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トピック
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春は火事の多い季節だ。乾燥した空気とか、未だ残る寒さとか、冬の残したあれこれを燃やさなきゃいけない事情が、世界をそうさせる。この街の冬は長いから、私たちの方でもちょっと頑張らないと終わってはくれないのだ。
私が高校に入学してすぐの5月にも、街には消防車のサイレンが鳴り響いていた。また誰かが、冬を終わらせようと火を焚いてしくじったのだと思った。
消防車がどこに向かうのかなど知らなかったが、階段をあがる私が目的地ではないことだけははっきりしていた。私は確かに冬を終わらせることに失敗したかもしれないが、火事に見舞われるようなことはあり得なかったから。
中学の同級生が数人しかいない県一番の進学校に入学しても、たとえ春の陽気に誘われて、自分の人生で一番くらいに浮かれていたとしても、高校でいきなり友達ができるわけではない、その事実を私はこの一か月で嫌と言うほど思い知らされていた。
新入学生の約半数は高校の近くにある大学付属の中学から進学してきた生徒で、入学式の時点で既にグループが出来上がっていた。もちろん新しい友人を作っている生徒も少なくなかったが、私にはその方法は分からなかった。きっとフリーメイソンの握手のような秘密のサインがあって、それを私だけが知らないのだろうと思った。
クラスのLINEグループには、人の良さそうな女子生徒がなにかのついでみたいに(というか、実際誰かのついでだったのだろう)声をかけてくれたおかげで入ることができた。
そこではだれが言い出したわけでもないのに皆が自己紹介をしていて、私も自分を有効に売り込むための文面を3日をかけて考えたが、ようやっと思いついたころには私以外の生徒はすでに希望する部活の話や教師のあだ名の話で盛り上がっており、今更自己紹介などできる雰囲気ではなかった。
そうして、私の長い一か月はすぎた。冬を燃やすためのマッチを擦りはしたがいっこうに火がつかず、すべてを諦めたような格好で、これでは火事も起きないが、体を温めるすべもない。体には雪が積もり、心臓の鼓動はだんだんとゆっくりになっていった。
いつのまにか、世界は5月を迎えていた。私以外の世界が、私の知らないやり方で春を迎える中、部活動の仮入部期間が始まろうとしていた。●
部活動はよほどのことがない限り強制参加だったから、私も放課後の居場所を決定しなければいけない。嫌々あちこちの見学をしてみたりもしたけれど、なにをする気も起きなかった。
理由は明白で、私は本当のところは文芸部に入りたかったのだ。中学2年の時にオープンスクールでこの高校を訪れた時に文芸部を見て、私もこの部活で文学三昧の三年間を送ろうと決めてしまったのだ。
しかしいざ入学したころには当時在籍していた生徒は全員卒業するか退部してしまっており、文芸部には誰もいなかった。聞くところによると、美術部と掛け持ちする生徒が多かったものの、熱心だった3年生が卒業した後誰も部長をやりたがらず、自然消滅してしまったのだという。
元々文芸部など無いのであればあきらめもつくが、あると思っていたのを取り上げられたのでは、信念を曲げて他の部活に鞍替えするのもなんとなく癪だ。そういうわけで、私は入部届の提出を締め切りの二日後まで渋り、担任に呼び出される羽目になってしまったのだ。「文芸部がよかったなら言えばいいんだ」
世界が終わるみたいな顔で事情を説明した私に、担任はあっけらかんと言った。
「3年生が卒業したばかりだし、入部希望者がいるなら部の存続は認められるはずだよ」
そんなわけで、新入生の部活動が本格的に始まる初日、私は職員室で借り受けた文芸部室の鍵をもらい、まだ行ったことのない4階への階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。
わくわくしていなかったと言えば噓になる。たった一人の文芸部。本の匂いの沁みついた、私だけの部室。
いや、私だけではないのか「スペースの関係で、文芸部室はパソコン部室と共用だ」と担任が言っていた。本棚で仕切ってるとかなんとか、意味の分からないことを言っていたので半分は聞き流してしまったけれど。
とにかく、そこは私の高校生活の舞台として十分なものに思えた。一人だけで部を始めることは、青春という名前のむき出しの戦線からは事実上の撤退を決めることになるが、それで別にいい。冬を抱え込んで3年間を送るのだって、また文学じゃないか。
そんな風に胸を躍らせながら階段を上り切り、廊下の端の部室の扉を認めた私の足は、そこではたと止まってしまった。「来たわね、フゥ!」
扉の前で仁王立ちする少女の影。背が低いせいでまったく様になっていないが、それでも、流れるような銀色の髪と、左目の黒い眼帯は目を引いた。
アン・ドゥ・トロワ。考えるよりも先に足が勝手に回れ右の動きを取る。しかしその少女が慌てて私の手首をつかんだことで、逃亡の試みはあえなく失敗した。「ちょちょちょっと、逃げないでよ、薄情ね!」
「は、離してください」
「安心なさい、別になにもしないわ! ただ、同志が来るのを待ってただけよ」
「同志……?」私は唖然として相手の顔をまじまじと見る。端正だが不審、目立ちはするが悪目立ち。どこか浮世離れしたその少女と自分とに、共通点はまるで見いだせなかった。
「人違いでは……?」
「何言ってるの! あなたフゥでしょう?」
「違います」
「ニシジマフーコだから、フゥ。私がつけたわ」怖い、本名を知られているのも、勝手にあだ名をつけられているのも、当たり前みたいにそのあだ名で呼んでくるのも、何もかもが怖い。いちおうここは学校なのだし、大声を出せば誰かは助けに来るだろうか。いや、まだ部活の時間にもなっておらず、4階にひと気はない。
「あ、あの、あだ名は分かったんで、私はこれで」
「何言ってるの、文芸部に入るんでしょ?」
「なんでそれを……」
しまったと口をふさいでももう遅く。目の前の少女はにんまりと笑みを浮かべた。「それなら、これから3年間、一緒に部活する仲間よ」
「あ、ちょっと……たった今気が変わったかも」
「いーいから! 来て! 鍵ももう開けてるんだから!」私の言葉を無視して、レインと名乗ったその少女は私の手を引く。その細い手首からは想像もつかないほど強い力に、わたしの体は、くん、と引っ張られた。
文芸部室の扉が開く。どこからか吹いてきた春風が顔に吹き付けて、なんだかめまいがした。●
「アポカリモン、アポカリモンね」
自らの真の名を下の上で転がすように何度もつぶやき、雪代先生は朗らかな笑みを浮かべる。それは学生時代のわたしたちに向けられていた優しい笑顔と寸分たがわないもので、私はなんだか自分が台本のセリフを1ページ間違えたような、とんでもなく馬鹿なことを言っているような気分になった。
「その名前にたどり着いたということは、レインさんが全部しゃべったのかな」
そんな私をよそに、雪代先生はこの状況が面白くて仕方がないというように話を進める。
「いや、あれにそんな正気は残されていないはずだ。この学校に残留した過去ログの一部――残留思念とでもいうべきものを垣間見たんだろうね。やられたよ。ハリボテに下手に歴史なんか与えようとするとロクなことがない」
「じゃあ、先生が」タイヨーが声を絞り出す。何か言いたいことがあるというよりは、これ以上先生のセリフを聞いていたくないという思いがとらせた行動のようだった。
「あんたが、全部仕組んだのか」
「買いかぶりすぎだよ。僕がしたことと言ったら、デジタルワールドが滅びたことで役目を失った管理システムをハックしたことくらいだ。僕にとっては世界を滅ぼした時点で目的は達成されているし。それから先の世界は別にどんな形でもよかった。この世界に指向性があったとしたら、それは全部東宮くんが望んだことだ」
「あんたがクモリをだましたんだろ!」
「あのエリスモンがそう言った? あれで根に持つタイプだからね。人間未満のパートナーに二度と関わらなくてもいいように世界の裏側に放り出してやったっていうのに、途方もない時間をかけてこの学校を見つけ出した」喜劇の笑いどころで観客よりも先に噴き出してしまう下手な役者のような不快さで、彼は言う。
「マジな話、最初にここに来た時のレインさんは、感動の再会に目をキラキラさせてたよ。元相棒は自分の過ちの象徴なんか見たくないっていうのにさ。君たちにも見せてやりたかったけど――」「レインのことを」私は言う。「レインのことをバカにするな」
声は自分で思ったよりもずっと落ち着いていた。これまでの人生のどの瞬間とも比べようがないくらいに、私は怒っていた。おお怖い怖いとでも言いたげにオーバーな身振りを見せる雪代先生を、私はにらみつける。
「それで? 僕からこの世界についての授業を聞きたいんじゃなければ、何をしに来たの」
「決まってるだろ。本棚を倒して、クモリを助ける」タイヨーのセリフに、雪代先生は首をかしげる。
「急に友情を思い出したのかい? この10年間、一顧だにしてなかった同級生に?」
「それは、お前が俺たちの記憶を――」
「記憶を全部覚えてたら、キミたちはずっと友達だった? 大学にいっても社会人になっても、誰が成功しても、誰が挫折しても連絡を取り合って、たまには一緒に飲んだりとか?」
「勝手なこと言うな。俺たちは――」
「ムリだね。僕は君たちから奪った記憶の内容を承知してるけど、はっきり言ってロクなもんじゃないよ。クソガキどもの友情に何度も企みを阻止された立場で言うけど、キミたちのアレは〝友情〟とは言えない。同じ時間、同じ場所にいただけだ」
「お前――!」叫び声をあげるタイヨーに向けて、先生は右手をかざす。その瞬間、彼につかみかかろうとしていたタイヨーの足が、何かにからめとられたかのようにびたりと止まった。タイヨーの目に驚きの色が浮かぶ。
「何をしたんだ!」
「そうわめかなくていい。もとよりただのプログラムと会話なんかしたくないんだ。そのことは承知してるんだろ? 自分が人間未満だってことだけど」見え透いた、けれどどんな絶望よりも重い挑発。当事者ではない私でさえ、頭にかあっと血が上る。しかしタイヨーは、動けない彼の代わりに怒りを行動に移そうとした私を右手で制した。
「言ったろ、フゥ。俺が何者かなんて、この際どうでもいい。すくなくとも、こいつに何か言われる筋合いはない」
「いいや、それは違う。〝筋合い〟ならあるよ。君が今そこで生きたフリができてるのは、僕とクモリくんの取引のおかげなわけだし。それに――」そこまで言って、先生はまたくつくつと笑い、私の方を向く。
「――ねえ、レインさんはタイヨー君のことをどう説明した? クモリくんのループの中で発生したバグ」
「……あんたもそう言ってたのを見たよ。だから、タイヨーを守るために、クモリくんは閉じこもることを選んだ」
「ああ、たしかにクモリくんにはそう説明した。その結果、彼はそのバグを守るために、じぶんを封印する契約を僕と結んだ」でも、事情はもうちょっと複雑なんだよねと、彼は化学基礎の授業の時と同じように指を立てる。
「僕は〝選ばれし子ども〟を倒してデジタル・ワールドを滅ぼした。でも、別に世界を滅ぼしたからって、次の世界のカミサマになれるわけじゃない。管理システムは誰もいない世界の恒常性とやらを守るために休眠してしまって、世界運営の権限も実質的に凍結されてしまった。向こうも行動を起こせないが、僕も身動きが取れなくなってしまったわけだ」
でも、ボクはラッキーでさ。彼はそう語り続ける。何も聞きたくない気持ちと同じくらいかそれ以上に、すべてを聞かなくてはいけないという気持ちがあった。
「でも僕には、いちど僕の口車に乗って世界を滅ぼしてくれた〝選ばれし子ども〟がいた。たとえ大ハズレでも、管理システムが自ら選び、権限の一部を委譲した存在だ。試しに彼の望む形に世界を作ってみたら、あっけないほど簡単に町も、人々も動き出した。限られた時間をループさせるっていう条件も、壊れた世界には都合がよかったんだろうね」
両親の顔が、クラスメートの声が、頼んでもいないのに私の小説を評価してきた年上の男たちの言葉が脳裏をよぎる。それらすべてが電子情報に過ぎないという事実は、私に希望も絶望も与えてくれなかった、ただのっぽで重い色のコートを着た男のようにそこに立って、ときおり山高帽を直しながら私をじっと見つめていた。
「で、その〝選ばれし子ども〟はある時世界に生まれたバグに感情移入して、彼のためならもう世界はいらないと言い出し、僕と契約した。〝選ばれし子ども〟が納得ずくの上で世界を譲渡したことで、この世界は完全に僕のものになった。実に都合のいい偶然だ。不可能を可能にしてくれたバグは、僕にとってはまさに救いの神だね。で、ここからテストなんだけど――」
それじゃあ、フゥさん、と彼は手で私を指す。
「問1、僕は本当にただ待っていただけだったのかな? 〝選ばれし子ども〟がこちらに世界を明け渡したくなるように、少しの工夫もしなかったと思う?」
その言葉に、タイヨーがはっと顔を上げる。
「そして問2、――タイヨー君みたいな、僕にあまりにも都合のいいバグが偶然生まれるなんてこと、本当にあると思う?」
答えはあまりに明白だった。でも、その答えはあまりに残酷で、私の喉は上手に言葉を形作れなかった。
「残念。時間切れ。正解は――僕は偶然なんか待たなかった、でした! タイヨー君はクモリくんの友達になってもらって、いずれ人質にするために僕が作った端末。それを知らないまま大人になって、今はそこで友達を助けると息巻いています。で、当たり前の話だけど――」
彼がぱちりと指を鳴らす。瞬間、私の隣でぼとぼとと何かが床に落ちる音がした。
みれば、無理やり引っこ抜いたフィギュアのパーツのように、タイヨーの頭が、右腕が、左腕が、胴体が床に散らばっている。足だけが床に縫い留められ、かつてそこにあった固い意志を伝えていた。
雪代先生は、彼の方を見ることすらしない。「僕が話をしたいのは人間――つまりはフゥさん、キミだけなんだよね」
私が上げた悲鳴すら聞こえなかったように、こちらを見て、柔らかな笑みを浮かべた。
●
「俺は行くよ、フゥはどうする?」
「え、その、いや、え!?」雪代先生と対峙する少し前、私たちに「本棚を倒して」とだけ言って消えたレインを見送った図書室で、タイヨーはあっさりと、俺は行く、と言ってのけた。あまりにこともなげに放たれた決意の言葉に、私が動揺してしまったのも無理はない。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて」
「慌てるに決まってるでしょ。タイヨー、アンタ、レインに言われたことの意味わかってんの!?」
「この世界は電脳空間で、俺は人間じゃなくて、クモリは俺を生かすために身代わりになってる、で合ってるよな?」
「意味わかってるじゃん……!? だったらもうちょっと慌ててよ!」私は理不尽な怒りをタイヨーにぶつける。この状況で彼が平然としていることに、無性に腹が立った。
「クモリくんのことも、レインのことも、私はすごく悲しかったし、戸惑ったし、同じくらい怒ったよ!?」
「でも本棚を倒す、だろ」
「だとしても、そんな平然とされてたら、私が困る! クモリくんはあんまり喋んないし、レインはレインだし、タイヨーだけがギリ考えてること分かる相手だったのに!」
「もしかして、寂しいのか?」
「理解しても口に出すな! ムカつく!」胸に沸いた怒りを吐き出しきって、私は肩で息をする。そんな私のことを見つめ、タイヨーはぽつりと口を開いた。
「俺もそうだ」
「は?」
「俺も、寂しかった。レインの話を聞いた時に」
「寂しいって、アンタが……?」彼は真顔で頷く。
「だってそうだろ。俺たちは、高校の思い出をほとんど忘れてた。クモリとレインが覚えてて、俺たちが覚えてないことがたくさんある」
「……」
「クモリにはめちゃめちゃ怒ってる。言いたいことも山ほどある。会ったら殴るかもな」
「それはダメ」
「……言ってみただけだよ。とにかく、俺は話さなくちゃいけない。アイツらとの高校生活を忘れてしまって、クモリは途中で消えて、レインは勝手に成功して、俺がどんな気持ちだったか」
「……」
「人間じゃないとか、世界がどうとか、どうでもいいんだよ。納得いかないことは別にある。納得いかないことだらけだ!」彼の頬を涙がつたう。彼はそれにも気づいていないようだった。
「クモリにも、レインにも、お前にも、俺はなんとなくうまくやってるみたいに思われてんのが気に入らない。思い出がなくても、生きて行けるって思われてるのが。そんな奴いない。俺はあそこにいた。俺もあそこにいたんだ」
「タイヨー……」
「大体、どうして‶栞〟を思い出すのがフゥだけの役目なんだよ!? 俺はどうすりゃいいんだ? フゥの話を聞いて、そんなこともあったなってヘラヘラしてりゃいいのか!? 懐かしいとか、言ってれば――『懐かしい』じゃ、すまないだろ!」タイヨーのその声が、図書室の空気をびりびりと震わせた。彼は私の目をじっと見つめる。こんなふうに誰かの目を見たことはこの10年、一度だってなかった。
「――俺は本棚を倒す。フゥはどうする?」
●
「――先生が何を言ったって変わらない。私の気持ちもタイヨーと一緒だ。本棚を倒す。その先にいる人に、言わなきゃいけないことが、山ほどある」
「分かるよフゥさん、君は彼を憎む権利があるだろうね」
「そういうのじゃない!」
「じゃあどういうのだい?」
「先生には言えないことだよ。そういうの、あるでしょ」私の言葉に、雪代先生はくつくつと笑った。
私は不思議ともう腹を立てていなかった。隣に散らばるタイヨーの手足の存在が、どういうわけか私に安心感を与えていた。彼は確かにそこにいて、私とおんなじくらいぐちゃぐちゃの心で、そうだそうだと言ってくれていた。「それなら、僕は僕の話したいように話すよ。トピックは一つだ――君と取引がしたい」
「先生は取引でズルをする。さっき自分で話してくれたでしょ」
「キミはクモリくんと比べたら大分マシな人間だし、それ以外の人間未満とは比べるべくもない。実際、僕は同情しているんだ。クモリくんからの一方的な好意のせいで、君の高校生活はあの部室に押し込まれた。もっとマシな人生が、君にはあったはずだ」先生の周囲の虚空がとぷんと歪み、そこから二重螺旋の鎖が数本伸びる。そのうちの一本は途中で無残に砕けていた。彼はその鎖をいとおし気に指でなぞる。
「これが君の人生。立派な夢を抱いて、それを実現する力もあったのに、時間の使い方も、共に過ごす人も、全てを間違えた。簡単なことを難しくしてきただけの、もうすぐ30年になる人生だ」
なにかを言い返したかったが、悲しいことにぐうの音も出なかった。
「諦めずに続ければ、ここから先40歳とか、50歳とか、60歳で作家になれることもあるかもね。でも、キミはそれじゃあ足りないだろう」
小説書きとしての私は21歳で死んだ。この10年、無理やり小説を書くためになんども頭の中で繰り返し続けた独白が、頭の中でぐわんぐわんとこだまする。「キミの親友は21歳でデビューして、誰もが憧れる存在だ。キミが無理やり書いた小説がたまたまハネたとしたって、本当の意味で夢をかなえたことにはならない。自分がとっくに空っぽで、何者でもないことを、誰より君自身が知っているからだ」
だから、彼は砕けた鎖を指で弾くと、周囲の、もっと長く太く伸びた鎖たちを指し示す。
「だから、君に別の人生をあげるよ。幸い、デジタルワールドを意のままに運営したいという僕の願いとキミの願いは干渉しない。僕の世界で、君は生きたいように生きられる。大作家の夢にもう一度高校生からチャレンジしたっていい。夢を変えたっていい。気に入らなければ何度だってやり直せる」
その鎖の一本一本に、私が重なって見えた。名のある作家になって、平積みにされた自著を眺める自分がいた。気鋭の作家として「ダ・ヴィンチ」のインタビューに載る自分がいた。地元を代表する作家として、小銭をもらって母校で講演会をする自分がいた。レインやタイヨー、クモリに尊敬され、個室居酒屋で思い出を語る自分がいた。「あの頃があったから今の私がいる」と、そいつは幸せそうに話していた。
「それから、これが一番重要なんだけど――」
先生はあくまでも朗らかに、昔通りの、生徒をいたわるような調子で、最後の一言を告げる。
「――夢なんか追わなくたって幸せになれる。キミは、そういうのが一番向いてるよ」
その言葉と共に、一本の鎖が鋭く私に延びる。白熱する鉄の塊が、確かに私の胸を貫いた。
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「西島さんの作品、書くためだけに書いてる感じしますよね。小説で表現したいこととか、ないでしょ」
24歳のころ、飲みの席で2歳年下の作家志望の男の子から言われた言葉だ。彼はその数年後に故郷の小さな出版社の文学賞を取った。大きなヒットこそないものの地元色を打ち出した作品で愛され、ラジオやテレビのローカル番組に引っ張りだこだという。
その言葉に、私は何を言い返しただろうか。多分へらへらと、そうかもね、とか言ったんだと思う。それから何年も、ふとした時にあの言葉がフラッシュバックして、頬が熱した鉄のように熱くなった。
腹が立つのは、それがあまりに図星だからだ。20代の私の作品を貫いていたレインへのコンプレックスと言う地獄すらも作り物。どんなに馴染んだと思っていても、読者には見抜かれてしまう、偽物だった。書く理由がないなら、書かなくたっていいんだ。胸を貫くあたたかさが言った。
書くことは、あなたを一度だって助けてくれたか?
そういう瞬間があったとして、それは最初の数度でしかなかったんじゃないか?
あなたを救ったのは書くことそのものではなく、その成果物への他者からの承認ではなかったか?
「だったら」私は言った。「やめてもいい、やめればいい」。
そうだ。30代を前にして夢なんてものを追ってる奴の方が少ない。みんな子どものころには望んでいなかったような仕事をして、日々をなんとなく幸せに過ごしている。
夢をかなえたとのたまう連中だって、よっぽど立派な例外を除けば、大体は人生のめぐりあわせでなんとなくうまくいったのを「昔からの願いだった」と思い込んでいるだけだ。
それは悪いことか? 否。むしろ、そんな変わる日々が、生活のすべてこそが尊いんじゃないか。「みんな、そうやって大人になるんだ」と、私は言った。
私の周囲に無数の映像が流れる。それは高校生のころの思い出だった。私の前で、それらは急速に、温かなセピア色を帯びていく。やがてそれら一枚一枚がフィルムとなり、古い映写機のカタカタという音とともに回りだす。
そこに映されるすべてが懐かしくて、私の口角が上がる。その一コマ一コマを肴に、何時間でも友人と話せそうだった。
そう、旧友。私の懐かしい日々と、ともにあった――。●
「読みたかったのに」東宮久守が言った。
「ずっと、忘れないでいような」松北陽太が言った。
「──アタシが、いつでも助けに行くわ」南潟レインが言った。
「だから、私たちは物語を書いてるんでしょう」
そう、言ったのは――。
●
「……驚いたな」
雪代先生がつぶやくのが、遠くで聞こえた。
「キミは〝これ〟に、耐えられないと思ってた」
「耐えるとか、耐えないとかじゃないって」意識がだんだんと現実に浮上する。先ほど私を貫いたはずの鎖、安穏とした私の人生の可能性は、私の胸の少し手前で砕けていた。
「こんな人生、私は送れないってだけの話。こんな人生を送れる奴は、私じゃないってだけの話」
「夢追い人の割には、可能性ってものを軽視した発言だね」先生は言葉を連ねる。そのふるまいは私を説得するためというよりも、私がこの場でひざを折らないことにどうしても納得がいかないからのように思えた
「キミは自分を自分で縛っているだけだ。簡単な話を、わざと難しくして――」
「そうした人間にだけ、見えるものはあるよ。私はそれを書く」
「それは、キミの初期衝動とは何の関係もない。人生を腐らせる菌みたいなものだ」
「そうかもね。腐るかも、ゾンビみたいに歩いて、皆から嫌われるかも」
「キミはそれでもいいと――」
「いいとか、悪いとかじゃない!」私は叫ぶ。答えはもうとっくに決まっていた。
何者にもなれないなんて、贅沢な、文学的な悩みを語ることは、私にはできない。だって、何者でもない私には、たしかに立っている場所があった。ツギハギでも、何度も思い出す記憶があった。「私が、私でいられない人生なんか、ぜんっぜんほしくないんだ!」
その瞬間、私の目の前にノイズが走る。紫色の稲妻が走り、私に迫っていた二重螺旋の鎖が砕け散る。
そして、その破片たちが私の前で、新たなラセンを描き始めた。「螺旋の、乗っ取りだって? ――ラセンモン、か。」
雪代先生が口の中で呟き、焦ったように声を張り上げる。それと同時に白衣の背中から伸びる無数の鎖は、たとえ話のためじゃない、身を守るためのものだ。
「悪いことは言わない。よすんだ。レインさん――エリスモンは報われない無数のループと、これまでも戦いのせいで、心も体も限界だ。その紫の光が証拠だよ」
「レインは、来るよ」
「仮に形を取ることができて、来たとしてもだ、クモリくんの時と同じ。狂ったバケモノになって、キミを殺すだけだよ」
「……先生さぁ、なんも分かってないじゃん」喉の奥から笑いが漏れる。
「〝狂ってる〟って――それ、誉め言葉だから!」
その言葉と同時に、目の前に現れるのは、紫の体色に包まれたヤマアラシの怪物。ジレンマと果ての見えない螺旋を抱え続けた、私たちの時間を抱えた獣――ラセンモン。
懐かしめるほどに、遠くから見て安心できるほどにキラキラしていない。でたらめな日々。負の感情でいっぱいいっぱいだった、あの時間。
そこに、今も私は立っている。「レイン!!」
「やるよ、フゥ!!」でたらめな日々、がむしゃらに描いた、絶望の渦。
私の、私たちの――。「――イ長調の季節(デスペレイト・ボルテックス)!!」
私たちのラセンが、無数の鎖を砕いた。
●
「ん……う……」
「さっさと起きて、タイヨー」
「んぐっ!?」意識を取り戻し、むにゃむにゃ言い出したタイヨーのみぞおちを私は軽く小突く。手に伝わる温かさと苦しそうなうめき声が、彼の生存を証明しているようで、私はうれしかった。
「良かった……」
「良くねえよ、殴んな! ……って」タイヨーは周囲を見回し、それから自分の体を見る。廊下に残された戦闘の後と、ぼろぼろの白衣を見に纏って意識を失っている雪代先生。そして五体満足な自分の体を見て、ある程度のことは理解したらしい。
「……勝ったのか」
「みたい。レインが力を貸してくれた」
「レインは……」
「消えちゃった、んだと思う」レイン――ラセンモンはその場から消えていた。これまでもあった現象だったけれど、先ほどそばで彼女の死力を尽くした攻撃を見たからこそ、次はもうないと、そう確信している自分がいた。
「……そうか」
タイヨーはぽつりとそれだけつぶやくと、今度は自分の手に目を落とす。
「俺が元に戻ってるのは……」
「集めてくっつけたら元に戻った。念のため言うけど、相当キモかったよ」
「ひ、ひっでえ……」ぶつぶつと文句を言いながら、タイヨーは両手を床について立ち上がる。先ほどつなぎ合わせた継ぎ目がぶれることもなく、彼の体は正常に機能しているようだった。さらに確認をするように手足を数度動かして、彼は頷く。
「……これなら、いける」
「良かった。私だけの力じゃ、心もとなかったから」
「そう言うなって、頼りにしてるぞ」そう言いながらタイヨーは一つ大きな伸びをして、私の方を向いた。
「それなら、行くか」
「ま、待って」本棚を倒しに。そう言おうとしたタイヨーを、私は遮る。
「なんだよ。もう他にないだろ」
「……そうでもないかも」私は大きく息をついた。正直、今日下したどれよりも勇気のいる決断だった。
「私、やらなくちゃいけないことがある」
●
「そんなんだから、友達できないんじゃないのよ!」
文芸部室の扉を開けた私たちの耳に届いたのはレインのそんな言葉と、それに続く冷たい沈黙だった。ううん、やっぱり今聞いても腹が立つ。
ドアの外からは吹奏楽部のホルンの音が、パソコン部側にある窓からは春の爽やかな風が吹き込む。――つまるところ、私たちはあの日の部室にいた。
見れば、レイン――私たちの記憶の中にある、あの日の南潟レインが、本棚の向こうに向けて必死に呼びかけている。
「な、なんでレインさんに、そんなこと言われなきゃいけないのさ」
本棚の向こうから、クモリの声がした。あの日は一瞬それが彼の声だと分からなかった。クモリが声を張り上げることなんてなかったから。
「レインさんは、僕のこと何も知らないくせに。そんなことを言われたら、傷つく」
何も知らないくせに、その言葉は、あの日のレインにどのように突き刺さっただろう。彼女は高い本棚の壁の前で呆然と立ち尽くす、その頬を一筋の涙が伝う。
「そうやって、そうやって壁を作ってるのがいけないんでしょ!」
その様子を見ていたら、あの日レインが言ったセリフが、自分の口から飛び出していた。本棚の向こうで、3年間感じ続けていた気配がびくりと振るえたのが分かる。
「フゥさん……!?」
「私たち、こんなに近くにいた! 私の言ったことでクモリくんが笑うと、なんか無性にうれしかったし、ちょっとでもクモリくんのことバカにしたやつのことは、他がどんなに良くても死ねばいいって思った! ――私たち、すっごく近くにいたの! いたのに!」
「どうして、僕は、僕は君のこと……」
「フゥの言う通りよ! クモリの分からず屋!」
「れ、レインさんに何が分かるんだよ!」何かにあらがうように、クモリは声を張り上げる。
「どうしようもないことなんだ。僕は選ばれた、選ばれたのに……」
「みんな殺した?」タイヨーの言葉に、クモリはひゅっと息を飲み込む。
「そうだ、その上、僕はタイヨーたちまで……!」
「何言ってんだよ」
「――え?」
「お前をイジメてたやつらが何人死んだって、俺は構わないぞ」
「あ、それ、私も! あの〝栞〟見た時。マジでスッとした!」
「え、え?」意味が分からないというように困惑の声を上げるクモリに、タイヨーと私は顔を見合わせて頷きあうと、言葉を畳みかける。
「それに、俺たちを巻き込んだとか、勝手に言うなよ」
「私たち、この場所であったことの全部が、大事な記憶なんだ。もう何も忘れたくないの!」
「で、でも――」「だーーーーーっ!」
クモリの言葉を遮ったのは、レインの声だった。
「よくわかんないけど! 2人も味方なのね! なら、なら! 今日こそは逃げられないわよ、クモリ!」
「レ、レインさん……!?」
「この本棚の向こうに、クモリがいる。だから――こんな本棚、倒してやる!」レインが本でぱんぱんに膨らんだ棚に手をかける。華奢な高校生の手のそばにに、私とタイヨーの大人の手が置かれた。そうして私たちは、3人分の力で、思い切り本棚を押し始める。
固定はしっかりしていて、詰め込まれた本で棚自体の重量も相当なもの。彼女が少し動かしたくらいではびくともしない。
それでも、それでも、もうレインを一人にしたくなかった。
この先にいるクモリに、伝えたいことがあった。「そんなことしても、意味ない。僕に構わないでよ!」クモリが叫ぶ。
「意味なら、ある!」とレイン。
「意味なら、見つける!」とタイヨー。
「意味とか、いらない!」と私。
えー、ここでビシッと重ならないわけ? そう思った瞬間に、腕からふっと力が抜ける。
本棚がぐらりと傾いて、ずっと遮られていた日の光が、文芸部室に差し込んだ。

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