White Rabbit No.9 庭 – Ⅱ/サイファイ・カルト

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    「……」

    「物珍しいのはわかるが、そうじろじろ見るのは少し失礼だぞ」

     

     その声を聞いて、僕の心ははっと現実に引き戻された。ここは駅のほど近くの商店街、そのどん詰まりにあるドトール・コーヒーだった。世界の終わりとその前で唯一変わりのない、僕のお気に入りの場所だった。二つ隣の席では見慣れた顔の老婆が、今日もお冷の入ったグラスにはずした入れ歯を突っ込んで、読書に耽っていた。

     

    「すみません」

    「ン、いいんだ。不作法でいえば、カフェで帽子の一つも外していない私も大概だしな。それに、君の言いたいことも分かる」

     

     そういって、目の前のくすんだ銀色の鉄人──アンドロモンは自分のもとに置かれたコーヒーカップを持ち上げた。

     

    「我々もこの世界では人間と同じものを食べ、飲む。私はこのコーヒー、というのが舌に合う。いや、実際向こうではラーメンばかりで辟易していたんだ」

    「ラーメン」

    「たまたま近くに湧いていたものでね」

    「デジタル・ワールドって、そうなんですか」

    「まあ、そんなところだ」

    「それであなたは、この世界に来た。それで」

    「警視庁に配属された。“スクルド・カンパニー”は自分たちの技術を積極的に政府に売り込んでいる。彼らの目的はこの世界での営利追及だからね」

    「そして人間は何人も解雇され、路頭に迷ったり、首を括ったりする」

    「ン……、その通りだな」

     

     そういう彼の眼はどろりと虚ろなままだったが、声は本当に心を痛めているように感じさせた。この奇妙なアンドロイドの前で既に警戒を緩め始めている自分に気づき、僕は頬の裏側を噛む。相手は未知からの侵略者だ、いくらフォークト・カンプフ法も必要がないくらいわかりやすい機械の見た目をしているからって、相手がウソをつかないとは限らない。

     

    「他人事みたいに言うんですね。あなただって“カンパニー”の一員のはずだ。正直、まだ混乱してるんです。“カンパニー”だの、“コレクティブ”だの。機械だの悪魔だの、あと、なんでしたっけ? さっきあなたの言ってた……」

    「“ウィルス・バスターズ”だ。デジタルワールドの均衡を保つ組織」

     

     アンドロモンは息をついて、コーヒーを啜る。彼は指の先でちょこんとカップをつまんでいた。人間離れした手の大きさもあって、エスプレッソでも飲んでいるみたいだった。

     

    「私もそこにいた」

    「そんな名前は聞いたことがない。それにあなたは機械だ。“カンパニー”の一員であることをさっきも否定しなかった」

    「そうだ」彼は頷く。

    「繰り返すが、 “バスターズ”はデジタルワールドの均衡を保っている。元々は“天使”の組織だったんだが……」

    「“天使”?」

     

     僕は首を傾げた。

     

    「“天使”のデジタル・モンスターはいない。そう聞きました」

    「そうだ。いない」

    「どうして?」

    「その問いは、今日の君の質問の中で一番簡単だ」

     

     彼はカップを置いた。かちゃり、という音がいやに大きく響いた。

     

    「死んだんだよ。一人のこらず、根絶やしにされた。“コレクティブ”にね」

     

     ●

     

     アンドロモンの話では、何百年も前に、“ウィルス・バスターズ”と“ウルド・コレクティブ”──天使と悪魔は大きな戦争をしたのだという。そして、一部の天使が堕ちて寝返ったのをきっかけに、悪魔が勝った。神々の軍勢は、その純白の羽の一枚に至るまで焼き尽くされた。

     

    「そのときに“コレクティブ”は、悪魔と堕ちた天使以外にも、自分たちと同じ闇に生きる者を組織に取り込んだ。たとえば、不死者であるとか、魔人であるとか、幽霊であるとかな」

    「節操がないな」

    「まあ、今となっては皆まとめて“悪魔”だ。ともかく、そうして軍勢を集め、相手の裏切りも手伝って、悪魔は勝った。完膚なきまでに。」

    「神も負けた?」

    「“神”なんてものはいない。神のごとき力を持つ存在の話は、デジタル・ワールドにはいくつも伝わっているが、少なくとも天使たちの上にはいなかった。彼らは、いないものに仕えることを目的として組織された軍隊だった」

    「珍しいですか? 人間はみなそうですよ」

    「ン、そうだ、ある意味では、“天使”たちは最も人間らしい存在だった、らしい」

     

     僕は肩をすくめた。その仕草に眉を上げ、アンドロモンは話を続ける。

     

    「天使はいなくなったが、“バスターズ”の活動は続いた。世界には正しいものも、正しい行いもあると信じるデジモンたちの手によって。とはいえ彼らにはリーダーはいなかった。天使はどこにもいない、権威を持って彼らを導く存在がいなかった」

    「人間もみなそうですよ」

    「君の言葉は正しいが、現実感に欠けている」

    「世間知らずの高校生ですから」

     

     今度はアンドロモンが肩をすくめる番だった。

     

    「ン、とにかく彼らには指導者が必要だった。だから、どでかいコンピューターを頭目に置いたんだ。常にこの世界の為になる最適な答えをはじき出す、弩級のコンピューターを」

    「……」

    「それは実際うまく機能した。デジタル・ワールドの均衡は“カンパニー”や“コレクティブ”が混沌を望もうと、根本では揺らがなかった。だが、この世界へのゲートが開き、機械と悪魔が侵攻を宣言した時──」

     

     彼は苦々しげに息をついた。

     

    「──我らがコンピューターは“静観”を出力した。あの人造神の計算には、他の世界と、そこに住む者が抜けていた。厄介な二大勢力がよそに行ってくれて、嬉しそうでもあったよ」

    「それで、あなたは“バスターズ”を抜けた。この世界の、人間を守るために?」

    「ああ。私は機械系のモンスターでもあるからな。“カンパニー”に加わってこの世界に来た。そして、この世界の治安維持機関への配備を志願した。私一人で何ができるわけでもないかもしれないが、少なくとも私にはここに来ることが可能だったわけだからね」

     

     そう言う彼の眼は死んだ魚のように濁っているなりにまっすぐで、言葉には確かな信念が宿っているように感じられた。

     

    「それで、警察、警視庁ですか」

    「そうだ」

     

     僕は自分のコーヒーをぐいと飲みほし、首を振った。

     

    「それで? そんなあなたが、なぜこんな田舎町に来てるんです。なんでつばめに関心があるんです」

    「ン、本題、だな」

     

     アンドロモンは深く息をついた。
     

    「ハルキくん、『選友会』という名前を知っているか」

    「いいえ、なんですか」

    「宗教団体だ。正式名称は『選ばれし者たちの友の会』。とはいっても法人化はされていないし、広く知られてもいない」

     

     宗教団体、その言葉を聞くと、奥歯にセロリの葉が挟まったような感じがした。

     

    「歴史は古い。始まりは30年以上前に東京で発足した小規模なヨガの同好会だったらしいが、だんだんとスピリチュアルな面が強調されていってね。やがて東京に事務所を残したまま、東北の田舎町に土地を購入。一部がそこに移住して小規模なコミューンを形成した。名称を今のものに改めたのもその頃だ」

     

     つばめの言葉が脳裏をよぎる。畑もあって、皆で自給自足の生活をしている。大きな、赤い屋根の家。

     

    「それだけなら、歪ではあるが、無害なカルトだ。だが、デジタル・モンスターの侵攻をきっかけに大きく規模を拡大した」

    「どうやって」

     

     自分でそう聞いてから僕は苦笑した。おい、世界の終末なんだぞ。きみ。その表情の変化を鋭敏に読み取ったかのように、アンドロモンも頷く。

     

    「我々は、人間が恐れる者の姿を取って、この世界に来訪した。“カンパニー”の面々は高性能な機械だが、見た目は決して美しくはない。カルトの文明批判を加速させるにはうってつけだっただろう。“コレクティブ”の方は、もっとわかりやすい。昔から語られる悪魔の姿そのままを取っていて、おまけに天使の席は、救いの席は空席だ」

    「自分たちの教えを証明して、おいしいところは残しておいてくれた。『私たちの言っていることは本当だったでしょう、救いも本当なんですよ』って言ったもの勝ちってことですか」

    「そうだ。宗教じゃないよ。ビジネスの問題だ。ここに来る前に東京を一通り見たが、どこもカルトの勧誘まみれだったよ。日本はまだいい方で、世界中の都市がそうなってる」

    「みんな暇なんだ」

    「そう思うのは君が若いからだ」

     

     そこまで言ってから、アンドロモンは、今の言葉が不用意に僕のプライドを刺激していないか気にするように、軽く咳払いした。そのあまりに人間臭い仕草は、かえって僕を落ち着かなくさせた。

     

    「ン、とにかく、そんな中で『選友会』も勧誘の手を広げた。とはいえ、サイエンス・フィクションを扱う作家を預言者として扱う教えは有象無象のカルトにはない特異なものだったがね。20年前のコミューン形成時には、もうその教えは固まっていたそうだ」

     

     20年前、1998年。僕は思いを巡らせる。サイエンス・フィクションというものは、今よりもいかがわしかっただろうか。SFの歴史の中で最も洗練された作品たちの大半は既に世に出ていただろうし、一年後には『マトリックス』なのだ。きっと今よりSFのイメージはイカしたものだっただろう。

     

    「今回の災害──あなたたちとの遭遇を、SF作家たちは予言していたといっているわけですか」

    「ン、そうだ。馬鹿げた話ではない。チャールズ・マンソンは『異性の客』の影響を受けていた」

    「詳しいんですね」

    「ン、半年あった。人類史に残る著名な犯罪者の逸話は大体覚えたよ」

    「それでも『幼年期の終わり』が今回のことの予言だって言うなら、『遊星からの物体X』は神の声を記録したフィルムだ」

    「ン、後で見ておこう」

     

     アンドロモンは自分のこめかみを叩いた。きっと脳内のスーパー・コンピューターがメモパッドを開き、そこにいまの内容を記録したのだろう。律儀なアンドロイドだ。

     

    「それに、彼らには強力な後ろ盾があった」

    「後ろ盾?」

    「“コレクティブ”だよ」

    「なんでデジタル・モンスターがカルトの味方をするんです」

    「悪魔たちが宗教の言い分を証明したのと同じだ。悪魔たちにとっては、宗教者はデジタル・モンスターの存在を、人間向けにかみ砕いて広めてくれる、権威と金を持った友人だったんだ」

    「ニュースで見ました。機械たち、カンパニー”は圧倒的な技術力と実際的な知性があって、それでも人間たちの企業を駆逐することはなかった。あくまで技術供与と取引を申し出た。あなたたちは最初こそ人間たちの抵抗を受けて、仕方なく武器を取ったけれど、目的はあくまで自分たちを人間の社会に認めさせ、組み込んでもらうことだったと」

    「欺瞞に聞こえるが、まあそうだ。“カンパニー”がシステムを利用して人類社会にしみ込もうとしているのと同じように、“コレクティブ”は信仰を利用しているんだよ」

     

     システムと信仰。僕は胸の内で繰り返した。クズのSFみたいな現実が、理屈だけは難しいものを使っているクズのSFに進化したような気がした。

     

    「でも、まだ分からないです。最近力を伸ばしたカルトがそんなにあるっていうなら、なんで『選友会』なんです? なんでつばめなんです?」

     

     アンドロモンは言葉では応えず、横に置いていた鞄をがさがさと漁り、ホッチキスで留められた資料を取りだし、2人の間に置かれた低いテーブルに放った。

     

    「夏ごろに警視庁への配備が決まってこのかた、私は公安部の仕事をしていた。まだ民間人と多く顔を合わせる職務に就くべきではないとの判断で、ほとんどはデスクワークとオフィスでの情報分析だ」

    「適材適所とは言えそうにないですね」人間離れした速さで僕を追い越したアンドロモンの健脚は、現場でも大いに活躍するはずだ。

    「ン、まあ、一時的な措置だからな。それに、この電子頭脳は情報収集、記録にも役立つ」彼はまた自分のこめかみをとんとんと叩いた。

    「だから私は捜査員が持ち帰ったり、警察に寄せられる情報を収集、記録し、分析していたわけだ。そうしたら、それがきた」

     

     その言葉を受けて、僕は机の上の資料を手に取る。それは、A3の薄い用紙で、一般的に良くある履歴書の体裁を取っているように見えた。左半分に写真とプロフィール、経歴が書いてあり、右半分には資格や備考が入る。そういうよくあるやつだった。

     僕の視線は、その写真と名前に吸い込まれた。もうすっかり見慣れた顔のはずなのに、個性を取り払う装置を通して記録されたその目や口や耳や鼻は、それが連動して動く有機体として一つの眩しい笑顔をつくるとはとても想像できなかった。そしてそれ以上に、彼女の名前には聞きなれない付属物がくっついていた。

     

    「……『才原』つばめ。つばめの苗字ですか?」

     

    「そうでもあるし、そうともいえない。サイハラは『選民会』の教祖のラスト・ネームだ。教団のコミューンで生まれた子どもは実の親とは切り離され、教組の子どもとして育てられる。戸籍の登録はされない。教育はすべて教団内で完結している」

     

     僕は首を振った。よくわからないが、そういうすべてとサイエンス・フィクションは両立するのだ。

     

    「下を見てみろ。彼女とコミューンの外の世界の接触記録だ。まあ、一部はな」

     

     言われた通り、僕はつばめの写真の下を見た。たしかに一部、どこそこに行った、という記載が細かく日付と共に記されている。社会科見学、とつばめが言っていたのを思い出した。みれば5年前には酷い皮膚炎で施設外の病院を受診している。完璧に外界と隔絶されているわけではないらしい。

     

     けれど、それよりなにより目を引くのは、一つの未来の日付だった。

     

    「2018年、12月25日、クリスマスですか。予定は……『導き手』?」

     

     簡潔で予言めいた、他の記録とは一線を画すその言葉に、僕は首を傾げた。

     

    「ああ、そうだ。もっとも、クリスマスは彼らにとって意味の或る日ではないが」

     

     アンドロモンは淡々と話し続ける。

     

    「そこで私は初めて、この奇妙なカルトの存在を知った。どうにも気がかりでね。“カンパニー”に情報を求めたんだ」

    「あなたの所属元に? なぜ?」

    「言ったろう。カルトは“コレクティブ”と結びついている。“カンパニー”も、競合勢力の取引相手に関する情報は集めているだろうからな」

     

     いちいち理にかなったことを言うアンドロイドだ。僕はため息をつく。

     

    「私は名前を伏せた上で、このファイルを“カンパニー”の上司にあげた。私が“カンパニー”の一員としてこの世界に来た経緯は彼らにも知られている。正直お互いに仲は良くないんだが、この時ばかりは妙に返事が早かった。それも、命令付きだ」

    「返事は、なんて?」

    「『このファイルが示す人物を、12月25日までに確保しろ。警察でもなんでも、保護していればいい。絶対に“コレクティブ”には渡すな』と」

    「……」

     

     僕は黙ったまま、その言葉を何度も頭の中でかみ砕いた。頭痛がしただけだった。田舎町の、ちょっとヘンな家庭環境の、僕の好きな女の子に、ニュースの向こうの機会や悪魔の化け物が強い関心を寄せている、なんて。

     

    「このファイルを持ってきた同僚はもともと国内のカルトの監視が担当でね。東京にいる教団内の情報源が、決められた手順を踏まないと危険を冒して、大急ぎで送ってきたと言っていた。そしてそれ以降、連絡が途絶えた、ともな」

    「……」

    「同僚は情報源の関係者を装って教団に接触した。私も同行したよ。身を隠して、後ろに立っているだけだったがね」

     

     ●

     

    「ええと、そちらの方は?」

     

     柔和な笑顔を張り付けた男が、汗をぬぐいながら刑事に向かって問う。無理もない、刑事の後ろにいたアンドロモンは、顔を隠した大男の恰好をしていて、目立たずにはいられないはずだった。

     

     刑事は苦笑いをしながら、それでもスムーズに筋書き通りに話を進める。

     

    「ああ、いや、──さんの親族ですよ。私はその弁護士。遺産に関わる話ですからどうしても同席したいと」

    「はあ、なるほど」男はまた汗をぬぐった。

    「ええと、──の遠縁の親戚の方が亡くなられて、──が遺産を一部相続することになったと。ほう。これはお悔やみを」

    「いえ。それで、──さんは」

    「ああ、いえ、会えないんです。彼女はもう『導き手』になりましたから」

    「というと」

    「あー、いえ、こちらの言葉でしてね。特別な祝福を受けて、現世とは離れた場所で、心の平穏を手にすることを言います。導かれる側から、我々を導く側になるんです。名誉なことなんですよ」

    「あ、ええと。しかし金銭に関することですので、本人の署名がですね」

    「いえ、彼女は教団の教えで個人の資産の所有は禁じられていますから」

    「その言葉を、本人の口から聞ければ、我々も引き下がれるのですが」

    「無理ですね。もう導かれていますから。それでも、というのでしたら、教団への寄付の案内をさせていただきます。同じことですよ」

     

     男はそう言ってにっこりと笑い、とめどなく流れる汗を拭きながら、刑事とアンドロモンを交互に見た。

     

     ●

     

    「導き」

    「そうだ。まあ、粛清のことだろうな」

     

     そしてアンドロモンはファイルを軽くたたいた。

     

    「彼女にもそれが迫っている」

     

     口の中が乾くのを感じた。コーヒーカップを口に運んだが、既に中身は空っぽだった。

     

    「つばめは、死ぬかもしれないんですか」

    「殺される、だ。この2つの違いは大きい」

    「そして、そこにはデジタル・モンスターが関わっていると」

    「ン、正確には”コレクティブ”の連中だ」

    「そしてその理由は、あなたにはわからない」

    「君の言うとおりだ。完膚なきまでに」

     

     アンドロモンはゆっくりと顔を上げ、僕の方をまっすぐに見た。その目に宿った光は、濁ったオートマタのものにしては真摯にも思えたが、その真摯さが僕にむけられたものかは分からなかった。

     

    「それで」

     

     僕はなんとか言葉を紡いだ。喋ることだけが、この馬鹿げた現実に自分を何とかつなぎとめてくれているような、そんな感覚だった。

     

    「あなたは僕に何を頼みたいんですか」

    「分かるだろう」

    「言外に察するような話題じゃない。直接言ってください」

    「ン、そのとおりだな」

     
     
     そういって彼はきっかり3秒、口をつぐんだ。体内時計のねじを巻くのを怠りがちな僕にも、それが正確だと確信できるくらいに、完璧な3秒だった。

     

    「つばめの説得、及び救出だ」

     

     完璧な前置きの割りに、その言葉は妙に安っぽかった。英国のスパイ小説のへたな翻訳みたいだ。コールサイン・ゼロゼロワン、君の新しい任務はつばめの説得、及び救出だ。それから必ずホテルのバーでドライ・マティーニを頼むように。読者が一番見たいのはそこなんだ。

     

    「説得、って、何をですか」

    「当然、彼女の身に危険が迫っていることを伝えて、警察に身を委ねることだ」

    「無理ですよ。彼女は外の世界に好奇心こそ抱いているけれど、別に今の場所を去りたいわけじゃない」

    「無理を通すために語りかけることを、説得と呼ぶんだ」

    「無理を通すなら」

     

     僕は顔を上げて、その穴のような目をにらみ付けた。

     

    「あなたが強硬手段に出ればそれでいいはずだ。あなたは風より速いし、きっと力も強い。つばめは何も座敷牢に入れられているわけじゃない。休日になるとライブを聴きに外に出てくるんだ。さらうチャンスはいくらでもあります」

    「ン、その通りだ」

     

     彼はゆっくりと頷く。

     

    「しかし、それでは彼女は恐怖を感じ、抵抗するだろう。それに、”コレクティブ”が動いている。私が彼女を保護するのに、どんな妨害をされないとも限らない。私と同じデジタルモンスタ―が相手では、妨害への対処に精一杯になって、彼女の安全確保に気が回らないこともあるだろう。そういうときのため、彼女には保護を受け入れ、協力的であって欲しいんだ」

     

     アンドロモンの言うことは、リアルなようでめちゃくちゃだった。彼はめちゃくちゃな世界から、つばめの日常をめちゃくちゃにするためにやってきた、めちゃくちゃなレプリカントなのだ。そして彼は今、そのついでに僕の日常もめちゃくちゃにしようとしている。特に憤りを覚えることもなかったのは、そんなものはとっくの昔に壊れていたからだろうか。

     

    「それでも、なぜ僕が」

    「君以外にできる人物がいないからだ」

    「そんなわけがない」

    「いいか。私は東京で洗脳を受けた”選友会”元信者への聞き取りに立ち会った事がある」

     

     アンドロモンは少しだけ語気を強めた。

     

    「カルトの洗脳は強固だよ。彼らは決して自分の正しさをしつこく売り込まない、周りの世界が間違っていると語る。その認識の方を徹底的にすり込むんだ。ましてつばめは選友会のコミューンで生まれた2世だ。生まれてこのかた教団の洗脳教育を受けて育っている”選ばれし子ども”なんだ。周囲の世界に好奇心を抱くことはあるかも知れないが、心を許すことは難しいだろう。そういうものなんだ。まっさら画用紙に、猜疑心だけぐるぐると厚塗りしたようなものだ」

     

     けれど、彼はまっすぐに僕の方を見た。

     

    「そんな彼女が、ハルキ、君には心を開いている。驚くべきことだよ。私は確信している。彼女を救えるのは君だけだ」

     

     感動的だった。涙を流しても良いくらいだった。

     

    「今のが決めぜりふですか」僕は首を振った。

    「世間知らずの16歳の子どもの英雄願望につけ込もうとしているように聞こえます」

    「ン、私も話しながらそう思った」

     

     慣れないことをする物じゃないな。アンドロモンはくたびれたように背もたれに身を預けた。金属の身体の重さで、椅子がみしりと音を立てた。

     

    「君は賢いな。ハルキ」

    「そう言うあなたは融通が利かない。アンドロモン。僕を利用したいなら、自分で言ったカルトのやり口を使えば良いのに」

    「デジタル・モンスターも抵抗感を覚えることはある」

    「それでも、そうすべきなんだ。あなたは正直なのかも知れないけれど。何から何までカルトの逆をやられたら、かえって信用しづらいよ」

     

     僕はそこで初めて、緊張にこわばった体を緩め、背もたれに身を預けた。まったく信用ならないにも関わらず、僕は目の前の不器用なアンドロイドに好感を抱き始めていた。

     

    「おまけに、あなたは“カンパニー”の一員だ。そうではないように話すけれど、やっぱりそうなんだ。つばめがもしも、あなたたちの競争相手の“コレクティブ”にとって重要な存在だというのなら、あなたたちにとってもそうかもしれない」

    「つまり?」

    「あなたは正義の味方なんかじゃないかもしれない。僕を利用して、つばめを手中に収めようとしている、張本人かもしれない」

     

     アンドロモンはゆっくりと、相も変わらず表情のない目で僕を見た。

     

    「仮にそうだとして、彼女を守るために君には何ができる? さっき言ったとおりだ。君の協力がないのなら、私は無理やりにでも、コミューンから彼女を攫うしかない。ここで私を、力づくにでも止められるか?」

    「できないでしょうね」

    「それなら、やはり、君は彼女についているべきだ。それが、君が彼女にできる最善のことだろう」

    「それなんですよ」

     

     僕は鋭く言った。

     

    「あなたの計画には、僕があなたに同行することが織り込まれているように聞こえる」

    「彼女を連れ出せたとして、私に預けてしまっていいのか? それでは──」

    「付き合いが半年の友人ですよ。そのためにただの子どもが、何もかもなげうって、命を懸けると思いますか」

    「それは、君なら──」

    「そう、僕なら、だ」

     

     沈黙が流れた。

     

    「僕の家のことを調べましたね? 父と、母のことを」

     

     アンドロモンはまた、困ったように頭を書いた。

     

    「ああ、調べたよ。保護対象の周辺人物に、下調べなしで接触するわけにはいかない」

    「それを隠して、あなたは僕に、母を捨てるような決断を迫った」

    「そうだ。気に障ったのなら謝罪する」

    「いいえ、ちっとも」

     

     僕は立ち上がって、自分のコーヒーの代金を机に置いた。それから少し口の中で何かをかみ砕くようにして、やっと言葉を吐きだす。

     

    「他に刑事を呼べばいいでしょう」

    「彼らは人員を割いてくれなかった。というか、私の出動も許可されなかった。首都はあちこちで暴動がおきていてね、地獄の様相なんだ。私はいま、ここに無断で来ている」

    「それなら“カンパニー”に頼めばいい。この件を重要視しているんでしょう」

    「こう言っては何だが、彼らは信用ならない」

    「僕と同意見です」

     

     僕は彼に目を合わせないまま、その横を通り過ぎた。彼への好感はそのままだったが、それでも、彼の手を取るには、僕はあまりにも混乱していた。

     

    「君にしかできない」

     

     アンドロモンは繰り返し言った。

     

     ●

     

     交際14日前の午後、もう季節はすっかり冬で、街から見上げる山はすでに白雪の冠を被っていた。つばめは少しサイズの大きいブラウンのセーターに身を包みながら、それでもなお寒そうだったので、僕にコートを羽織らされていた。それだけ寒くても、僕もつばめもライブハウスの中に入ろうとも、どこか暖かいところに行こうとも言わなかった。

     ライブハウスに通うバンドマンたちの狂熱は、少しづつ冷め始めていた。きっと僕らにとって、あの夏は、少しだけ暑すぎたのだ。忍び寄る冬の空気は、静かで、きりりと冷えていて、僕たちが見ようとしていなかった現実を教えてくれた。

     ニュースでは日々彼らが作り出す新しい社会の青写真が語られ、そしてその一部は、恐ろしいスピードでもって実現していた。その社会は、どこをとっても、僕たちが知るどの時代より優れたものだった。もしかしたら、人間が作ったものではない、という点が一番優れているのかもしれなかった。

     結局のところ、彼らは、そして僕らは、気づいてしまったのだ。世界は終わりなんてしない。全ては作り変えられ、そして人類はより良いとされる方向に進んでいく。僕たちは滅びることなんてできない。僕たちは終わることなんてできない。

     死ぬこともできないまま、僕たちはただ大人になって、この夏のことをちょっとした武勇伝として語ることができしまうのだ。あるものはこの夏を上手に切り売りして、中身のない気の利いたことを喋るだけの悪臭になるだろうし、あるものは酒場でこの夏のことを何百回と語るだけの布切れになるのだ。そして彼らは、自分が悪臭になる方なのか、それとも布切れになる方なのか、はっきり分かってしまっていて、自分と同じ道を行くものと話すのも、そうでないものと話すのも、どちらも苦痛なのだった。

     僕はまだ、自分がどっちになるのかも分からなかった。そしてそれがなぜかも分からなかった。彼らより一年か二年ばかり生きている時間が不足しているというのは理由にならなかった。

     あのアンドロイドの言うとおりにしようか。僕はその可能性を何度も考えた。それはとても心躍ることだった。好きな女の子の手を引いて、非日常への逃避行を始めるのだ。幸い、僕には置いていくような日常ももうない。悪臭にも布切れにもならず、物語の主人公になる。

     

     けれど、つばめはどうなのだろうか。

     

     このままだと彼女は教団に殺される、とアンドロモンは言う。それは間違っていると、僕も思う。けれど僕が手を引いて、彼女をそこから連れ出したからといってなんだというのだろう。彼女は信仰に殉じる機会を失い、奇妙なモンスターの思惑が重なった命がけの道に放り出されるのだ。それを僕が決めるのは、まったくもって身勝手なことに思えた。

     

    「ねえ、ね、ハルキ? はーるーきー」

    「何」

    「私の隣でぼおっとしてるから話しかけたんだよ。考え事してたの?」

    「そう。考え事をしてた」

    「それって、週に3時間だけの、わたしと二人きりの時間でしないといけないこと?」

    「そう」

    「そうなのか。ふうん。へー」

    「悪いとは思うよ」

    「へー、そうですか」

    「本読めばいいだろ。それだって今しか読めないわけだし」

    「まあ、そうですけど?」

     

     彼女はそう言って、そのままその頭を僕の方に預けた。冬の寒さの中、吹きさらしの階段に座っているせいだろうか、小さな耳は真っ赤に染まっている。入浴は毎夜みなでするだけだといっていたのに、この時間になっても、彼女はつんと甘い石鹸のにおいをさせていた。

     そして彼女は僕の貸した本をまた1ページ、ぱらりとめくる。『先生』から与えられる本しか読んだことがない彼女に、僕が何冊か貸しているのだ。意外なことに彼女は読むスピードがとても速かった。教団ではトマス・ピンチョンを読みこなしているというのだから、さもありなんといったところか。「よくわかんないところは、よく分かんないまま読み進めるのがコツだよ」と、前に自信満々で行ってくれた。自信満々で言われても困る。

     今、彼女が読んでいるのは「銀河鉄道の夜」だった。僕に寄り掛かったままだと読みにくいと思うのだけど、彼女は頑なにその姿勢を崩さなかった。

     

    「その姿勢だと読みにくいだろ」

    「読みにくいよ」

    「じゃあやめればいいのに」

    「やめてもいいの?」

    「いや、やめればいいだろ」

    「ふうん」

     

     彼女は一度ぐりぐりと自分の頭を僕の方に擦り付けて、そして姿勢を変えることなく読書を再開した。話が違う、と思った。

     つばめは最近こういうことをする。僕への好意を明確に態度で示した後、僕の顔を見て、いつもの百面相をするのだ。

     彼女に自分の想いを伝えることを、僕はいつでもできるはずだった。なぜって、僕は彼女のことをこんなに好きなのだ。そして彼女は、きっとその気持ちを受け入れてくれるのだ。

     けれどそのたびに、アンドロモンの言葉が頭を過って、僕の言葉は喉元でつかえる。彼女を愛する人間として、その件にどんなふうに向き合えばいいか、僕にはさっぱりわからなかった。思い浮かぶどんな愛の言葉も、彼女を自分の思い通りに引っ張っていくための駆け引きの道具に思えてならなかった。

     つまるところ、僕はあのアンドロイドに腹を立てていたのだ。僕がしたかったのは非日常への冒険ではなく、ただのおっかなびっくりの恋愛だった。その、おっかなびっくりの恋の、とても繊細な局面に水を差されたような気がしていたのだ。

     

    「あ、ため息。どーしたのー?」

    「ため息くらいつくよ。世界の終わりなんだ」

    「ふうん」

    「銀河鉄道は、今どのあたり?」

    「じき、サウザンクロス」

    「そう」

    「悲しい、ううん、寂しい、いや、分かんないな。泣きたくなるはなし」

     

     とん、とん、とん。彼女が自分の言葉に打つ読点は、有機的な音を僕の耳に響かせる。それは、雄弁なピアニストが休符すら音の連なりに組み込むような心地よさがあった。

     

    「ねえ、ね、ハルキ」

    「うん」

    「私は世界の終わりでもこんなに幸せだよ?」

    「……」

     

     きっと死ぬんだ、と僕は思った。そうだ、未来に自分がどうなるのかわからないなら、きっと未来が来る前に死ぬのだ。単純な話だ。

     それは、なんだかとてもいい気分だった。僕は悪臭にも、布切れにもならない。そうなる前に死ぬからだ。そう口に出すとまるでステージで喝采を浴びるような気分だった。街を流れるすべての音は僕を祝福する音楽で、世界のすべての花のにおいが僕の鼻腔をかすめた。誰かが僕の蛹をぐしゃりと踏み潰し、中のどろどろがなにかの形を取る前に、過酷な陽光の下に解き放つ。ファンファーレ、幕切れ、そしてしばしのカーテンコール。

     いっしょに死のう、と、つばめに言ってみようか。僕はうきうきと考えた。それは少なくとも、君を救って見せる、という言葉よりはずっと自然に聞こえた。僕らはこの半年、ずっと歪んだ自殺同好会で過ごしたのだ。世界が終わらないなら、僕は一緒に世界を終わらせるのだ。そうしたら、僕はきっと彼女に、何の裏腹もなく、愛の言葉を言える。そんな気がした。

     

    「ねえ、つばめ──」

    「どこまでも、どこまでも、いっしょにいこう」

     

     僕が口を開いた途端に、彼女が本を持った手をいっぱいに伸ばして、その一節を読み上げた。目の前で光がはじけたような、そんな感じがした。

     

    「ね、ハルキ」

    「……」

    「私たち。どこまでも、一緒にいられるかな」

    「無理だよ」

     

     何かに怖気づいたかのように、僕の声は震えていた。

     

    「君と僕とは、住むところからして全然違うんだ。今を続けることだって難しいかも知れないのに、永遠なんて──」

    「永遠?」

     

     つばめはくすりと笑った。

     

    「どこまでも、ってことばだけで、随分大げさ。そんなに一緒にいたかった?」

    「そりゃあ、そうだ」

    「……」

     

     つばめは僕の肩から頭を起して、こちらを見た。寒すぎるのか、マフラーで口元まで隠した顔は真っ赤に染まっている。

     

    「どこまでもは、いっしょにいられない」

     

     僕は声を絞り出す。

     

    「それこそ、いっしょに死ぬくらいしか──」

    「いいよ」

    「……よくないだろ」

    「言ったのはハルキの方」

    「そうだけど」

    「もう、なにが、言いたいの?」

     

     僕は陸地に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせた。

     

    「ど」

    「ど?」

     

     やっと僕は大きく息を吸った。

     

    「どこまでも、いっしょにいこう、つばめ」

     

     彼女は、首を振った。

     

    「無理だよ。どこまでもは、無理」

     

     そして、にっこりと笑う。

     

    「でも、だから一緒にいたいって思うの」

     

     もう、続きはいいや。そう言って彼女は「銀河鉄道の夜」をぱたりと閉じて、今度は、思い切り、僕の方に倒れこんだ。そして、唇を僕の耳に近づけて、囁いた。

     

    「ねえ、どこへでも、私を連れてって。ハルキ」

     

     ●

     

    「決断してくれてうれしいよ、ハルキ」

    「別にあなたを信用したわけじゃない、アンドロモン」

     

     アンドロモンは、目の前の少年の言葉に、当然だ、とでも言いたげにうなずいた。

     

    「それでいい、君は、彼女のためになると君が判断したことを、なんでもすればいい。私が、君たちを守る」

    「言葉だけ、ありがたくもらっておく」

    「ン、今はそれでいい。一応聞いておくが、お母さまには?」

    「手紙か何か置いていくよ。もとより、あの人の世界にもう僕はいない」

     

     悲しいことを言う。口の中でそう呟き、アンドロモンは染野春樹のことを見る。冬の6時すぎ、あたりは既に暗く、その表情は見えない。

     

    「で、僕たちはどうすればいいんですか」

    「ン、彼女が最後に外出するのは?」

    「12月24日、クリスマス・イブ」

    「ン、彼女が『導き手』になる前日か」

    「教団側からしたら、最後の情けってとこなんじゃないですか」

    「ふむ、まあ、そういうこともあるだろう。その日になったら──」

     

     アンドロモンはそうして、計画を染野春樹に説明した。彼は納得したようにも見えなかったが、暗闇の中でとりあえず頷く。

     

    「それじゃあ、次に会うときは当日ですか。落ち着かないな」

    「半年前から計画を立てていたって、こうなる」

    「そういうものですか」

    「そういうものだよ」

    「……ねえ、アンドロモン」

    「なんだね、ハルキ」

    「つばめと僕を、よろしくおねがいします」

     

     彼はそう言って不意に頭を深々とさげ、踵を返して暗闇の中に駆けていった。アンドロモンはその背中を見送り、ゆっくりと、自分の機械の手を、その、一部むき出しになった汚らしい色の肌の部分を見つめた。

     

    「──いいねえ、健気なものじゃないか」

    「──ッ!」

     

     不意に聞こえたその声に振り返るよりも早く、アンドロモンの手が、がしゃ、という音共に形を変える。次の瞬間、そこにあったのは、闇夜に浮かぶ白熱した刃で。彼はそれを越えのした暗闇へと振るう。……ふるおうとして、止めた。

     

    「おいおい、危ないじゃないか。死んだらどうする」

     

     刃の光が照らしだしたのは、青白い肌の瘦身の男だった。赤、白、青のラインでカラフルに彩られた山高帽を被り、服装もそのカラーの華美なもの、手にはこの闇夜には不釣り合いな、これまた派手な傘を提げている。一見して、大道芸人か、服装にばかり気を使う奇術師、と言ったところだ。

     目の前の相手が人の姿かたちをしていても、アンドロモンはそのさっきを納めることはなかった。

     

    「ここに何の用だ、メフィスト」

    「よくわかったねえ、でも、今はその名前で呼ぶなよ、機械人形クン」

    「そこまで精巧に人に化けられる悪魔を、お前意外に知らないからな。もう一度聞くぞ、何の用だ、メフィスト」

    「その名前で、呼ぶなったら」

     

     そう言って山高帽の男は、指を自分に向けられた刃の刃先に当てる。そうして彼がその薄い唇を開いた──その瞬間、アンドロモンは大きく飛びのいた。自分から3メートルも離れたところに着地し、再び臨戦態勢を取るアンドロイドを、山高帽の男は笑って振り返る。

     

    「大丈夫だよ、ここで君を殺しはしない。そんなことをしたら、何もかも台無しだろう?」

    「……“コレクティブ”の手先としてきたわけではなさそうだな」

    「ボクとあいつらはとっくの昔に縁が切れてるんだ。知ってのとおりね。だから今はもう“メフィスト”じゃない」

     

     彼は芝居がかったしぐさで傘をくるりと回す。

     

    「この世界では“Dr,トラファマドール”と名乗っている。気軽に“ドクトル”とでも呼んでくれ給え」

    「お前が──」

    「つれないな」

    「お前が“コレクティブ”の代表者じゃないというのなら、それを喜ぶべきなんだろうな。お前に邪魔されては、人間を二人救うどころじゃない」

    「そうだねェ、もしそうなら今、君は死んでいた。とはいえ、喜ぶのは早いと思うよ」

    「……」

     

     続けろ、とでもいうように、アンドロモンは刃をおろす。トラファマドールと名乗った男は、ゆっくりと勿体ぶるしぐさを見せた後、その事実を宣告した。

     

     

    「──“ノスフェラトゥ”が来てる」

    「ッ!」

     

     アンドロモンは、目の前の男を前にした時よりも酷く、顔を歪ませた。

     

    「何の冗談だ」

    「冗談じゃないよ。ボクはそんなこと言わない。神代を生きた不死の獣が、この町に来ている」

    「“コレクティブ”で幅を利かせているのは、悪魔や堕天使どものはず、奴らの命令で、“彼”が動くか?」

    「“彼”の都合まではボクは知らないよ。ボクはただ、忠告に来ただけ」

    「……」

    「聞いた話では、あの少女が町に降りて、君たちが逃亡を始められるのはせいぜいが午後の2時や3時からだろう? この季節のこの国では、日が落ちるまでにそう時間はない。2時間、或いは3時間、天気によってはもっと早く暗闇は訪れる」

    「……」

    「急いで走らなくてはねェ。レプリカント。そうしないと──」

     

     彼はさもおかしそうにくすくすと笑う。

     

    「──ばん。“ナイトレイド”で、全部台無しだ。全ての物語が血みどろだ。最悪だねェ」

    「……なぜ、それを私に話す」

    「そちらのほうが面白いからさ。そうだろう? 運命の少女をめぐる、悪魔と機械の戦いだ。こんなに面白いものはない」

    「……」

    「──アァ、その様子だと、君は知らないのか」

     

     トラファマドールはくるくると傘を回しながら、重力を無視したようにふわりと飛びあがり、近くの電線に、ゆっくりと降り立った。

     

    「お前は、それを見に来たというわけか、ドクトル」

    「そういうコト。面白いじゃないか、ネ」

    「……」

    「“カンパニー”も、“コレクティブ”も、人間を滅ぼそうとはしなかった。自分を上位存在として定義させながらも、あくまで共存を目指している」

    「……」

    「分かるだろう、友人。彼らは人間を一種のランダマイザとして見ている。完全でありながら、“完全”で止まってしまっている僕らに、新たな乱数をたたき出してくれると期待している」

     

     アンドロモンは息をつく。“カンパニー”の思惑は彼も知っていた。既に失われ、伝説となった力。

     

    「……そうだな、彼らは人間を資源にするつもりだ。“究極”に至るための、可能性という名の資源にね」

    「それなら、君は?」

    「私は……」

     

     アンドロモンは唇を噛み、ゆっくりと、頭上の男を見上げた。

     

    「彼らを守りたい、と思う。彼らの可能性は美しい。消費するには、あまりにもね」

     

     その言葉に、トラファマドールは高い声でけらけらと笑い、傘を広げた。

     

    「ボクも同感だ。彼らの可能性はすばらしい! 物語として楽しまなくては、あまりにもったいないよ。……いいや、君やノスフェラトゥを含めてかな。期待してるよ。君たちの、物語に、ネ」

     
     
     その言葉と共に彼はふわりと電線から飛び、そのまま、姿を消した。

     

     ●

     

    「今の場所に、名残惜しいとか、そういうのはないわけ?」

    「あるよ、あるからここに連れてきてもらったの」

     

     交際七日前の午後、僕たちは初めて、ライブハウスではないところに来ていた。そこは近くの商店街にある雑貨屋で、地元名産の工芸品や、工芸品とも呼べない数々の品々を取り扱っている。竹で編んだ籠や野暮ったい手芸のぬいぐるみを、それでもつばめは目をきらきらさせて見ていた。

     

    「先生も、皆も大好きだけど、それは大丈夫なんだ。みんな、私が幸せになるのを喜んでくれる、と思う。正直、ハルキの話してくれた話? わたしが死んじゃうって言うのも、いまいち信じられない」

    「話を信じるかどうかは任せるけどさ、ちゃんと計画のこと、秘密にしてるんだよな」

    「ばっちり、わたし、こう見えてうそは得意だから」

     

     彼女はピースサインをつくり僕に向けて見せた。正直、彼女はもう何を言っても何をしてもかわいらしかった。

     

    「ハルキこそ、大丈夫なの? その、あんどろさん」

    「アンドロモン」

    「うん。あんどろさん、連絡とれたの?」

    「言ったろ。待ち合わせの日を設定されてるだけなんだ。以降は安全のため、接触は避ける、らしいよ」

    「ふあんだなー」

    「悪いけど、それにかけるしかない。それに」

    「ん?」

    「アンドロモンが嘘をついていたとしても、僕がなんとか君を連れていくよ」

    「へー。ふうん」

    「な、なんだよ」

    「大好き」

     

     つばめが僕の腕に抱き着いてくる。顔が真っ赤に染まる。そういえば、僕からはまだはっきり好きだとは言ってないな。とすると、まだ、彼女は交際相手ではないのか。早いところ言わなくっちゃな、僕は思った。

     

    「話を逸らすなよな。友達も先生も名残惜しくないって言うなら、今日買いに来たのは誰への別れの品なんだよ」

     

     それが僕が彼女をここに案内した理由だった。別れの品なんて、誰に渡しても危険だし、そもそも外のものをコミューンに持ち帰るのは“先生”に禁止されているらしかった。それがバレてしまっては、来週の決行日の外出許可すら怪しくなってしまう。アンドロモンがいたらきっと反対しただろうが、僕には去り行く場所の思い出を大切にするつばめを止めることはできなった。僕でさえ。母さんへの手紙を書いたのだ。

     

    「うーん、えっとね。女の子。小さな女の子」

    「それは、教団の?」

    「うーん」

     

     つばめは片眉をあげた

     

    「あの子、お祈りの時間にも見たことないんだ。みんなに話したけど、そんな子知らないって」

     

     僕は黙って、彼女の方を見た。

     

    「話すのはいつも夜。わたしの部屋に来るんだ」

    「それって、随分変だな」

    「そう? あの子だけは、私以外と一緒にいるとこ見たことないし。んと、心配で。何か、残して行ってあげたいんだ」

     

     その内容に眉を顰める僕を前に、彼女は小さなぬいぐるみのかごをごそごそと漁り、やがてぱっと顔を明るくした。

     

    「ね、これとか、どーかな。かわいいんじゃない?」
     

     白いウサギのマスコットを手に、彼女は眩しい笑みを浮かべた。

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