サンダージャベリンはあくまでも、自身の生体電気ではなく『装置』という明らかに生物感の無い外付けの武装によって成り立っている必殺技のはずだ。

      メガシードラモンという、ただでさえ電気を通しやすい『海』の性質を宿した水棲型デジモンの生身の肉体そのものに、必殺技レベルの電気にさえ耐え得る性能が存在するとでも言うのか……!?

       

      (チィッ、こンナ情報『図鑑』にハ無かッたゾ!! さッキ不意打ちトハ言え吹っ飛バさレたのはアレガ原因か!!)

      「調子に乗るナよ成り立テ風情がァ!!」

       

      憤怒の形相で共に魔人は両腕に巻き付いた鎖を伸ばし振るう。

      竜人は咄嗟に稲妻の剣で鎖を弾こうとするが、その対応が災いしてか左腕側の鎖が稲妻の剣に絡み付き、その動作を封じていた。

      それを確認した魔人は絡み取った左腕側の鎖を掴み竜人の動きを封じつつ、自らの必殺技を放つために一度息を吸おうとする。

      だが、直後に竜人は予想外の行動に出た。

      稲妻の剣に絡み付いている魔人の鎖を、帯びた炎で火傷する事にも構わず空いた左手で掴み取ったのだ。

      引き寄せ、もう一方の右手にも同じく鎖を掴み取らせる。

      そして、

       

      がああああああああああああああああっ!!

       

      咆哮にも等しい叫び声が聞こえた、次の瞬間だった。

      魔人の体が、唐突に浮いた。

       

      「――ッ!! 何ッ……だトッ……!!?」

       

      その原因を、魔人には信じられなかった。

      鎖を両手で掴んだ赤い竜人が、その膂力でもって鎖を伸ばし放った張本人たる魔人をハンマー投げでもするように振り回し始めたのだ。

      確かに体に電気を流す事で身体能力を向上させている事は既に予測がついていたが、それでも体内に溶けた重金属を蓄えた魔人の体重を鎖越しに振り回せるほどに強化されているとは思ってもいなかった。

      あるいは、魔人の方も両手で鎖を引こうとしていれば膂力の面で拮抗させる事は出来たかもしれないが、足が地から離れてしまった今となっては最早手遅れだ。

      渦でも描くような軌道で魔人の体を鎖越しに頭上で振り回すと、竜人はその勢いのまま鎖を振り下ろす。

      当然、魔人の体は地面に叩き付けられる。

      その衝撃は、落着した地点に広く亀裂が生じるほどだった。

       

      「ぐ、ガァ……っ!!」

      「……ぐっ、それだけ重いんだ。自分が与えた痛みぐらい、しっかり伝わっただろ」

       

      燃え続ける鎖を掴んだ事で火傷していると思わしき両手を放し、竜人はただ事実を告げる。

      辛うじて頭から落ちる事だけは避ける事が出来た魔人だったが、それでも自らの重さをそのまま攻撃力に転換したに等しい一撃を受けて、苦悶の声を漏らす事は避けられなかったらしい。

      実際、かなり堪えていた。

      皮肉にも、それは司弩蒼矢が赤い竜人に成る前の姿だった頃と殆ど真逆の形。

      屈辱だと感じ、魔人が更なる怒りを覚えるには十分な構図だった。

       

      「仕返し、ノ……つもリかテメエエエエエエエエエエエエエ!!」

       

      体から噴き出ていた、あるいは漏れ出ていた青い炎の勢いが更に増す。

      人らしい肌色の部分も殆ど覆い隠され、炎の鎧は大気を焼き、生物が呼吸をする上で必要な酸素を奪う。

      酸素の損失は肉体的な構造が人間に近い魔人にとっても苦しさを覚える要因となるはずだが、怒りに身を焼く彼の意識はそちらの方にまで向かない。

      組織の目論見からも私情からも許し難い態度と行動を取った司弩蒼矢の希望を叩き潰す――そんな悪意が今の彼の燃料となっていた。

       

      (馬鹿ニしやガって。イイ気にナりやがッて。潰しテやル。這イ蹲らセてヤる。くソ、何でこンな事にナってンだ。奴は明確に絶望しテたはズだッてのに。同調すル切っ掛ケは作レていたハズだっタのニ。『魔王』の力ガ暴走しテ暴レたとカなラまだシも、俺ガあンな姿の力技で倒れサセらレるなンて。全テあノ女共の所為ダ。殺シてヤる。抗えナいようニした後、奴等の死体デ二度トそンな眼が出来ねェようニ心ヲ折ッてやル!!)

       

      思考は回る。

      今この状況で、司弩蒼矢の戦闘能力を奪うために最も有効で、尚且つ爽快感を得られる手段は何かと、彼の頭の中に根付いた悪意に基づいて行動が算出される。

      言葉の上では平静を装おうとしているが、現時点で竜人は最低でも両手と腹部の三箇所に火傷を受けており、それは今も尚鋭い痛みを発しさせ続けているはずだ。

      ここまで足掻くことが出来ている理由も、あくまで全身各部に存在する発電機能付きの外殻の鎧と、そこから流される電力の恩恵を受ける事で急加速的に能力を引き上げた脚力によるものだ。

       

      (かと言ッて足ハ簡単にハ狙えねエ。鎖で叩いタり縛ッたリしよウとしてモ当たラナいなラ単なル隙にしカならン。……なラ、そモソも足場を潰セばいイ)

       

      そこまで考えると、魔人は息を大きく吸い、

       

      「ヘヴィーメタルファイアーァァァ!!」

       

      直後に魔人の口から放たれたのは、青色の炎のように見える何か。

      その正体は、体内に蓄えられた重金属を溶かした、ある種の溶岩にも等しいもの。

      デスメラモンという種族の代名詞たる必殺の攻撃方法。

      鋼鉄を容易に溶かす熱を伴ったそれを、魔人は自らの足元に向けて放っていた。

      灼け溶けた重金属は、さながらこぼれ落ちたジュースのような滑らかさで廃棄された建物の硬い床に広がっていく。

       

      「――ッ!!?」

       

      それを見た赤い竜人は驚きの表情を浮かべると、すぐさま口から大量の水を吹き出し足の踏み場が奪われるのを阻止しようとする。

      だが、赤い竜人の放つ水のブレスは大量の水蒸気を発生させると共に重金属を液体から固体へと変じさせる事が出来ているものの、その行動によって青色の進攻を防ぐ事が出来るのは正面のみ。

      固まった金属の塊の左右からはその元の姿である青色の溶鉱が流れ、赤い竜人の陣地を確実に奪っていく。

      そして、魔人が青色の溶鉱を吐き出す事を止めた頃には、赤い竜人の足を付けられる場所が殆ど無くなっていた。

      左右に避け場は無く、逃げ場たる後方には建物の壁。

      魔人の周囲には青い溶鉱が流れ込んでいて、下手に切り込もうとすれば足を火傷どころか炭化させかねない。

      最早魔人自身が手を下さずとも、肉を炙り尽くす環境そのものが赤い竜人の体力を確実に奪っていき、それを打破しようと力を振るえば魔人に対して隙を晒す事になる状況。

      実際問題、熱に晒されている赤い竜人は呼吸も荒く、苦しげな表情を浮かべていた。

      火傷の痛みもそうだが、熱に体力を奪われ続け、遂に疲れを自覚してきたのだろう。

       

      (今度ハ油断しねェ。また鎖ヲ掴まレようガ、あンだけ疲労しテるなら膂力デ負けル要素も無い)

      「終わリだ。そノ鎧のカラクリにハ驚いタが、どンなに速クなッても足場が無けレば意味ねェだロ?」

       

      後は飛び道具だけを警戒しつつ、鎖による攻撃で一方的に攻撃していけばいい。

      その事実に魔人は笑みを浮かべ、自らが放った青い溶鉱の上を歩き近寄っていく。

      自らの攻撃をしっかり命中させられるように。

      赤い竜人にはこれ以上、何も有効な手を打てない事を確信している故に。

      得意とする水や冷気を用いた技を用いても、魔人の火力の前には焼け石に水でしか無い。

      これまでの戦闘の内容からも、竜人は目で見て理解しているはずだ。

      不意打ちに等しい形で魔人に対して何度か攻撃を当てる事に成功こそしていたが、それでも水を用いた攻撃だけは大して通用していなかった事を。

      その結果を見れば、冷気を用いた攻撃がまず通用しない事も察しているに違いない。

       

      「諦めロ。お前ニ味方すルもンはこれ以上誰モ、いヤ何もねェぞ?」

       

      司弩蒼矢は言葉で応じなかった。

      代わりに魔人に対して三度目の水の吐息を吹き掛けてくる。

      身体能力の強化の恩恵からか、水の勢い自体は強くなっているようだが、結局は魔人の青い炎の鎧に触れると同時に大量の水蒸気となって霧散するだけとなった。

      返す刃で魔人は炎を帯びた鎖を伸ばし、竜人の体を連続して打つ。

      竜人は稲妻の剣を用いて鎖の連撃を弾き、隙を見ては水のブレスを何度も放ち攻撃してくるが、結果は変わらない。

      やがて鎖の攻撃にも対応し切れなくなり、体から発せられていた青い電気も弱まり、遂には片膝を地に付け、息も絶え絶えな姿を晒していた。

       

      「何ナら祈ッてみロよ。誰カが助けニ来てくレる事を。どウせまタ足手纏イだロうがナァ?」

       

      悦に浸った笑みと共に魔人は存分に嗤う。

      略奪者の、加害者の、悪党の愉悦がそこにあった。

      誰が見ても、最早勝敗など決まったと思える光景だった。

      なのに、

       

      「……な、本

      「――あン?」

       

      竜人は突如としておかしな事を口にした。

      その声に揺らぎは感じられない。

      まさかと思い、女達が逃げた建物の出口の方へ振り向いてみるが、誰の姿も見当たらない。

      ハッタリか、と結論付けて竜人の方へとすぐに振り返る。

      その時だった。

       

      「アイスアロー!!」

       

      不意打ち染みたタイミングで、竜人の口から技の名前が唱えられた。

      それは、竜人が今の姿に至る前の頃にも用いていた、口の中から冷気と共に氷の矢を放つ技だ。

      同系統の種族として、進化した後になっても使える事を元々予測は出来ていた。

      だが、水の攻撃を放った時とは異なり、その狙いは魔人ではなく建物の天井に向けられていた。

       

      (……何ダ、上……?)

       

      疑問を覚え、釣られるように魔人は上方に視線を動かす。

      そこで、彼は確かなイレギュラーを目にした。

       

      「……雲、ダと……!?」

       

      廃棄された建物の、空など見えない天井。

      そこに、本来であれば空にしか見る事が無いはずの雲が形成されていた。

       

      (馬鹿ナ……雲なンてこんナ場所ニ発生すルわけガねぇ。何だ、一体何ガ原因で……)

      「驚くほどの事でもないだろ。雲なんて今時理科の実験でも作れるようなものだ」

       

      冷気を吐き出す事を止めた竜人が、疑問を生じさせた魔人に対して言葉を発する。

       

      「僕自身物理学者じゃないから詳しくは知らないけど、雲っていうのは要するに大気中に固まって浮いた水滴や氷の粒の事。熱湯から出る湯気や氷から出てくる白い煙だって、ある種の雲と言ってもいいものだ」

      「……まサ、か……」

      「確かにこっちが放った水の攻撃は確かに水蒸気になって霧散した。けど、決してそれは『無くなった』わけじゃない。お前と言う焼け石に当たった後、あの天井に『溜まり』続けていたんだ。そして、お前は頼まれなくても勝手に熱気を作り、上昇気流を生み続けていた。その体だってそうだけど、何よりこの青い溶岩みたいなものがトドメになったよ。大量の水蒸気が上がった状態で、これだけの熱気。後は冷やすだけで条件は満たせる」

       

      そのために、竜人は冷気を上方に放っていた。

      確かに、魔人の言う通り、空に存在するほどに巨大なものは発生させられないが。

      広がる範囲を建物の天井に限定させれば、局所的と言えど『雲』を生み出す事は不可能ではない。

      そして、

       

      「あば、る」

      「……ッ!! テメェ!!」

       

      竜人の狙いに気付いた魔人が攻撃をしようとする。

      しかし、その前に竜人は口から再び冷気を雲に向け、素早く吹き掛ける。

      それが最後のピースとなった。

      魔人が鎖で竜人の体を打った時には手遅れだった。

      局所的に作られた雲に大量の細やかな氷の欠片が冷気と共に放り込まれ、雲の中の水滴を強制的に冷却させる。

      数多の水滴は瞬時に氷の欠片となり雲の中を落ちていくが、それ等は途中で全て魔人が生み出した溶鉱の熱気に溶かされ雨粒となり。

      結果として、これまで竜人が放ってきた水の攻撃と、大気中に存在していた水分全てが雨という形で降り注がれる事となる。

      自然現象としての雨に比べれば大した雨量にはならないが、それでもこの場に広がった青色の溶鉱を冷やし固めるには十分な量が降ることだろう。

      文字通り頭を冷やされた魔人が、声を漏らす。

       

      「こレが、狙いダッたっテのカ……? 最初かラ、雲ヲ作るたメに水の攻撃ヲ……!?」

      「……最初からではないさ。そもそもお前が辺り一面を青く燃やすまで、打開のためとはいえこんな回りくどいやり方はやろうとも考えなかった。ただ、闘っている内に作れる条件が勝手に揃ってくれていたから利用しただけだ」

       

      確かに、天井に浮かんだ『雲』を形成するための要素は戦闘の流れで自然と生じていったものだ。

      水の攻撃から生じた蒸気と、魔人の体や溶鉱から吹き上がっていた上昇気流。

      あくまでも竜人はそこに冷気という最後のピースを放り込んだだけなのかもしれない。

      だが、足の踏み場を奪われた直後の攻撃に、電気による攻撃ではなく魔人に通用しないはずの水の攻撃を選んでいた理由が、雨雲を作り出すための意図的なものであったのなら。

      この竜人は、ずっと早い段階で天井の水気に気付いていたという事になる。

      戦闘中、頭上に余所見をするような余裕を与えた覚えは無い。

      その目で見ることなく、大気中の水分を感知していたとでもいうのか?

       

      「そンな、コんな……ゴ都合主義な事ガ……あッテ堪るカ!?」

       

      雨が降り注ぎ、場を支配していた熱気が薄れていく。

      大抵の水や氷を用いた攻撃を霧散させていた炎の力が、削ぎ落とされていく。

      どんなに協力な炎であろうと、大量の冷水の前にはその熱を殺されるのが定めだと言うように。

      焼け石に水という言葉にも、限度があると言うように。

      そして、一方で竜人は疲労し片膝をついていた様子から一変――まるで雨に活力を貰ったかのように立ち上がり、再びその身から青白い電光を迸らせる。

      静かに、告げる。

       

      ……終わらせるぞ

      「もウ勝っタ気になッてンじゃねェ!! たかダか雨ヲ降らセた程度デいい気ニなりヤがッて!!」

       

      竜人の言葉を断ち切るように魔人は叫び、再び必殺の技を放つため呼吸をしようとする。

      しかし、その前に赤い竜人は魔人に向けて左手を翳し、次なる言葉を紡ぐ。

       

      メイルシュトロームッ!!

       

      まるで呪文のような言葉が発せられた直後だった。

      建物の内部に降り注ぐ雨粒や、充満する蒸気――そういったこの場一帯の水気の全てが一つの水流と化すように渦を巻き、横向きの水の竜巻へと変じて魔人の体を一息に飲み込んだ。

      それは本来、水中戦でしか使えないはずの技だった。

      自らの意思でもって海流を操作し、荒波や渦潮を作り出す――メガシードラモンという種族が用いる事の出来るもう一つの技。

      ……そのカラクリを、あるいはかつて司弩蒼矢と闘ったお人好しの男であれば即座に看破出来たかもしれない。

      辺りに存在する全ての水――その性質を海水のそれへと一斉に変化させ、メガシードラモンの『海流』を操る技の条件を強制的に満たさせたのだと。

       

      (馬鹿、な……ッ!!)

       

      水の竜巻に飲まれた魔人はまるで身動きが取れず、何とか地に足を着けて流れに抗おうと踏ん張るのが精一杯な状態になっていた。

      体から炎を吹き出し、竜巻を構成する水を霧散させようと試みるが、それも失敗する。

      一方で赤い竜人は水の竜巻の中へと自ら飛び込み、そのまま流れに身を任せ魔人に向かって突撃する。

      全身から雷光を輝かせ、稲妻の剣を正面に構え、さながら敵を貫く一本の矢と化す。

      最早、魔人には回避する事も防御する事も出来なかった。

      故に、それこそがこの闘いに決着を着ける一撃だった。

       

      (ヘ、へヴィーメタル――ッ!?)

      「ストアーォ!!!!!」

       

      稲妻が轟き、悲鳴すら掻き消えて。

      魔人の意識は、暗闇の中に沈没した。

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    • #3834

       サロンではできなかった文字表現。リヴァイアモンと一つになっていることが視覚的にもわかりやすくなっておりました。チェスマーリモ。
       マトリクスエボリューションはデジモンにおいて鉄板ですが、他に個体として存在する成長期のパートナーと一つになるのではなく人間が己の内に宿る究極体と意思疎通を図って完全体へと至る逆転現象にこそ激燃え。噛ませの殿堂とでも言うべき台詞の一つ一つが敗北への階段を駆け上がっていくデスメラモン氏の勇姿も忘れちゃいけない。それはそうとデジモン化した義妹は勿論、デスメラモンの蹴りで上半身と下半身が両断されなかった波音女史硬い。恐らく鋼の腹筋を持っている。
       リヴァイアモンと呼応するようにベルフェモンとしての苦郎の戦いも描写されましたが、ウィルス種だからこそ毒を打ち込む能力はあるが解毒することはできないという解釈が面白くて素敵。あと両者共に『嫉妬』『怠惰』という属性こそが人間としての心情や行動にまで影響を及ぼしているという形で作劇に活きているというのが面白いですね。
       なお肝心の主人公はメチャクチャ青臭くカッコいいこと言った後は毒に悶えるのみ。何故だ!!
       
       雑賀も好夢チャンも覚醒しても絶望的な戦力差(既に完全体がポンポン出てくる……)の前に喘がされるしかないという点で世界観というか作風がシビア過ぎるぜ!

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