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トピック
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部活を引退してから卒業までの数カ月の間に、語る価値のあることはほとんどない。
最後の部活動日に、レインと2人で職員室に文芸部室の鍵を返した時には、それで全部が終わったなんてとても思えなかった。私もレインも合鍵を持っていたし、明日から切り替えて受験勉強、なんて、何かの悪い冗談に思えた。
けれど、そこに冗談は何もなかった。雪代先生はこれまでのように私たちの活動を見逃してはくれなくなり、やがて合い鍵も担任に取り上げられた。
出遅れている、その事実に気づくのにすら私は出遅れていた。私よりずっと多くの友達と、ずっと間抜けなはしゃぎようを見せていたように見えていたクラスメートたちは、みんなもっと前からそれぞれの進路に向けて周到に準備していた。
私に残ったのは、首都近郊で、今の成績でも合格が望めて、親からも文句が出ない公立校だからという理由で選んだ思い入れのない志望校と、身を入れて取り組んだことのない模試のC判定だった。三者面談で担任が言った「このままでは落ちる」というシンプルな言葉に、胃の裏の裏が沸騰したような恥ずかしさが沸き上がった。
クラスの女子たちの2割くらいは指定校推薦で早慶だのマーチだのへの入学が決まっており、あと1割くらいは一次試験のみであっさり入学を決めてしまえるようだった。早々にレースから抜けた彼女らのことをズルいと腐す周りの声に内心で同調してみたが、明らかに努力していたのは彼女たちの方だった。
生徒会活動、部活動、その他もろもろの課外活動。私が誇りにかけて決して口にしなかった堕落のチョコレートがぱきりと割れて、中からまばゆい光を放つ金貨が出てきたような不条理が、ずっと私の隣にあった。私がやって来たことを高値で買い取ってくれる場所はどこにもないようだった。
幸い受験科目は国語と英語だけで、国語の評価割合がずっと高い。現代文は文句なしだから、後2ヶ月で古文と漢文だけ無理やりに詰め込めば、よほどのことがない限り入学できるだろうという話だったから、私も観念して、係り結びの法則を忘れて担当教諭から唖然とされるような勉強の日々に身を浸した。そんな日々に飲み込まれるように、私はレインやタイヨー、クモリと疎遠になっていった。
不思議なことに、通常通りに日々を送っていても、廊下で彼らを見ることはなかった。時たま自動販売機でイチゴミルクを買った時にタイヨーと出くわして言葉を交わす程度で、レインやクモリと出会ったような記憶はない。レインの騒がしい声も、全く聞こえてこない。
そういうものだったんだ、と思った。どれだけうるさく、派手に思えたレインの行動や言葉も、あの部室の外から見れば、ほとんど無音に等しいものだったのだろう。レインでさえそうだったという事実は、私を絶望させるのに十分だった。●
喜ぶべきは、私の二か月程度の勉学にもそれなりの意味はあったことだ。私は一月の一次試験で(少なくとも文系科目については)教師が目を丸くするほどの点数を出し、よほどのしくじりをしなければ志望校には行けるだろうというお墨付きを得た。
両親は私以上に受験前の張りつめた雰囲気が苦手だったらしく(そうでなければそもそも勉学をしない私をぎりぎりまで放置はしないだろう)、ひと足もふた足も早いお祝いをやりだすような浮かれようで、私に課されていた娯楽の制限もかなり緩くなった。
私は自室に置いてある、もとは家族用だったノートパソコンを開く。部活で使っていたUSBを挿し込み、途中で止まっていた小説を開く。
なんだか、価値のあるものは一文字も書けない気がした。ペテン師の神様に、大事なものを全部奪われた後のような感覚だった。
外はいつの間にか雪で真っ白になっていた。私はノートパソコンを閉じると、イヤホンを耳に突っ込んで大音量でピロウズをかけ、ベッドに倒れこむ。そして耳が痛くなるような「FOOL ON THE PLANET」の中に、まだ私がいるようにと、かたく目をつむった。
●
「――やめろ!」
タイヨーの声で、私の意識は現実に浮上する。そして目の前に落ちたタイヨーの左腕と、スティフィルモンによる蹂躙によって流されたワーガルルモンの血を見て、これまでに起きていたすべてを思い出した。
彼の言葉に、スティフィルモンはもはやただの肉塊となったワーガルルモンに拳を振り下ろすのをぴたりと止め、怒りに染まった顔でこちらを見る。銀と金の体毛は血で真っ赤に染まり、一部はノイズとともに、紫色に変色していた。
「俺は、俺は大丈夫だから。もうやめてくれ……レイン」
どうしてタイヨーが、目の前のデジモンをレインだと思えたのか、私には分からない。でも私もおんなじことを確信していたから、驚きはしなかった。
とにかく、その言葉に、スティフィルモンは虚を突かれたように、その目に光を取り戻した。呆然と周囲を見回して、血に染まった自分のこぶしを見つめる。
やがて、スティフィルモンは苦しむように頭を抱え、ばたりと倒れた。その口から慟哭ともとれるうめき声が漏れ、その体が光に包まれる。
光が晴れた後に私たちの目に映ったのは、あのどこにいても目立つアッシュグレーの髪と、ぼろぼろの制服。いつもつけていた眼帯は今は無く、生々しい傷跡が覗いている。つまるところ、それはあの頃のままの――。
「レイン!」
私の絶叫とともに、レインはぐらりと床に崩れ落ちた。タイヨーが咄嗟に駆け寄り、残った右腕と胴体で強引に彼女を受け止める。
彼女の、まだ子どもの薄い胸が浅く上下する。タイヨーは彼女の口元に手をかざし、それから息をついた。
「……生きてはいる、みたいだ」
「レイン……」
目の前の事象に理解が追い付かず、私は思わず首を振って――それから気づいた。
大丈夫じゃないのはタイヨーも同じはずだ。左腕を切り落とされて、それから何もしていないのだから、痛みにもがき苦しんでいてもいいはずなのに、すぐにでも血を止めないといけないはずなのに。
そうして、彼の途中で途切れた左腕に目をやって、私は絶句した。
「ねえ、タイヨー」
「なんだ? とにかく今は――」
「腕……」
「え?」
その言葉に、彼の表情も変わる。まるで自分が片腕を失ったことを今まで忘れていたかのように。
彼の左腕は確かに途中で切り落とされていた。けれど、血は流れていない。切断面は想像したような赤やピンクではなく、均質な灰色だった。つるりと滑らかで、柔らかなプラスチックをナイフで切った時のようだった。
「なんだよ、これ……」
タイヨーが呆然と呟いたとき、私の視界がまたぐらりと揺れた。意識が遠のいていく。何度も見た‶栞〟がまた始まるのだと思う。
タイヨーとレインの顔が最後に目に入る。今度意識を取り戻すときには、もう元の私ではいられないような、そんな気がした。

私はまた、私ではない誰かの視点を見ていた。けれどそこは未知の世界ではなくて、私の街の歩道橋だった。夕暮れ時の涼風が強く吹き付ける中を、トラックが誰かの生活を乗せて走り抜けていく。
視点の主は橋の真ん中で街を眺めながら、手すりにもたれかかっていた。手すりの塗装はぱりぱりとはがれて、赤さびのついた金属があらわになっていたが、彼はそんなことは大して気にしていないようだった。
「……もう、やり直さなくていい」
視点の主がぽつりとつぶやく。彼の声を私は知っていた。その声を、高い本棚を隔てて、ずっとそばで聞き続けていたような、そんな気がした。
しかし、私が思考を進める前に、風に乗ってどこからか声が帰って来る。
「やり直さない? そりゃまたどうして」
その声は、前に見た幻の中で聞こえた下卑た声と同じだった。視点の主はその相手に怯えているようで、声に震えが混じる。
「い、生きたい人生を見つけるまで、何度も高校生活をやり直せる。そういう約束だったはずだ。今回の人生をそのまま生きたいから、もう、やり直さなくていい」
「ふうん」
相手の声に、つまらなさそうな、相手を見下すような嫌な響きが混じる。
「それは嘘だ。キミはこれまで何度も繰り返して、色んな選択を試したね。本来のキミなら絶対に入らないような部活に入ったり、教師に取り入って優等生を気取ってみたり」
「それは……」
「そのどれもキミ自身の資質のせいであまりうまくいかなかったみたいだけど、それでも、今回の人生よりはマシなのがあっただろう。なんといったって今回、キミは何もしていないに等しいわけだからさ」
「……」
彼の視線が少しだけ俯く。それを敏感に察知したように、下卑た声は続けた。まるで、彼の心を痛めつけることそのものが目的であるかのように。
「僕としては、今回は次のループまでの充電期間なのかと思っていたんだ。でもキミは、今回の人生がいいという」
「僕の勝手だ。た、楽しかったんだ」
「マジで? おせっかいをいうわけじゃないけど、ロクな人生とは思えないよ。それに――フゥさんのことについても、これでいいわけ?」
視点の主が、ひゅっ、と息を吸い込む
「おいおい、頼むよ。全ての人間が電子情報で構成されるこの世界で、キミ意外にただ一人、実在の人間が彼女だ。キミの好きな子だっていうから、リアルワールドで唯一の心残りだっていうから、連れて来たんだぜ」
「そんなこと、頼んでなかった。お前が勝手に僕の心を読んだんだ」
「キミの顔に書いてたんだから。キミのせいだ。キミが、フゥさんの人生をめちゃくちゃにした」
「それは……」
声の主は口ごもる。
「どうあれ、キミはあこがれの女の子と青春ひとつロクに出来てない。何回も言ってるけど、好きにすればいいんだ。どうせリセットできるんだから、一回二回くらい後先考えずに……」
「乱暴なことは」
彼の声は途中で裏返った。
「しないし、できない」
「そう」
つまらなさそうに声は言った。
「じゃあ君は、今回の人生をファイナルアンサーにするわけだ。ただただ部室にこもって何もしなかったこの3年間を?」
「た、ただこもってたわけじゃない。みんなと……」
「ああ、‶みんな〟ね」
そこで声の主は、耐えきれなくなったかのように噴き出した。
「みんな、みんな。たった四人のズッ友だよな。キミと、キミが巻き込んだ女の子と、どこからか紛れ込んだうざったい元パートナー、それに、リセットの際に生まれちゃったバグ、ウケるね。イカれたメンバーを紹介、ってやつ?」
「タイヨーは」
彼は、これまでになく強い口調で言った。
「タイヨーは、バグなんかじゃない」
「ああ、なるほど、つまりはそこだ」
声は、得心したようになんども、なるほど、なるほど、と呟く。
「キミはあれを消したくないんだ。次のループにはあれを修正すると言った、僕の言葉を恐れているわけだ」
「……」
「だが無駄だよ。世界の運営ってのは繊細でね、このループをキミの人生として確定させる場合にも、あれの存在を許容はできない」
「そ、そんな」
彼の顔からさっと血の気が引いたのが分かった。
「そ、それはダメだ、タイヨーは消させない。やめてくれ!」
「いいや、キミが指図できることじゃない」
声はどうしようもない現実を突きつけるように悲し気に言うが、それは声色だけで、本当はこの状況を心底楽しんでいるのだと分かった。
「最初に言っただろう? これは僕からキミへの感謝の気持ちなんだ。キミの裏切りのおかげで、僕はあのいまいましい‶選ばれし子ども〟たちを一掃できたからね。でも、善意でやっていることで、僕のやり方は曲げられない。これは取引じゃないんだ」
「そ、それなら」
彼は震える声を絞り出す。
「取引をしたい。……僕は何をすればいい?」
その言葉を待っていた。とでもいうように、声が嘲りの色を帯びる。
「僕としても、やっと手に入れた世界だ。そこにバグを介在させるリスクを取るなら、キミにも犠牲を支払ってもらわないと」
「……」
「何百回も高校生活を繰り返して、キミが初めてしんから心を開いたのは、世界の再編時に生まれたただのバグだった」
「……」
「その惨めさを受け入れられるというのなら――キミ、あれのために、残りの人生全部を捨てろ」
「分かった」
即答だった。それは声にしても意外だったようで、驚きの声が漏れる。
そんな相手に、彼は――クモリは、へらりと笑った。
「どうせ、生きてても、ロクな人生じゃないだろうし」
●
ゆっくりと、意識が浮上する。私はいつの間にか図書室の床に横たわっていたようで、心配そうにこちらを見下ろすタイヨーの顔が、目の前にあった。
「フゥ、起きたか」
「……」
「また、‶栞〟か」
「……私」
私は口を開くことができなかった。先ほど見た光景が、会話のひとつひとつが、頭の中で何度も繰り返し再生された。何度繰り返しても、それが私にとってどんな意味を持つのか、脳が理解を拒んでいた。
「その感じだと、全部知ったのね」
そのとき、タイヨーの隣から聞こえたその声に、思考の渦巻きは全部吹き飛んだ。その時だけ、私は高校生2年生の、あの頃の私だった。
「レイン、あんた――」
私はがばりと起き上がり、声のした方に拳を突き出そうとする。なんてことに巻き込んでくれたんだとか、今まで何してたんだとか、そういう抗議の言葉とともに。
でも、視線の先にいたレインが、今にも死んでしまいそうなくらいにボロボロだったから、私の拳は止まってしまった。
「レイン……」
「久しぶり、フゥ――殴ってくれないの?」
彼女がちょっとだけ悲しそうな顔をしたから、私は、高校生2年生の私がもうどこにもいないのだと、分かってしまった。
●
「ありがとう‶栞〟を集めてくれて」
「……これを、私に見せるために」
「どうしても、知ってもらう必要があったのよ」
レインは落ち着いた声色で話す。目の間の彼女は高校生の時の姿のままだ。大人になったのは私だけで、それがひどく不公平に感じられた。
彼女に助けられて、私は自分が知った事実を反芻した。次はあふれてくる疑問を一つ一つ吐き出していく時間だった。
「この世界は……現実じゃない?」
「少なくとも、フゥの元いた世界じゃない。私たちの世界――‶デジタル・ワールド〟……だった場所、と言うべきかしらね」
「あんたの小説、実話だったんだ」
「世界やデジモンの設定はね。内容はアタシのオリジナル。だから、フゥのアドバイスは無視しちゃった。物語的に合理的じゃなくても、それがリアルだから」
レインはくすりと笑って、それから何とでも言いなさいと言いたげに胸を張る。彼女に言える言葉なんて、今の私は持ち合わせていなかった。
「デジタル・ワールドで、アタシはクモリのパートナーだった。レインっていう名前も、あいつにもらったもの」
「……選ばれし、子ども」
「そう、世界を救う子どもたちと、そのパートナーデジモン。アタシたちもその中にいたんだけど、最後に間違ったの」
レインの声に深い後悔が混じる。
「敵の言葉に騙されて、心の闇に飲まれて――アタシが、仲間全員を皆殺しにした」
「あんたとクモリくんをイジメてたやつらでしょ」
「だから死んで当然? ……そうかもね」
レインは俯く。彼女のそんな仕草、見たくなかったと言ったら、それは私の酷いワガママになる気がして、何も言えなかった。
「とにかく、アタシたちは世界を救えなかった。世界は敵の手に落ちて、そいつはクモリの心の闇につけこんだ」
「どして、そんなこと」
「分からない。選ばれし子どもの力を利用したかったのかもね。高校の3年間を何度も繰り返す契約を結んだの」
「で、私が外から連れてこられた」
「ずっと前、元の世界で、クモリはフゥのことが好きだったのよ。それを知ったアイツは、フゥを連れてきた。一番大事な人を巻き込めば、クモリが引き返せなくなると思ったのかもね」
「……」
レインは私の目をじっと見つめたが、私が今は何も言いたくないと首を振れば、顔を上げて話し出す。
「アタシは敵の手で世界のはじっこに捨てられた。とりあえず日本を目指して、高校を一個一個あたって、クモリを探したわ。それで、人の姿で彼のループに入り込んだ。……クモリは、アタシと会いたくなかったみたいだったけど。」
そんなことはない、本当に避けたいなら、もっとやりようはあったはずだ。そんな言葉が浮かんでは消えて、私は結局何も言えなかった。
「私が加わって何度目かのループで、タイヨーが現れた。学校の顔ぶれはまったく変わらなかったのに、急にね」
「……世界の、バグ」
「何度も繰り返していたら、そういうことも、あるんだと思う」
私もレインも、タイヨーの方を見た。彼はずっと沈黙したままだった。
やがて、彼はゆらりと立ち上がると、図書室に転がった自分の左腕を拾い上げた。そのつるりとした切断面を、自分の失った腕にくっつける。ふたつの肉はぴたりと継ぎ目なく重なり、やがて、左手の指先がぴくりと動いた。
「……少なくとも、俺は人間じゃないらしい」
「クモリは、タイヨーのことを友達だと思ってた。だから、タイヨーがバグとして修正されずに、この先も生きていけるようにしたの」
「フゥが言ってたよな、そのためにクモリは、残りの人生を捨てたって。どういうことなんだ」
タイヨーの問いにレインは深く息を吸う。それが、話の確信らしかった。
「クモリは、自分の時間を止めたの。2年生の春休みにね」
私とタイヨーは顔を見合わせた。これまでにフラッシュバックした記憶を脳内で並べる。それをどれだけ攫っても、3年生の1年をクモリと過ごした記憶は思い出せなかった。
「じゃあ、最後の1年、クモリはいなかったのか」
「うん。そして今でも。――あのパソコン部室に、今でも彼はいる」
「部室には今日行ったけど、誰も……」
「クモリはビビりだから、普通に行ったんじゃ会えない場所に閉じこもっちゃったのよ」
それがどこか、私もタイヨーも知っていた。
「本棚の、向こう」
「そう。そしてそれが、アタシが2人に頼みたいこと」
レインは両の手を伸ばす。右手は私に、左手はタイヨーに。
「巻き込んでしまって、本当にごめん。こんなこと頼めた義理じゃないけど。もし、アタシが、クモリが、あなたたちの友達だったなら、今でもそうなら――本棚を、倒して」
私もタイヨーも、即答はできなかった。
それでもレインは言うべきことを言えたことに満足したようにうなずく。同時に、彼女の体が光に包まれた。
「レイン!」
「大丈夫、まだ消えたりしない。肝心な時に、あなたたちを守れるように、休むだけ」
「まって、レイン、一つ聞かせて」
私はみっともなく、彼女の制服の袖をつかんだ。
「どうして、小説を書いたの? ‶デジタル・モンスター〟を」
「……世界に、クモリのことを、私と彼の冒険のことを忘れてほしくなかったから」
「でも、それは小説じゃなくても良かったはず。でもあなたはずっと物語にこだわってた。どうして?」
「……それ、本気で言ってるのかしら」
レインは呆れたように私を見つめると、やがて誇らしげに笑った。
「――あなたと小説を書くのが、楽しかったからに決まってるでしょう?」
そして、彼女は光になって消えた。私の手に、いつまでも彼女のぬくもりが残っていた。
「……で、どうする?」
タイヨーが私を見た。私は顔を上げた。
●
3年生の1月も終わりごろになると、授業はほとんど行われなかった。
午前中に受験する学校に合わせたコース別の授業、午後に面接がある生徒向けの練習がある程度で、それ以外の時間は自習だ。
誰が許可したわけでもないのに、午前が終わった段階で帰る生徒はかなり多かったし、教師も何も言わなかった。既に進路が決まっている生徒は大学から先んじて課された課題に取り組むか、或いは遊びに出て、二次試験を控えた生徒たちは予備校の自習室に向かった。下校時間まで生真面目に教室に残っているのはクラスの3分の1程度だった。
私は午後まで残っている方だった。不思議なことに、あれだけ嫌だった教室の雰囲気が、今はけっこう好きになっていたのだ。いるもいないも自由の、あわただしく静かな空気が、大みそかの街みたいで気に入ったんだと思う(私は大みそかの街が一年で一番好きだった)。
クラスメートはみんなそれなりにいいヤツだったし、机やいすや黒板消しにも愛着がわいた。あと一ヶ月で卒業なのを柄にもなく惜しんだりもした。
志望校や似たレベルの大学の過去問を解き、合格に支障のない点数が取れていることを確認して、それから、問題集の中の現代文を読みふけった。読みやすく質の高い作品が選ばれていることもあって、どれだけ読んでも苦にはならなかったけど、ふしぎと、本を手に取って作品全体を読みたいとは思わなかった。
そして外が暗くなり始めるのを感じると、コートとマフラーを着込み下校した。
豪雪の年だった。路面はすっかり凍結して、歩道には雪が深く積もっていた。バスで帰るのが賢い選択だったけど、私はいつも歩いて帰った。それも遠回りして、毎日ルートを変えて、イヤホンで聞くピロウズのアルバムが3周するまで歩いた。毎日靴の奥までぐしょぬれになって、母に文句を言われてもやめなかった。
●
受験を2週間前に控えたある日も、私はしんしんと雪が降る中、街をぐるりと回っていた。5時にはあたりはすっかり暗くて、雪道を走る車のライトの連なりをぼんやりと見つめていた。
私は知らない住宅街を歩いていた。ここが街のどのあたりで、どっちに行けば知っている道に出るかは分かっていたけど、それでも、前にも後ろにも私の知っている景色は無かった。それが何だか心地よくて、私は声を出して笑った。
あえて細い道ばかりを選んで曲がって、知らない家の敷地に行き当たって引き返すことを繰り返すうち、私は知らない団地と団地に挟まれた小さな公園に行きついた。遊具はどれも、もともとの機能が分からないほどに雪に埋もれ、白い街灯の灯は、雪のせいで世界の果てまで届きそうなほどにぼんやりと輝いていた、
私はなんとはなしにその公園に入ると、ベンチに積もった雪を払い、座面が凍り付いているのにも構わず腰掛けた。なんだか知らない映画の、知らない登場人物になったみたいな気分だった。
やがて、お尻が冷たくなるまでぼおっとしていると、不意に切なさが襲ってくる。胸をかきむしりたくなるような感覚だった。これまでの高校の3年間がまるで全てうそのように感じられた。レインもクモリもタイヨーも実在しない人間で、私にも帰る場所は無いように思えた。
次に恐怖が襲ってきた。私は思わずイヤホンを外すと、静寂に包まれた道を走り出した。さっき自分が歩いた轍にもあっという間に雪が積もっていて、自分がどこから来たのかも分からないほどだった。
先ほどまで心地の良かった知らない景色だらけの空間は、息が詰まるような圧迫感だけを私に与えてきた。もしかしたら私は一生、家には帰れないのかもしれない。一生、安心することはできないのかも――。
「フゥか?」
不意に聞こえた声に、私は体をびくりと振るわせて振り返る。
「何してんだよ。お前、家こっちだっけ」
そこに間抜け面を浮かべたタイヨーがいたものだから、私は馬鹿みたいに安心して、胸をゆっくりとなでおろす。呼気でぬれたマフラーの口元が、不快だけれど温かかった。
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「それで、雪の中歩きまわってたのかよ。受験前に風邪ひいたら笑えないぞ」
「……私の勝手でしょ」
「そうだけど、さすがに笑い話にもならないからな」
「タイヨーこそ、早く帰らないと風邪ひくかもよ」
「帰るよ。お前がバスに乗るのを見たらな」
タイヨーは律儀に、近くのバス停まで私を送ってくれた。
街灯の淡い光で照らされたベンチに2人で腰掛け、自販機で買ったココアの缶を開ける。甘ったるい風味が喉を駆け下りて、私は笑っちゃうくらいマシな気分になった。
「……分かるよ」
急にタイヨーがそう言いだすものだから、私は怪訝な顔を浮かべて彼の方を向く。
「なにが?」
「フゥの不安とか、なんか落ち着かない感じとか。俺もそうだから」
「……地元の大学、A判定なんでしょ」
「そういう話じゃない、分かるだろ」
「それ、やめて」
「なにをだよ」
「以心伝心みたいなの、キモい」
「……相変わらずだな」
はいはい、わかりましたよ、と言うタイヨーの声を聞きながら、私はバスの電光掲示板を見上げる。家に帰るための最後のバスが、1つ前のバス停を通過したと、アナウンスが語っていた。
こんなに静かな雪の中でも、逃げられない時間ばっかりが、私を取り巻いている。
「なあ」
「なに?」
「高校、楽しかったよな」
「……ん」
彼は雪を運んでくる真っ黒な空を見上げていた。そこに何を見ていたのかは分からない。きっと、私と同じで真っ黒な空しか見ていなかっただろう。
「ずっと、忘れないでいような」
「……うん」
キモい、とか、そういうのいい、とかいつものセリフがなぜか言えなくて、私は小さな声で同意の声を返す。
バスがやって来て、私の前に止まった。私はココアを飲み干して、温かな明かりの灯った車内に乗り込んだ。ずっと忘れないということの意味を、私も彼も知らないまま、バスはゆっくりと、白い夜道を走り出した。
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私とタイヨーは、文芸部室に向かう廊下を歩く。今日最初に行ったばかりのはずなのに、ずいぶん久しぶりな感じがした。
「どこに行くんだい」
背後からそんな声がかかる。予期していた声だ。実際、私もタイヨーも、あの日に起きたことを思い出していたから。
そうだ。あの日、本棚は――。
●
「――だめだよ、そんなことしちゃ」
2年生の春休み、レインの手で本棚が倒れる、というまさにその瞬間に、部室の扉ががらりと空いた。
同時にぐらりと倒れようとしていた本棚がぴたりと制止する。レインが悲鳴にも似た声を上げてこれまでより強い力を込めても、もう本棚はびくともしなかった。
「せっかくクモリくんが、世界を僕に明け渡してくれる気になった。上位存在の代弁者たる‶選ばれし子ども〟の承認を得て、僕がやっとこの世界を支配できるっていうのに、邪魔をされちゃあ困る」
レインは絶叫し、声の主に飛び掛かろうとするが、その足は床に縫い留められたように動かなかった。
そして‶彼〟は、白衣を翻すと、呆然としている私とタイヨーに向けて手をかざした。「安心していい。キミたちの記憶は消してあげよう。高校生活のことは、他のみんながそうであるように、ぼんやりした、大事だけどどうでもいい思い出になる。このことは忘れて、普通に生きるといい」
そして、彼はいつも通りのはにかむような笑みで言う。
「大事な教え子の人生を、台無しにはできないからね」
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私とタイヨーは顔を見合わせ、振り返る。
「友達に会いに行くんだ」
「それは困るな」
タイヨーの言葉に、彼――雪代先生は、困ったような笑みを浮かべた。白衣のポケットに手を突っ込んだ彼を取り巻くように、白熱する二重螺旋の鎖がいくつも浮かんでいる。
その鎖を、私は知っていた、過去の幻覚の中で見た鎖。そして、レインが見せてくれた設定集の中にも、それはあった。
「アポカリモン……」
彼の真の名を呟けば、先生は肩をすくめる。
「二人とも現実見なきゃ。――もう、いい大人だろ?」
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