こちら、五十嵐電脳探偵所:#14

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  • #4096
    みなみみなみ
    参加者

      その朝は晴れやかな朝陽とそよ風に迎えられた。

      風に翻った純白の外套が眩く陽の光を反射する。

      黄金に輝く愛鳥を肩に、ヴァルキリモンはE地区の街並みを見下ろしていた。

       

      ーーーこの辺りの地域はデジモンこそいれど、治安が良い。この地域の人間がデジモンと良い関係を築いている証拠か。

       

      アヌビモン、今はラブラモンのままである知己から大体の現状は聞かされていたが、この街の平和さに目を細めた。

      デジモンというものはどれだけ文明のある街に住もうとも、種によってはその闘争本能、破壊衝動を抑えることが困難なものがいる。

      闘技場のような場所を設けた町すらデジタルワールドにはあったのに。

      それがC地区に一つある他はどの地区にもない。

      しかし激しい破壊の痕跡といったものさえほとんどないのは、それだけ地区全体がデジモンと上手くやれているということだろう。

       

      ーーー正直予想外だった。デジモンが現実世界を行き来するようになったのが十五年前だそうだが、その間を考えても平和すぎる。

       

      ………だが。

       

      ーーー五年前に、メフィスモンとなったガルフモンの頭脳体がこの地区の警察署を襲撃。その場にいたのが、彼女か。

       

      五十嵐美玖。

      彼女の抱える”紋章”には謎が多い。

      ヴァルキリモン自身の身に受けてわかる事は幾つかある。

       

      魂を失ったこの身を限定的に受肉させる。

      何かに抗う思念を持つ者の”強化”。

       

      特筆すべきは後者の”強化”だ。

      フレイアの身体に収められた記憶(メモリ)から閲覧して知った、美玖の力。

      彼女の手に握られ、黒いミラージュガオガモンに致命的なダメージを与えた肉切り包丁は、何の変哲もない代物だ。

      その包丁と持ち主の美玖を紋章は”強化”したのだ。

       

      ーーー此方も調べてみなければ。人間に究極体のデジモンへ手傷を負わせる程の力と攻撃の一切から護る加護を与える特性、その正体を。

       

      そう考えながら、ヴァルキリモンはふと先程軽く見回していた街の一角に、先程までなかった違和感を覚えた。

       

      ーーーん?あれは…?

       

      街の一角、先程まではなかったもの。

      それは、手押しのついた黒い箱のような物だった。

      箱は木製で、ガラス細工の細やかで美しい装飾が施されている。

      いわゆるストリートオルガンなのだが、ヴァルキリモンは初めて見る代物だった。

      ストリートオルガンは普通、首に下げられるくらいの大きさだが、ヴァルキリモンが見つけたそれは人1人がようやく入れる程のサイズ。

       

      ーーーなんだろう?先程まではあんな物、あったか?

       

      不審げにヴァルキリモンが見ていると、そのストリートオルガンの上がパカリと開いた。

      出てきたのは。

       

      「よいっ、しょ」

       

      中から出てきたのは、一人の人間だった。

      白く長い髭を蓄えた初老ほどの男性で、肩には黒いコウモリのような外見のデジモンがぱちくりと真っ赤な単眼を開いている。

      驚きながら見下ろすヴァルキリモン。

      男性は全身黒ずくめで、丈の短いマントの下にコートと長いズボンを着ている。

      男性は肩に止まったデジモン、サウンドバードモンを優しい手つきで撫でた。

      盲(め)しいているのか、その手つきは手探りで、震えている。

       

      「おお、おお。良い風の先触れじゃあ。今日はどこで、風を集めようかのう」

      「ギュー…」

       

      サウンドバードモンも男性に懐いてか、撫でられるままに任せている。

      サウンドバードモンを肩に乗せながら、男性はストリートオルガンを押して歩き出した。

      軋むような音だがストリートオルガンは音とは裏腹な軽やかさで動き出す。

      男性は、ふと、何かを思い出すようにして顔を上げてそこで。

       

      ヴァルキリモンと目が合った。

       

      「おや、これは」

       

      男性が黒いハットを脱ぐ。

      ヴァルキリモンをしっかりと認識したような仕草。

      反対に、普段なら他のデジモンに対して警戒心が強いはずのサウンドバードモンは男性の挙動に辺りをキョロキョロと見回している。

       

      「これは、美しい方に出逢うた。御機嫌よう、良い朝ですなあ」

       

      男性はにっこり、そう、ヴァルキリモンに向けて挨拶。

       

      「ギュー?ギュギュ、ギュー?」

      「んん?ほら、あそこに立っている方がいるだろう。まるで、神話の美しいワルキューレのようで、エインヘリアルのように壮健なお方だ。お前も挨拶なさい」

      「ギュー……?ギュギュ、ギュ?」

       

      サウンドバードモンは不審げに男性の指差す方へ視線を向けたがすぐに、疑わしげに視線を逸らした。

       

      ーーーご機嫌よう。

       

      微かな笑みでヴァルキリモンは男性に向けて返す。

      男性はハットをかぶると、ストリートオルガンを押していく。

       

      「ギュー?ギュギュギュ!ギュー!」

       

      サウンドバードモンの質問と思しき声音に笑みを返して男性は。

      黒いマントを翻し、ビルの向こうを曲がっていった。

       

       

       

       

      こちら、五十嵐電脳探偵所 #14 Onkel des Windes – 風のおじさん

       

       

       

       

      「……デジタルポイントを全て封鎖?」

       

      連絡を受けてシルフィーモンの声に戸惑いが混ざった。

      それを横で聞いた美玖達は顔を見合わす。

       

      「…それでは…、…………了解した」

       

      端末を切ったシルフィーモンに探偵アグモンが声をかけた。

       

      「どうした?」

      「デジタルワールドと直接繋がっている全てのデジタルポイントを一時封鎖するそうだ」

      「…なんじゃと?」

       

      マグナモンからの連絡によると。

      全て確認されている訳ではないが、デジタルポイントで異常が発生したそうだ。

      人間の手によるものではない。

      明らかに、何らかの存在がデジタルポイントを電脳(デジタル)と現実(リアル)を歪つに混ぜた空間にしたものだった。

      この異常が発見された後から、謎の組織からの攻撃頻度は劇的に減少した。

      原因は不明だが、デジタルポイントを閉じて回っていたシスタモン姉妹とベルスターモンからも似た報告がロイヤルナイツへ届いていたという。

       

      「マグナモンの声音には、明らかに心当たりがある様子だった。一切伏せられたが」

       

      デジタルポイントは元々デジモン達が開いたもの。

      すなわちデジモンのものであり、デジタルワールドのものでもある。

      それにロイヤルナイツ達が関与しないはずがない。

       

      「ふむ…デジタルポイントが、のう」

       

      探偵アグモンは自身の腕のツールを操作する。

      幾つかの画像がホログラム表示された。

       

      「師匠、それは…?」

       

      表示された画像を覗き見た美玖は、目を瞬かせた。

      そこに映し出されたのは、大きな街並みを侵食したデジタルな歪み。

      その中に、倒れた人間とその手前にいる何ものかが写っているものをよく見ようとして。

      画像はすぐに消えた。

       

      「ワシはデジタルポイントへ行く。調べたい事ができた」

       

      探偵アグモンは言いながら戸口へ向かう。

       

      「師匠…」

      「シルフィーモン、待機状態という事なら、これまで通り探偵助手としての職務に従事できるだろう。…嫌な予感がする。油断するでないぞ」

      「はい」

       

      シルフィーモンの返答に探偵アグモンは出て行った。

      しばらく、沈黙が続いたが…

       

      「せんせい、しるふぃーもん、こーひーいれるよ」

      「あ、ああ」

      「ありがとう、お願いね」

      「はーい」

       

      台所へとてとて走るラブラモン。

      デスクへ向かいながら、美玖は。

       

      (あれは…なんだろ。とても、嫌なものみたいだったけど…)

       

      画像を閉じられる直前に、垣間見えたもの。

      それに美玖は寒気だった。

       

      「…ねえ、シルフィーモン」

      「何だ?」

      「デジモンに、オウムガイみたいな姿のデジモンっているの?」

      「なんだそれは」

       

      美玖が携帯からネットで検索したオウムガイの写真画像を見せる。

       

      「古い、貝の仲間なんだけど、こんなもの」

      「これ、は……」

       

      写真を見ながら、シルフィーモンは懸命に思い出そうとして。

       

      「……すまない、私もこのようなデジモンはちょっと思い出せないな…」

      「そう」

      「なぜ?」

      「さっき、師匠が開いた画像の中に、これが人間を襲ってた感じのものがあったの」

      「オウムガイ型のデジモンが?」

       

      自信はなかったが、うなずいた。

       

      「ふむ…デジモンが人間を襲うのは珍しくないけどな」

       

      でも、なぜか。

      とても嫌なものを美玖は感じた。

      なぜなら、あの画像の中のオウムガイのようなものは、オウムガイそのものというよりはもっと別の……。

       

      「師匠が戻ったら、聞いてみるわね」

      「そうだな」

       

      ーーー

       

      その日の昼頃、一人の女性が写真を携えて訪ねてきた。

      依頼内容は、人探し。

       

      「かなり古い物なんですがこちらを。これを撮ったのは、1928年頃です」

       

      それは、今となっては直接見る事の難しい、モノクロ写真。

      そこに映っていたのは、一人の黒ずくめの男だった。

      白く長い髭を蓄え、黒いハットをかぶった初老ほどの年齢の男は、手押し車の取っ手を握っていた。

       

      「この人は…」

      「私も会った事はありませんが、ドイツ人である父の故郷のミュンヘンではOnkel des Windes(オンクル デス ウインダス)…風のおじさんと呼ばれている謎の人物です」

       

      杏奈と名乗った依頼人の説明によると。

      世界中を周り、何処となく現れてはストリートオルガンを弾く謎の男がいるという。

      最初は、第一次世界大戦の中頃から杏奈の父の故郷であったドイツの都市ミュンヘンでしか目撃されていなかったが、第二次世界大戦終戦後は世界中で目撃情報が相次ぐようになったという話だ。

      いつでもどこでも、黒いハットとマント、コート姿で人間一人が入る程大きなストリートオルガンを載せた手押し車を押して歩いている。

       

       

       

      「今は日本にいるらしくて」

       

      杏奈は言い淀みながら、もう一つ、と写真を出す。

      そこには指輪が一つ映っていた。

       

      「こちらの写真の指輪は……」

      「亡くなった父方の祖母のもので、祖母は生前にこの風のおじさんに会った事があるんです」

       

      指輪は、その時無くしたものだという。

       

      「指輪は祖母が若い頃に、恋人だったある男性から贈られたものだったんです。宝石はエメラルドで、キャッツアイのように光が猫の目みたいに縦一本に入っているのが特徴で…」

       

      祖母は、恋人がある日から原因不明の失踪をしてなお、指輪を大事にしていた。

      結局、両親の強い勧めで違う男性のもとに嫁いでしまったが、それでも。

      それほどまで十年以上も大事に、ひた隠しにしていた指輪をなくした事に気がついたのは、風のおじさんのストリートオルガンに聴き入った後の帰りだという。

      そして、その話を杏奈が知ったのは、杏奈の母親が祖母から内密という形で聞かされていた事から。

       

      「ドイツにいる母から連絡があって、もうじき祖母の命日なんです。なので、もし風のおじさんが祖母の指輪を持っていたのなら、探し出して、指輪を返して欲しいとお願いがしたい」

      「わかりました」

       

      とはいっても、日本のどこを探せば良いのか。

      シルフィーモンはいつもの情報屋を頼ろうと提案し、その通りにした。

       

       

       

      ーーー

       

       

       

      「風のおじさん、ねえ。聞いたことねぇな、第一次世界大戦の頃からいるんだろう」

      「写真に写ってるからにはそうだろうな」

      「だとしたら軽く100歳はいってるぜ、世界記録並みだ」

       

      情報屋は怪訝そうに言いながら、杏奈から美玖が受け取った風のおじさんの写真のコピーに目を通す。

       

      「でもまあ、ちょうどいい。その風のおじさんとやらによく似た男の目撃情報があるぞ」

      「どこだ?」

      「近いぜ。…E地区だ」

       

      目撃情報があったのは三日前。

      今も、学童を中心に目撃されているらしい。

       

      「まあ、このご時世で野外演奏とか珍しいしな、ストリートオルガン」

       

      目撃情報によると、風のおじさんと思しき人物は公園で姿を見かける事が多いとのこと。

      ストリートオルガンを奏でると、老若男女問わずその演奏に思わず足が止まってしまうという。

       

      「ひとまずE地区の公園に行ってみたらどうよ」

      「そうするよ。…二日後に口座へ振り込んでおく」

      「OK、今後もご贔屓に」

       

       

       

      ーーー

       

       

       

      翌日。

      シルフィーモンと連れ立ち、美玖がE地区の最も大きな公園へやってきたのは午後三時。

      少し以前に児童への危惧から遊具がことごとく撤去された為、大型のデジモン一体は余裕で入れそうなほどあまりにも広々としている。

       

      「ここが最も目撃情報の多い所のはずだが」

       

      シルフィーモンが見回す。

      この日は祝日のため、青々とした芝の上で親子連れがそこかしこに見受けられる。

      黒づくめとストリートオルガンを探す目線の先に、見覚えのある男の姿が映った。

       

      「…阿部警部!」

       

      美玖に呼ばれ、カジュアルな格好の阿部警部が振り返る。

       

      「おう、五十嵐とシルフィーモン。こんな所で珍しいな」

       

      美玖とシルフィーモンが歩み寄っていくと、阿部警部の傍らに一体の青い身体をした小さな竜のデジモンがサッカーボールを胸に立っている。

       

      「え?父ちゃん、この人達誰?」

       

      小さな青い竜型デジモンは目を瞬かせながら阿部警部を見上げた。

      阿部警部も普段のしかめ面をにかりっ、と笑みに変える。

       

      「怪しい人じゃないから安心しろ、ブイ太郎。こっちの姉さんは昔の俺の同僚だ」

      「阿部警部、そのデジモンは…」

      「ああ、ウチに迎えたのがかなり最近だったからお前達に紹介するのは初めてか。こいつはブイモンっていうデジモンでな、養子に迎えたんだ。色々あってよ」

       

      ブイ太郎は、一週間前ほどにデジタルワールドから迷い込んできたブイモンだと阿部警部は話す。

      お腹を空かせて倒れていたところをパトロール中の他の警察に保護された。

      デジタルワールドへ帰せるアテもなく、元々ブイモン自身も身元と呼べる環境はないと言うため阿部警部は養子縁組を組んで迎える事を決めた。

      だが、それだけでない。

       

      「……典子の奴が、以前から子どもを欲しがってたしな」

       

      典子は子どもが産めない身体だ。

      けれど、家庭を持ちたがっていた事を知っている阿部警部は、どうにかしてやりたい思いであった為良い機会と考えた。

      ブイモンの事を典子に相談し、二人の同意で家族の一員として迎えることに決めた。

      少しずつだがブイ太郎も人間のいるこの世界の生活に慣れてきている。

      ブイ太郎が美玖とシルフィーモンに挨拶した。

       

      「こ、こんにちは」

      「こんにちは、ブイ太郎君…で良いのかな?」

      「うん」

      「一体何をしていたんだ?」

       

      シルフィーモンが尋ねると、阿部警部は答えた。

       

      「サッカーだよ。今日は俺は非番でな、今はこれが楽しみなんだ」

      「そうなんですね。……あ」

       

      美玖は思い出したように、阿部警部に聞いた。

       

      「阿部警部、そうでした。聞きたい事があって」

      「ん?」

      「今日、この公園へ来たのは人探しのためなんです。なので今からお尋ねする人物像について何かご存知かなと声をおかけした次第で…」

      「なんだ、デートじゃなかったのか水臭いな」

      「ち、違います!」

       

      思わず顔が真っ赤になる。

      シルフィーモンが代わりに尋ねた。

       

      「阿部警部、この辺りでストリートオルガンを弾く黒づくめの男を見た事はないか?目撃情報が寄せられたりは」

      「ストリートオルガン?あの、ハンドルみたいなの回して演奏する箱みたいなのか?」

       

      阿部警部は訝しげな顔をする。

      すると、ブイ太郎が手をあげた。

       

      「そ、それ…おいら、見たことある」

      「本当?」

      「うん。こないだ、母ちゃんと買い物に行ってた時に」

       

      公園を挟んで、阿部警部の家から近場にあるスーパーへ、ブイ太郎は典子と一緒に行ったという。

      スーパーはブイ太郎にとっては目に映るもの全て真新しいものばかりだ。

      その興奮冷めやらぬ帰り。

       

      「母ちゃんと手繋ぎながら歩いてたら、音楽が流れてきたんだ。ちょっと不思議な感じだった」

       

      典子と二人、どこから聞こえるのかと音のする方へ行くと十人を数える人達に囲まれた中にいたのが黒づくめの男。

      ストリートオルガンを演奏し、男の白く長い髭が重く揺れたのをブイ太郎は覚えていた。

      典子と二人、その曲が心地よくなって最後まで足を止めてしまっていた。

       

      「気づいたらもう音楽が終わってて、その人が帰っちゃった」

      「ずっと演奏してたのか?」

      「うん」

       

      ブイ太郎のうなずきに、美玖は阿部警部の方を向いた。

       

      「私達は、その黒づくめの人を探して欲しいと依頼を受けているんです」

      「その人間は、風のおじさんと呼ばれているそうなんだ」

      「風のおじさん?そいつは初耳だな」

       

      阿部警部は首を傾げる。

       

      「そいつは、演奏家、なのか?」

      「いや、私達も詳細はわからないが、外国にも現れる人物らしくてな。依頼人はその人物への大事な用件を私たちに託した」

      「なるほどな……」

       

      阿部警部が続きを言うため口を開きかけた時だ。

       

      ーーー♫

      〜〜♪ーーー♬

      〜〜〜♬ーー♪

       

      「…!」

       

      どこからともなく音楽が聴こえる。

      それは、公園中でもかつて一番大きな遊具が置かれていた場所から聞こえていた。

       

      「この音!この音だよ!父ちゃん」

       

      ブイ太郎が阿部警部の袖をグイグイ引く。

      美玖とシルフィーモンは顔を見合わせた。

       

      「行ってみましょう」

       

       

       

      ーーー

       

       

       

      公園には様々な人間やデジモンが利用に集まる。

      その誰もが、とある一ヶ所に集まり、耳を傾けていた。

       

      人々の前で立ち、ガラス細工が美しい黒いストリートオルガンを弾くのは。

      黒いハットにコート、長ズボン姿の白髭の男だった。

       

      ーーー♬

      〜〜♪ーーー♫

      ーーー♪♪

       

      どこか懐かしい旋律、明るい曲調が公園に響く。

      それに人もデジモンも聴き入っていた。

       

      「あの人だよ」

       

      ブイ太郎が小声で言った。

       

      「あの人が……」

       

      美玖が重く髭を揺らすその顔を見つめていると。

      色のある”風”が通り過ぎた。

       

      (えっ?)

       

      周りを見渡せば、様々な色の風が舞っていた。

       

      緑。

      水色。

      青色。

      紫。

      灰色。

      オレンジ。

       

      「風に…」

      「ん?」

      「風に色が付いてます…」

      「何言ってるんだ、五十嵐」

       

      見たままのものを伝えるも、訝しげな言葉を返された。

      だが。

      ストリートオルガンの音楽に合わせて、色のついた風は乱舞する。

      風はストリートオルガンの開いた上部へ吸い込まれるように流れていく。

       

      (ストリートオルガンが風を集めてる…?)

       

      美玖はそんなことをぼんやりと分析しながら、音楽に聴き入った。

      色のついた風は時に少し強めに、時にそよ風になって傍らを過ぎていく。

       

       

       

      ーー

       

       

       

      「…おい、五十嵐」

       

      肩を揺さぶられた。

      美玖がハッとした時には、すでに周りに人もデジモンもいなかった。

      シルフィーモンもブイ太郎も、なんとも言えない表情で美玖を見ている。

       

      「美玖、すまない」

      「あの人いなくなっちゃったよ?いいの?」

      「あ……」

       

      すでに空は夕陽で赤みがかっていた。

       

      「…阿部警部、今、何時でしょうか?」

      「16時だ」

       

      阿部警部が言うに、演奏が終わったのは美玖とシルフィーモンが揺さぶられる15分前のこと。

       

      「二人揃ってどうした?……さすがに、二度も来ないって事はなさそうだが」

      「ぼうっとして聴いちゃってたの、おいらと母ちゃんだけじゃなかったんだね」

       

      揃ってうなだれる美玖とシルフィーモン。

       

      「ああ、それと…」

       

      阿部警部がシルフィーモンに向かって言った。

       

      「あの男、演奏を終えた後であんたの事を見てたぞ」

      「私を?」

      「なんか、こんな事言ってたな」

       

      ーー風の子(シルフィード)だ…風の子が居る

       

      と。

       

       

       

      ーーー

       

       

       

      杏奈が再び探偵所へ顔を出したのは、それから三日後。

      美玖が経過報告をすると、杏奈はうなずいた。

       

      「母を通じてですが、祖母の言葉通りだったんですね。祖母も、探偵さんと同じように演奏中に色のついた風のようなものを見たとか」

      「それについても、もしわかることがあればお伝えしても?」

      「いえ、それより、此方からも実は事情が一部変わりまして…」

       

      杏奈は言いながら、一封の古びた封筒を取り出した。

       

      「それは?」

      「母に風のおじさんの捜索依頼を探偵さんに頼むことをすでに話していたんです。そうしたら、三日前に母から電話がきて、海外郵便でこの手紙を送ってあるからそれを風のおじさんに渡してくれと。…そして、指輪はそのままおじさんの手元に持っていてくれと」

      「どういうことですか?」

      「私も気になり、尋ねてはみたのですが答えてくれませんでした」

       

      美玖が受け取ると、ザラついた手触りと少し埃のような匂いがした。

      封はされておらず、差出人の名前もない。

      が。

       

      「祖母が、風のおじさんに宛てた手紙なのは間違いないんです。遺物整理の時に、これを見つけた母が読んでしまったそうなので…」

      「何と書いてあったのでしょうか?」

      「母が言うに、祖母は風のおじさんに何かしらの感情を抱いていたのではないかと。指輪を失った事を話してくれた祖母の様子に、推測ながらそう思っていたと」

      「…感情、か」

       

      手渡された封筒を、美玖は丁重にバインダーへ保存した。

      シルフィーモンは杏奈に尋ねる。

       

      「風のおじさんについて聴いても?」

      「はい」

      「演奏に居合わせていた知人が言っていたんだが、彼は私を見てシルフィードと呼んでいたそうだ。心当たりはないか?」

      「そ、そこまでは知りませんが…シルフィードというと、確か、風の妖精シルフの別名だったかと」

      「風の妖精…」

       

      美玖はシルフィーモンを横目で見た。

       

      「…なんだ、美玖」

      「シルフィーモンが妖精って聞くとちょっとおかしいというか…」

      「変な事を言うなよ」

       

      杏奈はそんなやりとりを見ながら、頭を下げた。

       

      「もしまた彼を見つけたら、お願いします」

      「わかりました。お渡しできましたら、報告を」

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      ーー私は、ある春、音楽に、ひとつのストリートオルガンに魂を売った。

      それは、もはや戻れぬ旅路の始まりだった。

      愛する者を置き去りに、私はひとり、風と音楽を求めて彷徨い歩いた。

       

      戦火の中を。

      暴動の波を。

      革命の嵐を。

       

      ひとりきりで。

       

      世界が変わっても、音楽が変わろうと。

      私は不変だ。

       

      気づけば100年はあっという間だ。

      そんな私に気づけば、小さな友だちができていた。

      幼い頃より目の見えない身体だったが、その魂の鼓動が弱々しかったのは感じとれた。

      鳥のような、コウモリのような友だちを助けて、私は友だちにも音楽と風を届けた。

       

      ーーああ、たとえ友だちが旅の果てまでついてゆけなくとも。

       

      今、私は、日本のとある場所に来ている。

      風が目まぐるしく変わるこの町で目覚めた私は、美しく輝く白い方に出会った。

      こうもはっきりと見えたお人は久しぶりだ。

       

      だが、すぐに。

      私は見つけた。

      人の身体に鳥の脚をした、風の子の姿を。

       

       

       

      ーーーー

       

       

       

      E地区にて風のおじさんの目撃情報が途絶えて数日。

      シルフィーモンが情報屋を訪ねてさえ、これといった成果も得られなかった。

       

      ーーもう、この町にはいないのでは。

       

      そんな憶測を胸に、杏奈から預かった手紙の入ったバインダーを美玖は見つめる。

      あの時、自分がちゃんとしっかりしていたら。

      やるせなさにただ、ただ、ため息が出た。

       

       

       

      更に三日後。

       

       

       

      業務終了時間を過ぎた頃、玄関の戸を叩く音がした。

      全員、探偵所にいる。

       

      「どうされましたか?」

       

      シルフィーモンに目配せし、玄関へと向かう美玖。

       

      「すみません、すでに本日の業務は終了し……」

       

      来客を確認するためモニターのスイッチを押そうとし……

       

      がちゃり

       

       

       

      扉が開けられ、吹き込む風。

      美玖は目を見開く。

      目の前で翻る黒いマント。

      風で重く揺れる白く長い髭…

       

      「あなたは……」

      「こんばんは、お嬢さん。良い音色ですな」

       

      黒いハットを脱ぎお辞儀した風のおじさんに、美玖は目を瞬かせた。

      まさか、こんな近くに来ていたとは。

       

      「こ、こんばんは。……あの……」

      「なんですかな」

      「私はこの探偵所の所長の美玖・五十嵐といいます。実は、ある方からの依頼を受けてあなたの事を探しておりました。もし良ければ奥へどうぞ」

       

      風のおじさんはストリートオルガンを押しながら入ってきた。

      この時、美玖は、風のおじさんの肩に小さなデジモンが乗っていることに気づく。

      一見、コウモリの羽に何個もスピーカーを取り付けて、無理やり身体を丸い形に変えたような姿。

      デジモンは、落ち着きなく、たった一つしかない真っ赤な目で辺りを見回していた。

       

      「ぎゅ!ぎゅ、ギュッ、ギュウウウ…!」

       

      デジモンが美玖やシルフィーモン達に対して唸り、羽を広げかけた時。

       

      「やめておくれ。この人と風の子達なら大丈夫じゃ」

      「ギュー…」

       

      不服げにデジモンが風のおじさんの言葉を聞き入れ、羽を畳んだ。

      美玖はその様子からすぐにツールをデジモンに向けず、シルフィーモンに小声で訊ねる。

       

      「あのデジモンは?」

      「サウンドバードモン。警戒心の強い成長期デジモンだ。今のはこちらを脅威とみなしかけてた」

       

      それから、シルフィーモンが風のおじさんと向き直る。

      風のおじさんも、シルフィーモンを前に穏やかな物腰で口を開いた。

       

      「おお…やはり、あの時に居た風の子だ。良かった、やっと見つけたわい」

       

       

       

       

      とはいえ、食事時の準備中の出来事。

      挨拶の後、風のおじさんと食卓を共にする事になった。

      この日の夕飯はほうれん草のおひたしにハンバーグ、ポテトサラダと味噌汁。

      一緒に食事を摂りながら、美玖は風のおじさんが髭に散ったソースをそのままに食べる姿を見て安堵する。

      食事をするなら、普通の人間と変わりないだろう。

       

      「夕ご飯、お口に合いますか?」

       

      訊ねられ、風のおじさんは柔らかな笑みを浮かべた。

       

      「ありがとう、お嬢さん。日本の食事はなかなかどうして、心に沁みる。誰かとこうして暖かな食卓を囲むのは、90年ぶりですな」

       

      その言葉を聞いてシルフィーモンは訝しげに美玖へ目線を投げる。

      情報屋の言葉が頭をよぎっていた。

       

      「それで…」

       

      髭のソースを御膳ふきんで拭きとる風のおじさんに美玖は本題に入る。

       

      「私達…いえ、こちらに居る私の助手のシルフィーモンに用がある、という件についてですが」

      「うん」

      「私達からも、貴方へ大事な御用件のため探しておりました。ここは、まず貴方から先に御用件を優先させていただく形で構いませんか?」

      「そうですな…そうさせていただきましょう」

       

      食事を終えると、風のおじさんは自身が押してきたストリートオルガンの前に立った。

      サウンドバードモンが離れた所に止まる。

       

      「私は、永いことあらゆる風と音楽を集め、旅してきました」

       

      がたり、と開けられるストリートオルガンの上蓋。

       

      「このストリートオルガンは、この世でただ一つだけ。このオルガンを奏でるために必要なものは、ブック(楽譜)でも円筒の鍵盤でもありません。……風そのものがブックであり、鍵盤なのです」

       

      言いながら、彼はオルガンの側面に取り付けられたハンドルに手を置く。

       

      「風そのものが音楽…?」

      「風だけではありません。音楽は、探せばあらゆる物に宿るのです。生き物の魂にも、心にも」

       

      言いながら、風のおじさんはハンドルを回しだす。

      演奏の開始だ。

       

      「これより聴いていただくは、魂の音とこの街に流れてきた不穏の足音。どうか、目を閉じ感じてくだされ」

       

      ………

       

       

       

      雑音

      雑踏

      雑音

      雑踏

       

       

       

      雑多に混ざった音の中で、シルフィーモンは”目を覚ました”。

      そこには、何も無かった。

      シルフィーモンと、間向かってストリートオルガンも友の姿もない風のおじさんだけが立っていた。

       

      「ここは…?美玖達は何処へ!?」

      「心配要りません。お嬢さん方は、己の魂の音色の中に揺蕩っている」

       

      そう返した風のおじさんの姿が掻き消えた。

      戸惑うシルフィーモンの右脇、10m離れた地点にぼうっと姿が現れた。

       

      「風の子、あなたの魂の音色は、どこか不安定ですな。虚無に生き、流れるままに流れたものが不意に止まり木を見つけた渡り鳥の様だ」

       

      再び姿が消える。

      今度は、斜め後ろにその姿が現れた。

      シルフィーモンが振り返る。

       

      「…あなたは、何が言いたいんだ」

      「魂の音色、心の音色には似た旋律がひとつともない。その音色は変わるものもあれば、変わらないものもある。あのお嬢さんの音色には変わったものがなく、側にいらしたあのアヌビス神が如き御方は永久に変わらぬ夜の砂漠の風のよう」

       

      再び風のおじさんの姿が消えーーシルフィーモンの目前に現れた。

      思わず足を一歩退く。

       

      「あなたの音色は、変わろうとしている。変わろうとしながら、惑っている。変化をお望みならば、急ぐことです」

       

      その言葉の直後。

      突然、光が、視界を一瞬覆った。

      それに思わず顔を庇うも、見えた光景に。

       

      「ーーこれ、は…!」

       

      夕陽をどぎつくしたようなデジタル光のネオンに侵食された街並み。

      この街並みはーー新宿か。

      大きな街頭広告すらオレンジの電子光をバックに並んだ黒いヒマワリのシルエットの餌食となっている。

      そして、その街並みを徘徊する、大量のオウムガイに似たモノ達。

      そのモノ達の合間に倒れ伏している大勢の人々。

       

      (あれは…!)

       

      数日前に美玖が言ったものを思い出す。

      オウムガイのようなデジモンが人を襲っているギャラリーを見たと。

      しかし、今、この光景を見て思い出した。

       

      あれは……。

       

      「……あなたは、この光景も目の当たりにしたのか」

       

      そう、風のおじさんに訊ねる声は、乾いていた。

       

      「ええ」

       

      返ってくるいらえ。

       

      「私が目の当たりにしたのは、ロサンゼルスででしたが…多くの魂と心の音色が奪われた、いえ、”喰われた”」

      「………」

       

      シルフィーモンは沈黙しながら現実と電脳が混ざり合う光景を見た。

      そして、一つの答えに至る。

       

      「もしや、奴らが、また来る?」

      「あなた方の通り道は予兆に満ちておりました」

      「デジタルポイントのことか」

       

      シルフィーモンは苦々しげに呟いた。

      イグドラシルが強制的に現実世界と直通するデジタルポイント全てを閉め出したのはそのためか。

      しかし、今回の件でそれを知らされていない。

      ということは。

       

      「現実世界に、美玖に危険が及ぶ…!」

       

      “奴ら”の危険性は熟知している。

      “奴ら”の存在によってかつてデジタルワールドは壊滅寸前にまで追いやられた。

      現実世界も、おってデジタルワールドと同じ運命を辿りかけた。

       

      「あなたの音色は彼女の音色と重なっている。まるで、淑女を守る騎士のように。その音色をただ守るための音色のままでいるべきか、それ以上のものへ変わるべきか。迷いはそれです」

       

      全く、わからない。

      この男は一体何が言いたいのか。

       

      「なぜ、私に用があるんだ」

      「あなたの周りを巡る風は常に変わっている。それがこのストリートオルガンの音色にも変化を及ぼすのです、風の子」

       

      気づけばシルフィーモンと風のおじさんの間にストリートオルガンが現れていた。

       

      「私は、全てを投げうちこのストリートオルガンと音色に魂を売りました」

       

      風のおじさんは言いながら、オルガンの脇を抜け、シルフィーモンの手を取った。

      皺だらけの手だ。

      シルフィーモンの手に、ストリートオルガンのハンドルを握らせる。

       

      「あなたの風の音色を一度聴かせて頂きたい。それが答えです」

       

      さて、どうしたものか。

      そんな面持ちで、ハンドルと風のおじさんを交互に見やっていたが。

      観念したように、シルフィーモンはハンドルを握り、回し始めた。

       

      ーー聴こえてきたのは、文字通り風の音だった。

      溪谷に吹くような、か細くも吹き荒ぶそれ。

      とてもストリートオルガンから流れるとは思えない。

      ハンドルを回しながら、シルフィーモンは風のおじさんを見た。

       

      「……これが、私の音色とやらなのか?」

      「そうですな。この風は変わる機会を待っている」

      「変わる、機会?」

      「心当たりはありませんかな?」

       

      風のおじさんの言葉にシルフィーモンは首を横に振る。

       

      「いや……」

      「そうですか…」

       

      風のおじさんの言葉を待たず、シルフィーモンはハンドルを回す手を止めた。

      か細くも荒ぶる風の旋律はピタリと静まる。

       

      「……結局あなたは、私に何を言いたいんだ」

      「あのお嬢さんの事です」

       

      どくん、と胸の奥が疼いた。

       

      「…美玖のことか?」

      「あの演奏の時に、彼女の音色が聞こえてきましてな」

       

      どくん、と心の臓の奥が響いて。

       

      「彼女の音色は、鈴のように心地良かった。…だが、掻き消されそうなほどにか弱く、可憐じゃ」

       

      風のおじさんの言葉に心落ち着かぬものを覚える。

       

      「あなたの魂の音色が、彼女の音色を守っていたのが聴こえたのです。ですが、その定義が揺らいでいた」

      「……」

       

      それを聞かされて、思い出した。

      フェレスモンに嵌められて美玖を連れ去られ、更には記憶を奪われた彼女を目の当たりにした時の感情。

      あの一件以降、美玖を見る眼が変わってきている自覚はあった。

      …そのことを言っているのだろうか。

       

      「……イグドラシルは現実世界がどうなろうと構わない」

       

      以前までは、自分も他者に対してそうだった。

      しかし。

       

      「…契約上とだけ思っていたことだったが、今はそうも言えなくなっている」

       

      イグドラシルが現実世界へ攻撃を予告した時間まで、残り二週間。

      しかも、タイミングの悪い事に悪夢の予兆が迫っている。

       

      「今は、ただ、彼女を守る。ただそれだけだ」

       

      そこで何かが砕ける音がした。

      意識を引き戻され、視線を感じて辺りを見回す。

      美玖、ラブラモン、風のおじさんとサウンドバードモンの視線が集まっていた。

       

      「しるふぃーもん、だいじょうぶ?」

       

      ラブラモンが目をぱちくりと瞬かせる。

       

      「大丈夫…ではないかな。夢を見ているような気分だ」

       

      舌打ちしかけながら、シルフィーモンは頭を押さえる。

      正直な話、信じたくない真実もあった。

       

      「…今ので、私への用事は、済んだんですね?」

      「ええ」

       

      問いに返される答えで、大きなひと息をついた。

       

      「大丈夫?顔色、なんだか悪いけれど…」

      「気にしないでくれ。それより、依頼の件を彼に」

       

      シルフィーモンの言葉にうなずき、美玖は急ぎデスクに収納していたバインダーを持ってくる。

       

      「風のおじさん」

       

      バインダーを胸に、美玖は尋ねた。

       

      「私達は、貴方をドイツのミュンヘンでお見かけしたというある女性のお孫さんから依頼を受けて捜していました」

      「おお…」

      「その女性は指輪をなくしています。貴方のお手元に同じ指輪はありませんか?もしあれば、念の為確認をさせていただきたいのですが」

      「指輪…ですか」

       

      黒いコートをまさぐる音。

      皺だらけの手が取り出したのは、キャッツアイ特有の縦一すじの光条が入ったエメラルドの指輪……

      間違いない。

       

      「その指輪です、依頼人とその母親からその指輪について貴方へお伝えしたいことがあるのです。依頼人のお祖母様が残した、貴方宛ての手紙が、ここに」

       

      美玖は言いながら取り出した。

      あの手紙を。

       

       

       

       

       

       

      手紙はドイツ語で書かれており、依頼主の配慮か日本語による訳文が添えられていた。

       

      『風のおじさま。貴方は今何処にいらっしゃいますか?私が再び貴方にお会いする前にこの手紙が届いていたのなら、私は既にこの世にいないでしょう』

       

      字は女性らしい柔らかさであるものの、掠れていた。

       

      『貴方へ想いを伝える為に握ったこのペンは、今も私の手の中で震えています。ですが伝えなくてはいけません。どうかご容赦を。私は、かつて一人の男を愛していました。その人はとても貧しかったけれど、優しい穏やかな人柄で音楽の大好きな人だった』

       

      …音楽。

      読み上げながら、美玖は風のおじさんの脇にあるストリートオルガンを見た。

       

      『ある春の日でした。その日から彼は姿を消した。置き手紙もなく、内緒にしていた逢瀬もあって、誰にも彼の足跡(そくせき)を聞けないまま終わった』

       

      それから4、50年。

      両親の勧めで良家の生まれの男性と結婚した彼女は、結婚を約束した証であった指輪を密かに持っていた。

      ……大事な思い出の証として。

       

      『私が貴方のストリートオルガンを聴いたのは、60歳の時。貴方の噂を知らない人は一人とて、ミュンヘンにはいませんでしたが直に出会ったのは初めてでした。とても、夢のような時間でした。愛していた彼とのひと時を思い出してしまうほどに』

       

      その時、風のおじさんの、黒いハットに隠れていた目が大きく見開かれた。

      構わず、手紙を読むことを続けた。

       

      『夢のようなひと時からの帰り、私が指輪をなくした事に気づいたのはその時でした。けれど、不思議なこともありました。私は、その事実を、悲しいとも落胆ともとらなかった。感じなかったのです。それが、長い事、不思議でたまりませんでした』

       

      「……おお……」

       

      皺だらけの顔を伝うもの。

       

      『それが理解できた今、私は病床に伏し幾ばくかの余命を待つばかり。なので、お願いがあります。もし、貴方が私の大事な指輪を持っていたのなら。どうか貴方の懐にいつまでも仕舞っておいてください。この指輪を返しても、私には貴方の思い出という忘れ形見があります』

       

      …忘れ形見?

       

      『もう私には、この想いへの未練はありません。生きている間にもう一度貴方に会えて良かった。 愛したアルフレッドへ エッダより』

       

      手紙を読み終え、短い時間の間沈黙が続いて。

       

      「………どういうことだ」

       

      沈黙を破ったのはシルフィーモン。

      風のおじさんは、咽び泣いていた。

       

      「…風のおじさん、いえ…」

       

      アルフレッドさん。

      美玖の言葉に、風のおじさんはハンカチで涙を拭った。

       

      「貴方が、依頼人のお祖母様が愛した人だったのですね」

      「……ああ。盲しいてしまったこの目ではもう見えなんだが、そうか。エッダに贈ったものでしたか」

       

      言いながら、手の中で輝くキャッツアイのエメラルドへ目線を下げる。

       

      「この指輪は、私が、お金を貯めて彼女への贈り物に買ったものです。エメラルドは、エッダの大好きな石でした…」

       

      貧しかった、という情報からして、一生懸命に働いたのだろう。

      彼女のために。

      それが、なぜ。

       

      「なぜ、彼女と結ばれなかったんだ?人間はそこまで恋した相手よりも他の何かを優先して選ぶのか?」

       

      シルフィーモンの問いに、風のおじさんは困ったような声音になった。

       

      「うむ、貴方の仰る通りです、風の子。うむ、…若かった頃の私がその問いを聞いていたら、或いは」

      「…シルフィーモン、人間の恋愛ってのはね……私も、経験がないからわからないけれど。好きだから結ばれるって簡単なことじゃないの……身分違いとかの恋なんて当時からしたら、なおさら」

       

      美玖は言い淀みながら、風のおじさんを見た。

       

      「……うむ、言わなくてもわかっています。本当に大事な物がわかった時には、すでに遅かった。それだけの事です」

      「…本当に、大事な物…」

      「エッダにはエッダの人生があり、私には私の人生がある。貴方方デジモンと呼ばれたものには難しいでしょうが」

       

      その言葉に、シルフィーモンはうつむいた。

       

      「確かに、指輪は受け取りました。さらば、我が愛………」

       

      再び、風のおじさんはすすり泣きだした。

       

      「ギュー…」

       

      サウンドバードモンが心配げにすり寄る。

       

      「大丈夫、大丈夫だから心配しなくていいんだよ。……うう……エッダああ……」

       

       

       

       

      ーー

       

       

       

       

      ーーーおや、あの人間が来ていたのか。

       

      探偵所へ入り込んだヴァルキリモンが、ラブラモンの後ろからその様子を見ていた。

       

      「いきなり後ろから声をかけるんじゃない。…あの人間を知っていたのか?」

      ーーー数日前の、朝にね。

       

      ヴァルキリモンは言いながら泣いている風のおじさんを見た。

       

      ーーー君から見て、彼はどう見える?アヌビモン。

      「見えるも何も。魂そのものが最早人間のものからほど遠く変質している。あの楽器が、そのようにしてしまったのだろうな。あの男は、現世と幽世の狭間にいるのだ」

       

      小声で答えながらラブラモンはストリートオルガンを見る。

      魂が人のものから遠ざかってしまったことで、何百年も彷徨い続ける末路となるのだろう。

       

      ーーーそんな事もあるんだな、この世界は。面白いものだ。

       

      ヴァルキリモンは言いながら、風のおじさんを眺めた。

      ラブラモンも、ため息をつく。

       

      ーー別れはまもなくだった。

       

      その別れは、美玖達を唖然とさせるものだった。

       

      「では、私はこれにて失礼します。まだこの日本に留まるつもりでいますが、もしまたどこかで出会うことがあれば」

       

      よいしょ、と目の前でストリートオルガンの中に入る風のおじさん。

      サウンドバードモンも一緒だ。

      それに開いた口が塞がらないうちに、ストリートオルガンの上部の蓋が閉められる。

       

      「…あの、そのままお帰りになるんですか?」

      「ええ、ここが私の家のようなものですのでどうかお気になさらず」

      「そういわれても…」

       

      困惑した美玖達だったが、それをさえぎるようにどこからともなく風が吹いた。

       

      「…!」

       

      視界をさえぎるように吹く風に思わず顔を庇ったも束の間。

       

      「いない…」

       

      影も形もなく消えたストリートオルガン。

      ヴァルキリモンはひそひそとラブラモンへ声をかけた。

       

      ーーー私が彼に会った時も、あんな風に出てきたんだ。本当に不思議な人間だったよ。デジタルワールドのどこを探したってあんな人間に出会ったデジモンなんていないさ。私の姿が見えていたようだし。

      「しかし、ひとつ間違った生き方をしただけでありふれた人間としての生き方が出来ぬというのは、やりきれないものがあるな…」

       

      ラブラモンも複雑な心境を述べる。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      ………それから二日後。

      杏奈は探偵所に訪れ、そして結果報告と風のおじさんが去る前にと撮ったカラー写真が彼女に手渡された。

       

      「……そうでしたか。風のおじさんの素性は、祖母の若かりし頃の恋人…だったんですね」

       

      カラー写真と、そして手元の白黒写真を見比べて、杏奈はため息をつく。

      カラー写真の方に写った、小さな美しいエメラルドの指輪を見て。

       

      「でもこれで、墓前へ報告に行けます。母にも伝えなくては。どうも、ありがとうございました」

      「いいえ、こちらにとっても今回は、不思議な出会いでした。お母様にも、よろしくお伝えください」

       

      その時である。

      玄関が開かれたのは。

       

      振り返る一同。

      歩いてきたのは、60歳程の気品ある容姿の女性。

      その女性を見た美玖が、あっと声をあげた。

       

      「三澤警察庁長官!?」

      「五十嵐さん、お仕事中でしたか。これは失礼しました。時間を改めますわ」

       

      涼やかな笑みを唇に浮かべ、踵を返しかける三澤に杏奈が声をかける。

       

      「いえ、私の依頼は済みましたので大丈夫です。どうかお気になさらず」

      「そうでしたか、これは拙い…甘んじさせていただきます。ありがとう」

       

      杏奈に、三澤は振り向き、うなずく。

       

      「では、これにて失礼します」

       

      杏奈が去った後、美玖は三澤を客室へ案内しようとした。

       

      「いいえ、用件は、今ここで申し上げますわ。……五十嵐さん」

       

      三澤の声に厳格なものが交ざる。

      シルフィーモンは身体が強張った。

      目の前にいるのは本当に人間だろうか。

      そう思わせるほどの威圧感を彼は覚えた。

       

      「あなたを、本日より私の権限で例の中国人により形成された組織の調査班に招集します」

      「……え?」

      「元SITであるあなたの働きを、現場でもう一度見せていただきたい。……お分かりですね?」

       

       

       

       

       

       

      ………To be Continued

       

       

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    • #4104

       ヴァルキリモンの語りから始まりつつ、その姿を見える不思議なおじいさんを巡るこれまた不思議なお話でした。ストリートオルガンによっこいしょと入ってそのまま消えるとは儚くも奇妙な物語、サウンドバードモンも含めてではございますが、この世界ではちょっとしたボタンのかけ違いによって人の身を逸脱してしまうのか。
       しかしそれでも半世紀以上にも渡って秘められてきた思いが確かに届いたことは良かったと言えるでしょう。
       
       ここまで現場にいる先輩の刑事さんという目暮警部殿的な立ち位置しか描かれてこなかった阿部警部も初めて家庭状況が語られましたね。ブイ太郎がいいキャラですが密かに重い……。
       今回のどこかフワフワした足元が覚束無くなりそうなファンタジックな雰囲気の一方で警部殿は勿論、シルフィーモン、ヴァルキリモン、そしてラブラモンと全てを見通すかのような風のおじさんの言葉で心を動かされていく。
       シルフィーモンは主人公の一人なので大丈夫かなとは思うのですが、シルフィーモン以外のキャラが今回のように迷っている、変わり始めているみたいな指摘をされたらアカンこれ死んだわと思わざるを得ない凶悪な死亡フラグを建てられた感すらあります。
       そして最後に長官殿ォォォォ!!

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